月曜日からこんな話題かぁ・・・と思いつつ、これがリアルな現実でもあると思うのでひとまずご紹介。
「大企業の残業に罰則付き上限が導入された2019年4月以降も月80時間超の残業をしている人が推計で約300万人に上ることが総務省の調査で分かった。労務管理の徹底でサービス残業があぶり出され、部下の仕事量が減ったしわ寄せで管理職の残業が高止まりしている。今後は画一的に残業を減らすのではなく、生産性の向上で収益を高め、働き手にも還元していく改革が重要になりそうだ。」(日本経済新聞2020年1月20日付朝刊・第1面)
既に大企業で昨年の4月から、新たな労働時間規制が導入されていることは、今さら改めてご紹介するまでもないだろう。
前記記事の中では、あたかも月100時間を超えなければ良い、かのような書き方になっているが、厚生労働省のスタンスはそんなに甘いものではないし*1、一部の”模範的企業”では、それを受けて「残業=悪」のレッテル張りをしてまで若手社員を無理やり会社から追い出している、という話もしばしば耳にするところ。
だが、それはあくまで非管理監督者の話である。
かくいう自分も、前の会社で10年近く管理職を務めていたが、実労働時間としては、法定労働時間を100時間以上オーバーする月がほとんどだった。
もちろん、管理職とはいえ、会社の勤怠管理システム上は、超勤時間が一定時間を超えると一般職と同じラインで入力制限がかかったりするものだから、タイムカードを意図的にひかずに労働時間をみなしで計算させたり、休憩時間を膨らませて入力したり、もちろん土日祝日は”いなかったことにする”等々のテクニックを駆使して、システムを騙しながら乗り切っており、公式の記録としては、多い時でも50時間超くらいに抑えられていたはずだが、万が一に備えて手元に残していたタイムログを見れば、「締め」に入っていた一年前でもまだ90時間超、さらに一年遡ると100~120時間超、という状況が一目瞭然である。
自分の場合、「労働時間をただガムシャラに抑制する」ことが労働者の心身の健康につながるとは全く思っていなかったし、特にここ数年目立っていた、
「昼間の生産性を上げて何が何でも定時で帰れ」
的な押し付けは、かえって働く者を疲弊させ、ストレスを増すだけじゃないか、と常日頃思っていたクチでもあった*2。
特にホワイトカラー職場の場合、職場にいる時間の長さ以上に、職場にいる時間にかかってくる「圧」の密度こそが、心身異常を引き起こす決定的な材料だったりするわけで、自分が接した多くの事例も、労働時間だけを見ればそれほど突出しているわけではないが、(本人の能力に照らすと)限られた時間の中でこなすには業務の質・量がちょっと厳しかったかな・・・と思うようなケースが圧倒的に多かったから、連日タクシーで帰宅、という状況になろうが、自分のペースで仕事ができている限りは、心身ともそこまでダメージを受けることはないだろう、と思っていたし、実際そのとおりだったのであるが・・・
10年くらい前は、夜9時、10時を回っても、大体フロアにはそれなりの人が残っていた。
毎晩決して楽ではなかったが、皆、へこたれかけながらも夜な夜なワイワイ毒づき、議論しながら仕事をしていたから、それがストレスになるということはちょっと考えにくかった。
それが、だんだん非管理監督者の時間管理が厳しくなるにつれ、職場から人が消える時間は早くなり、21時過ぎにはどのフロアも管理職しか残っていない、という状況になることも珍しくなくなる。
もちろん、それまで22時、23時まで残って仕事をしていた人たちが早く仕事を切り上げるようになった裏では、仕事の進め方から、作業密度の引き上げまで、管理する側も、当の社員自身も涙ぐましい努力をしていたわけで、そこまでしてでも時代に合わせよう、という思いを持っている人々が”早帰り”を演じている間はそれでも良かったのだが、やがて人が入れ替わり、「高密度で仕事をする」スキルがない人々が増えたことで様相は変わってくる。
企業活動の中でこなさなければいけない仕事の絶対量がそんなに大きく変わるものではない以上、「やったつもり」で全くやれていない仕事を残したまま定時で引き揚げていく人間が増えれば増えるほど、それを拾わなければいけない人々の負担は増す。
法務の仕事を志願してやっているたたき上げの人間は、皆、それなりに使命感が強いから、それでも会社の中でこぼれたあれこれを拾い上げてやろうとするのだが、”雑な丸投げ”に対応するのは、それを直接受ける人もバックでフォローする人も骨が折れるし、使命感の薄い「なんちゃってワークライフバランス派」(特に資格持ち)が進出してくるようにつれ、結局は管理職レベルで手を動かして後始末をしなければいけない、という状況も激増するようになった。
そうなってくると、いかに使命感を持って仕事をしている人間でも、さすがに臨界点を超える。
ここ数年は、残業が多いといっても、リモートパソコンを持ち出して環境を変えた中でやることも多かったし、時間的にも本当のピーク時に比べたら3割~5割くらいは楽をしている感覚だったけど、かかるストレスは倍以上。
加えて、会社に日中いる間の貴重な時間は、管理職特有の無駄な行事やら会議やら手続きやらに時間を割かれることへの憤りもあいまって、「こんなところで時間を使うくらいなら、直接やり取りできるクライアントや、何よりも自分のために時間を使った方がよっぽど有益」と思い始めたことが、スピンオフの一つのきっかけになったのは確かである*3。
幸いにも、今は、そんな不毛な時間の過ごし方とは無縁な環境に転じることができたし、だからこそ、この話題を多少は冷静に取り上げることもできるのだけれど、一方で、いろんな会社と接していると、どんな会社にも「球を拾う」「水を運ぶ」役回りで苦労されている人(そして大概は管理職かそれに準じる立場の人々である)がいるんだな、ということに気付くのも確かなわけで・・・。
自分とて、「みんな残業していた時代に戻るべき」なんてことは全く思っていないし、効率的に仕事が回ることで会社の外で過ごせる時間を多くの人が持てるようになるのであれば、それは素晴らしいことだと思うのだけれど、それが一握りの人たちの犠牲の上に成り立つようなものでは決してあってほしくない。
そして、本当に大切なのは、「働く時間を縮めること」を自己目的化してそのために躍起になることではなく、「働く時間の質を高める」ためにどうしていくか、ということなのだ、という意識が少しでも多くの人に共有されることを、今はただひたすら願っているのである*4。
*1:「わかりやすい解説」参照。https://www.mhlw.go.jp/content/000463185.pdf
*2:これももう何度も言っていることではあるが、出さなければいけないアウトプットの質や量が同じなら、2時間残業してでも自分のペースでこなす人の方が、無理やり定時までにこなさなければならなかった人よりも、心身にかかる負荷ははるかに少ない。だから、労働時間上限規制が労働者の保護につながる、と手放しで喜ぶのは凄く危険なことだし、この種の話の裏には「人件費削減」という至上命題を達成しようとする経営側の思惑が常に絡んでいる、ということも看過すべきではないと思う(うがった見方をすれば、様々な手段で正確な労働時間を把握することが容易になり、大企業であればあるほど「残業代を払わない」という手段でコストを抑制することが困難になってきたことが、今般の「強制的残業抑制」法制を陰で後押しした、ともいえる)。
*3:今振り返ると、「生活の質」という面でも。コストパフォーマンス、という点においても、「外」に出る方が圧倒的に良いことの方が多かったわけで、ことこの点に関しては、ズルズルとタイミングを先延ばししたことを悔いるしかない(もちろん人生も仕事もそれだけが全てではないのだけれど)。
*4:さすがにこれを法規制の枠組みの中でやる、というのはあまりに難しすぎるし、残業代未払いの撲滅や、質”も”悪い残業を減らす、という観点からも、あらゆる場面を想定した最大公約数的処方箋としては「量的規制」がもっともすぐれている、というのは認めざるを得ないのだけれど、せめて、働く側のマインドの中にだけでも、何が大切かを考える視点が残っているとよいな、というのが、今の率直な思いである。