「20年」の時の重さと軽さ。

ちょうど「9・11」から20年、ということで、あちこちで回顧する特集が組まれ、SNSなどを見ていても「あの時自分はニューヨークの○○にいた」という告白を目にすることが多い。

自分は、「あの時」どころか、人生の今に至るまでニューヨークという街には一度も足を踏み入れたことがないし、そもそも米国の地にすら、かれこれもう20年近く足を踏み入れていない。

だから、自分の「9・11」の記憶は、リアルなそれ、ではなく、テレビ画面越しにそれをぼんやりと眺めていた極東の島国の一市民のそれ、でしかないのだが*1、それでもこの季節になると何となく胸に湧いてくるものがあるのは、あの「2001年9月11日」前後の日々が人生におけるそれなりのターニングポイントだったから、なのだろうと思う。

・・・で、そのことをしみじみと振り返って書こうと思ったら、実は10年前のエントリーで既に書いていたことに気付いてしまったので、その一人語りはリンク張っておしまい。

k-houmu-sensi2005.hatenablog.com

人と比べてそう誇れることがあるとも思えない人生ではあるのだが、「20代半ばを無為に過ごした」ということに関しては、仕事に勉強に、と溌溂と打ち込んでおられる今の若者の皆さまとの比較ではもちろんのこと、同世代の人間と比べても”屈指”だった。

もちろんあの頃だって、そんな日々がその先10年も20年も続くとはさすがに思っていなかったが、何もなければあと数年はそのまま緩やかな時を過ごし、さらにそのままレールに乗っかって気が付けば今を迎えている、ということだって十分あり得たわけだから、あの前後で起きたことは間違いなく自分にとっての”ウェイクアップコール”であり、その象徴として記憶に刻み込まれたのが「9・11」だったのだと思っている。

世界を見回せば、先日もエントリーにしたためた通り、「この20年は何だったの?」とため息をつきたくなるような国際情勢の有様があり、一方でその間に起きた技術変革は、20年前の主役を不可逆的に”無用の長物”に変えている。その真ん中で、変わったように見えてまたいつか揺り戻しが来るかもしれない、というステータスになっているのが、多様性や環境に対する人々の意識、価値観、といったところだろうか。

自分に引き付けてみても、同じようなもので、大きく変わったものもあれば、全くと言ってよいほど変わっていないこともある。

「隔世の感があるなぁ・・・」と思うことも僅かにある一方で、時間が連続しているがゆえに未だに「昨日のこと」のように振り返ってしまうことも多々あったりする。

あの時「ウェイクアップ」した結果、歩むことになったここまでの旅は、計画もロクすっぽ立てずに歩いてきた割には、一片たりとも後悔の念を抱かずに済む、自分が考えうる限りでは最高の道のりだった。

ただ、どんなに経験を積んで様々なものを手に入れても、心の中に「日々を無為に過ごしたい」という誘惑が眠っているところだけは20年前とまるで変わっていないような気がしていて、様々な軛から解放されて手に入れた今の環境は、ともすればそういう方向に自分を導く誘惑には事欠かない。

もう一度、何かをきっかけにウェイクアップして、さらにこの先10年、20年、未踏の地を目指すのか、それとも、もはや折り返しを過ぎた人生を逆算して緩やかな日々に戻るのか・・・。

今わかっていることは「計算できる人生などない」ということだけだから、これまでどおり、目の前に転がってきたものに飛びつくかどうか、二者択一の選択肢の積み重ねで歩みを進めていくだけではあるのだが、さらにこの先、10年後、20年後時を過ごして振り返った時の時間の”軽さ”は、今と同じものなのか、それとも違うのか。それがわからないだけにちょっと迷っている2021年9月11日。

まぁいずれ、迷っていたことも忘れて、気が付けば10年、ということになってしまいそうではあるのだけど、とりあえずは今の心情、ということで、以上のとおり、ここに書き残しておくことにしたい。

*1:この点、同じ「・11」でも「3・11」とは全く次元が違う話である。

google-site-verification: google1520a0cd8d7ac6e8.html