変えるために必要なこと。

一瞬盛り上がってはや鎮火・・・の気配もあるが、今週一番ドタバタしていた話題といえば、やはり某「丼」チェーンの件だろう。

こういうことが起きると、「コンプライアンス」の文脈で語ろうとする人が必ず出てくるのだが、本来、「コンプライアンス」という言葉は企業の組織風土そのものに根差した問題に向けられるべきで、そうでなければ、本来は”巨悪”に切り込む武器であるはずの崇高な行動規範が、単なる”小物叩き”の手段に貶められてしまう。


もちろん、会社の肩書を背負って登壇している者が、普通のビジネスパーソンなら決して使わない*1ような言葉を公衆の面前で使ってウケを取ろうとすること自体、そうそう簡単に許容されることではないし、ましてやそれが自社製品の謙遜を通り越した過剰な「卑下」的表現ともなれば、ジェンダーとか反社とかいう話以前に、不快に思う人々が多数出てくることは容易に想像できる。

一連の報道やそれに対するコメントの中には、「時代が変わったから・・・」というようなものも散見されたが、昔と比べて変わったことがあるとしたら、ある程度限られた受講生の前で話したことが、1,2日のうちに広く伝播したことくらいで、そこで使われた表現に対して人々が抱く違和感、不快感は、今も昔も変わるものではないし、自社商品の販売手法を外部であのような表現で語ることを繰り返していれば、遅かれ早かれ、商品への愛が強い会社幹部の耳に入り、今回と同じような結末になったはず。

「会社の看板を背負う」というのはそういうことで、ましてや当該組織において生え抜きではない外から招かれた者が自社について語る時は、より言葉の一つ一つに慎重さが求められる。そして、それを完遂することが確信できないのであれば、会社の肩書を付けて外で自由に喋らせてはいけない*2。それが今回の一連の事件の最大の教訓だろうと自分は思っている。

で、そんな中、日経電子版に以下のような記事が出た。

www.nikkei.com

「『マーケティング』は要らない」という見出しはちょっと煽り過ぎな気がするし、記事からは、主観的、情緒的な手法だけでは乗り越えられない壁にぶつかって危機感を抱いたからこそ外部の人材を招請したのではないか?というところが抜けているので、この編集委員の方が描く世界観だけを全面的に支持することはできない。

ただ、以下のくだりについては、同じく「データ」だけで分析するにはあまりに難解な業界に長くいたものとして、首肯せざるを得ないところはある。

吉野家及び持ち株会社吉野家ホールディングスの経営陣において最大の失敗は、社歴わずか約4年の人物に生命線である牛丼のマーケティングを任せたことだマーケティングの大家、フィリップ・コトラー氏の持論は「人をより良き方向に導くのがマーケティングという学問だ」。先の発言は正反対だった。」
「今回の問題をマーケティングの観点からとらえると、吉野家に限った話ではないはずだ。データサイエンスのような万能にみえる分析手法が簡単に手に入ると、成績をすぐに出そうと短期的な成果を求めるようになる恐れがある。目先の数字だけを追ってしまい、長期的に取り返しのつかない施策にもかかわらず、王道のように、外連味(けれんみ)もないように振りかざしてしまう愚策に出る。こうした人は、手掛けようとする商品やサービスに愛を感じないのだろう。」
日本経済新聞電子版 2022年4月22日5:00配信、強調筆者)

50年、100年、あるいはそれ以上の間続いている(&続けることを目指す)「看板」だからと言って、目先の利益を軽視して良いわけではないし、時には、長年のファンの”愛着”をぶった切るようなコペルニクス的大転回で状況を打開しなければいけないこともある。

だがそのためには、主観的で情緒的な”ファン”以上に、その「看板」の下にある商品・サービスとそれにかかわる人々に「愛」を注ぐ必要があるし、それがない限り、机上では王道のように見える戦略でも大概は失敗する(あるいは一時的に成功を収めても長続きしない)ということは、これまで多くの会社が証明してきたことでもある。


かくいう自分の記憶の中にも、20世紀から21世紀の初頭にかけて「吉野家の物語」はたくさんある。

(あの値段でも)並盛だと空腹を満たせず、特盛は高すぎて、なかなか足を踏み入れられなかった学生時代。
まだ資金繰りが苦しかった就職したての頃、中央線の夜行列車で降り立った早朝の立川駅前で開門前の気合入れに食った朝定食。

全ての物語が、「懐が苦しい」とか「一人」といったキーワードと結びつきすぎていて、真逆の人生となった今ではかえって足が遠のいてしまっていたりもするのだが、それでも物語は永久に不滅・・・。

この先、かの会社の戦略が再び変わるのか、はたまた人が変わっても目指そうとする方向は変わらないのか、その辺はよく分からないのだけれど、どういう手を打つにせよ、それまでの歴史とそこにかかわってきた顧客、従業員その他のステークホルダーへの敬意なくしては、将来の発展などおぼつかない

そして、これはマーケティングやブランド戦略だけの話ではないな、というのが、自分がこの一連の事件から得た、もう一つの教訓である。

*1:少なくとも自分の語彙にはなかった。

*2:要は、これは「コンプライアンス」よりずっと手前の、人選と社外広報上のコントロールの問題なのである。

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