この国を襲った新型コロナ禍は昨年、一昨年と、式のリアル開催をストップさせただけでなく、本来伝えられるべき追憶の記事のスペースすら奪っていた。
だから、関係者ならずとも”風化”を懸念せざるを得ない状況だったりもしたのだが、ようやく、である。
「4・25」という日付がいつまでもこの痛ましい事故の記憶とともに語られることには複雑な思いもある。
また、この事故に限った話ではないが、5年、10年が過ぎ、この国の法がかつて除斥期間として設定していた期間すらあと数年で経過しようか、というくらいの歳月が流れてもなお、一事業者に贖罪させ続けることへの意味もそろそろ問われ始める頃なのかもしれない。
だが、人の命を預かるリアル・プラットフォーマーが負うべき責任は、法を超えたところにある、と自分は思う。
そして、そんなプラットフォーマーには、「あの時から時間が止まったまま」という方がこの世に一人でも残る限り、事故を「風化」させない責任がある、とも・・・。
残念なことに、どれだけ「安全」への意識が叫ばれても事件事故の歴史はまだ決して終わることはなく、今この時もまさに、知床の海で起きた悲劇に多くの人々の目が向けられている。
他の観光船が営業を見送る中、時化た海に漕ぎ出していった一隻。その裏に透けて見える「安全」とは異なる思惑。さらに、関係者がどんなに誠意を尽くそうとしても運営主体自体が飛んでしまったらどうにもならない、という、これまでの旅客輸送事故の歴史が証明した悲しい事実。
結果的に、全ての主体が「風化させない」という責任をかぶり続けられるわけでもないからこそ、できるところには、その努力を惜しんでほしくない、と思った次第である。