こんな時代だからこそ、惜しまれる・・・。

何もなければ、今年も大量に届いた年賀状に対してグチの一つでも書こうかと思っていたのだが、日経紙夕刊のある記事を読んで気が変わった。

税制改正に関わる政府・与党関係者の誰もが知る人物がいる。2017年11月に急逝した経団連の元常務理事、阿部泰久氏だ。約30年、税制改正に携わった。経団連税制改正要望をつくり、時には党税調や財務省などとの調整役も担った。」
「14年9月、阿部氏は外形標準課税を所管する総務省の会合に出席。「安易な拡大はすべきでない」との資料を示した。ところが話し始めると「単に反対と言っているわけではない」と表明。「賃上げに逆行しない」「段階的な拡大」「中小企業に適用しない」の3条件で認める考えを説いた。これで設計が決まった。」
「16年度改正でも法人実効税率の引き下げ財源で、阿部氏が登場した。赤字を出した企業が税金を減らせる繰越欠損金控除の縮小で財源を出す案を編みだし、決着させた。このとき、経済産業省は大企業の交際費にかかる税優遇の廃止で財源を捻出する案をあたためていた。阿部氏の調整に経産省幹部らは激怒。その直後、阿部氏は税制担当を外れた。」
日本経済新聞2018年1月5日付夕刊・第2面)

税制改正 走る業界団体」というタイトルで永田町詣でをする業界団体の姿が描かれているコラムの横に小さく添えられた記事ではあるのだが、上記のエピソードといい、

経団連の関係者は「かつては阿部氏のような人が各業界にいたが最近は少ない」と話す。別の経済団体の税制担当者は「要望はするが調整はしない。全ての会員が満足する決着はないからだ」と話す。自らリスクをとって調整する阿部氏のような人物はあまりいないという。」(同上)

という人物評といい、全体を通じて、産業界の調整役としては異色の存在だった故人に対する畏敬の念に満ちた記事となっている*1

ここでの話題は、専ら税制改正の話になっているし、実際、亡くなられた阿部氏が税制のプロだったことは間違いないのだが、同時に、阿部氏と言えば、会社法や事業再生の分野から、独占禁止法民法(債権法)、はたまた消費者契約法の改正に至るまで、様々な法制分野に絡んでおられた方でもある。そして、そういった場面でも、上記の記事に描かれているような阿部氏の「個性」を垣間見ることができる機会は多々あった。

世の中では、一括りに「産業界」、と語られることが多いが、上記記事にも書かれているように、今のように各社のビジネスモデルも経営の価値観も多様化している時代においては、ちょっとした法改正でも、会社の数だけ異なる思惑が出てくるのであって、全ての会社の意見が一致することなどまずない、と言ってよい。
ゆえに、経団連のように業種をまたがる団体はもちろんのこと、業界単位の団体であっても、外向けに公表する意見をまとめるのは極めて困難な作業となる。

だから、審議会等の表舞台に立つ場合でも、水面下での駆け引きをする場合でも、看板を背負って出ていく人がどう立ち回るか、ということが極めて重要な意味を持つ。

背後にある複雑な意見や感情を顧みずにひたすら持論を唱え続けるだけでは役割を果たしたことにならないし、そのうちに反対側の勢力にも足元を見られて、結局何も勝ち取れずにそれまで。
一方で、単なる“伝書鳩”としての役割しか果たさない存在だと、相手も「聞いて終わり」ということになってしまうし、一歩先の議論について行くことができないので、本当の意味での政策形成には絡めない。

そういった難しいポジションで、時に会員企業のメッセンジャーを演じつつ、ここぞの場面では柔軟に“個人の意見”を打ちだしてコンセンサス形成の流れを作る・・・

それは、政策形成の場面に数多く立ち会ったことによる経験と、どんなテーマでも勘所を理解しかみ砕いて自分の言葉にできるスキル、そして、議論の潮目を敏感に察するセンス、といったものを持ち合わせて初めてできることであって、誰にでも真似できることではないのだけれど、これだけあちこちで、言いたいことを言っているだけの自称“ロビイスト”が跋扈する時代になってくると、少々個性的でも、きちんと治めるところを治めてきてくれる人、の存在が、非常にありがたく、そして懐かしく思えてしまう。

心から急逝を惜しみつつも、惜しんでいるだけでは世の中は前に進んでいかない、という言葉を噛みしめて、こんな難しい時代だからこそ、企業法務に関わる者一人一人ができることを考えていかないといけない、そんな気がしている。

企業法制からみた 改正債権法の実務ポイント

企業法制からみた 改正債権法の実務ポイント

民法[債権法]大改正要点解説 (改正理由から読み込む重要ポイント)

民法[債権法]大改正要点解説 (改正理由から読み込む重要ポイント)

書店で見かけたのは、ホントつい最近のことだったのだけど・・・。

*1:個人的には、同じ面の下段にある「追想録」の方で取り上げても良いくらいの記事だな、と思いながら眺めていた。

突き抜けた壁の向こう側にあるもの。

新春早々の大発会日経平均は右肩上がりで上昇を続け、昨年どうしても破れなかった「終値23,000円台」の壁をいとも簡単に突破してしまった。
年初来高値を一気に120円以上更新し、1992年以来の高値に・・・。

今年は、まだ仕事初めを迎えていない会社も多く、今日などは家でのんびりと“平日”を過ごした人も多かっただろうから、午後になってそういった人々が、相場の動きを見て「ここで小金稼ぎ」とばかりに飛びついた影響も多少はあるのだろうけど、それにしても凄い勢いである。

自分が成人になってからの日経平均と言えば、当然の如く10000円台で低迷していて、酷い時には「4ケタ」まで落ち込んだ時期もあった。
だから、この指数が「20000円台」を記録していること自体に違和感があるし、ましてや、まだバブルの香りが濃く漂っていた1992年の水準、と言われても、どうにもピンとこない*1

ただ、一つだけ言えることは、今、この時代に生きている自分たちが、歴史の教科書の中に閉じ込められたと思っていた「バブル」というおぞましい事象を、まさにこれから体験する時期に差し掛かっている、ということ、そして、いつかは弾ける、と分かっていても、チキンレースに飲み込まれた結果、結果的に痛手を被る会社も人も、そう遠くない“宴の後”には出てくる、ということである。

投資もビジネスも、「最後に勝てるのは、先を読んで逆張りの策を仕掛けた者だけ」というのが、これまでの歴史によって証明されている定理だと思っているし、それゆえに、一見、様々な指標が右肩上がりになっているように見える時こそ、「有識者の前向きなコメント、強気のコメントは、徹底的に疑ってかかれ」というのが、自分が拠って立つ思想にもなっている。

だから、年初から皆が皆、楽観的な見通しを述べている現在のような状況は、まさにハイリスク極まりない、と自分は思うのだけれど・・・*2

*1:ちなみに、あと300円上げれば、92年の最高値も更新するから更に1年歴史の扉が開かれることになる。今の勢いなら明日の昼くらいには突破してしまっても不思議ではない・・・。

*2:既に多くの会社の株価は、昨年の時点で「割高」アラートが発令されるレベルにまで高騰してしまっているのに、ここで個人が買いに走って将来的に元が取れるのか、という素朴な疑問はぬぐえない。

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沈黙の一年を振り返って

毎年、年の終わりには反省ばかりが心をよぎるから、ブログにも景気の悪いエントリーをあげてしんみりと年を越すことが多い。

今年もその辺はさほど状況は変わらないのだけど、実のところ仕事の方では山あり谷あり、いろいろありすぎて、バタバタした感覚のまま休暇に突入してしまった感じなので(そして年明けからもその流れのままいろいろと続いていくので)、ゆったりと回顧するような心情には至っていない、というのが正直なところである。

内向きな話をするなら、この一年は中間管理職としてのあれこれに苦悩し、多大な労力をそこに費やしているうちに過ぎてしまった。

年末の企画で、経文緯武氏の「法務組織の(中間)管理職は何をしているのか」というエントリー*1を読んで、考えさせられるところは多かったのだが、こと「現場仕事はできない、してはいけない、しない」という管理職の鉄則に関しては、完全に禁を破ってしまったところはあるし、「組織としての成果の最大化」という観点からは、

「任せるところは任せるけど、任せてもどうにもならないときは、(部下を一人二人切り捨ててでも)自分で状況を打開しなければならない」

というリアリズムに否応なしに支配されてしまったところもあるような気がする。

そして、「人が育つ(=経験と議論を通じて、技能知識と価値観が成熟していく)こと」で組織が成長していく、という自分が依拠していた思想が、今の世の中、そう簡単には通用しなくなっている、ということに気付いて、衝撃を受け続けた一年でもあった。

センスの良い人は、限られた一の経験の中からも十を学べるし、経験していないことでも想像力でカバーできるのだけれど、そうでない人は、企業の中に何年いようが、弁護士として何年経験を積もうが、単純なルーティンワーク以外の分野では何ら力を発揮できないし、発揮させる方向に持って行くことすら容易ではない・・・

今、というタイミングでそのことに気付いたことが、幸運だったのかどうかはわからないけれど、後々この一年がターニングポイントだったと思えるときが来るのかも、というのが激動の年を終えての偽らざる感想である。

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“アムラー”がいた時代

平日はいろいろなものに追われていて、ろくろくニュースを見る暇もなかったので、新聞の社会面のベタ記事を見て、「お!」と思ったくらいだったのだが、週末、テレビのワイドショー番組で繰り返し取り上げられていて、懐かしさとともに違和感すら感じたのがこのニュース。

「歌手の安室奈美恵さん(40、略)は20日、2018年9月16日に引退することを、自身の公式ホームページで発表した。安室さんは今月16日でデビュー25周年を迎えていた。HPで「最後にできる限りの事を精一杯し、有意義な1年にしていきたい」とコメントした。」(日本経済新聞2017年9月21日付朝刊・第38面)

確かに、フェイドアウトすることはあっても「引退」とはっきり言い切ることまではあまりしないのが、従来のアーティストたちの定番行動だっただけに、まだ40歳という若さでそれを断言したことにニュース価値がある、といえばあるのだが、今の彼女は少なくとも“旬の人”ではない。むしろ、どちらかと言えば“昔の人”になりかけていたくらいの存在。

今、テレビや新聞メディアでそれなりの地位にある人々の中には、自分と同世代くらいの、まさに「安室奈美恵が天下を取っていた時代」に音楽を聴いていた人たちも多いはずで、それが番組でも新聞記事でも大きく取り上げられることにつながったのだろうけど、街角のインタビューの映像を見ても、何となくピンと来ていない感(それでも取材者に合わせた感)のある絵がチラホラ散見された*1

もちろん、世代的にどハマりな自分にしてみれば、BGMで流れる楽曲とともに、いろいろと思いかえすことも多かったのであるが・・・。

*1:実際の取材は、放映されたインタビュー×αくらいの手間をかけて行っているはずで、良いコメントを取るのに相当苦労したんじゃないかな、という印象すら受けた。

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現実はそんなに美しくないぞ、と。

今月の連休くらいから流れ始めたNTTドコモの25周年CM。
その後、「スペシャルムービー」なんていうのも公開された*1

NTT系の移動通信会社として営業を始めたのが1992年、ということで、同じ年にメジャーデビューしたMr.Childrenとタイアップして製作されたCM&動画のようなのだが、自分たちの世代だと「ミスチル」の曲が流れただけで、映像の中身にかかわらず条件反射的に反応してしまう上に、シナリオ上の時系列も非常に親近感が湧く設定になっていることもあって、最初に「予告編」で見たときは、涙なしでは・・・という感じだった。

ただ、そこは生来のひねくれ者、かつ、あまり真っすぐ人生を歩いていない者の哀しさ、ということで、改めて長編バージョンを見ているうちに、どことなくこみ上げてきた違和感もある。

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今年もまた、刻まれた「3・11」の節目。

飛ぶように過ぎていく日々の時間の中で、今年もまた、「大震災から6年」という節目の日が刻まれた。

今振り返れば、2011年のあの頃だって、決して時間の流れはゆっくりではなかったと思うのだけれど、今の時間の流れはあの頃の比ではなく、特にここ数年は異常なスピードで時間が流れて行ってしまうから、「・・・から3年」とか「4年」とか、といったニュースを聞いて様々な思いに浸っていたのが、つい昨日のことのように感じられてしまう。

それでもカレンダーを見れば、確かに今年は2017年。時は確実に過ぎている。

この6年の間、震災直後に閖上から仙台、塩釜エリアに入ったのを皮切りに、東松島石巻、南三陸、北三陸、那珂、そして、福島浜通りエリア*1まで、「被災地」と呼ばれているエリアには、ほぼくまなく足を運んだ。

だから、「災後」の報道に触れ、それぞれの地で進んでいる“復興”の姿を目にするたびに、目に焼き付いたかつての光景とそこにいた人々の姿と声がラップする。

至るところ瓦礫だらけで時間が止まったままだった場所がきれいに片づけられ、整地された高台エリアに復興住宅が林立する様子を見て安堵感を抱く一方で、新しい街づくりが進めば進むほど“震災前”の街の姿が決して元に戻ることはない、ということもはっきりしてきて、どうしても身を削られるような感覚に襲われてしまう。

2011年以降、それなりに関わりを持ってきたとはいえ、あくまで「部外者」の一人に過ぎない自分が、かの地に根差して生き続ける人々の感情を忖度することなどできるはずもない。

ただ、テレビの映像が、「3・11後」を生きる前向きな人々の姿を映せば映すほど、あの日を境に交差し、すれ違った様々な運命にも思いを馳せざるを得ないわけで・・・。

いわゆる「7回忌」を過ぎ、来年以降、全国メディアにとっての節目の年の重みがさらに下がっていくことも予想される中で、もう一度、自分にできることを考え直さないといけない、そんな時に差し掛かっている気がするのである。

*1:残念ながら立入制限がかかっている一部の区域にはまだ足を踏み入れることができていないが。

「25年」という歴史の重さと軽さ

「広島が直接対決で巨人を退け、25年ぶり7度目のセ・リーグ優勝を決めた。」(日本経済新聞2016年9月11日付朝刊・第33面)

様々な人々の思いを背負って戦い続けてきた広島東洋カープが、2016年9月10日、遂にリーグ優勝を決めた。
本拠地で決められなかったのは気の毒だが、敵地で宿敵・巨人に3発を浴びせ、点差以上に打ちのめして自力で優勝を勝ち取れたわけだから、ファン(特に在京のファン)はさぞかし長年の溜飲を下げたことだろう。

Twitterでも少し呟いたのだが、優勝から長年遠ざかっていたとはいえ、「明らかに弱すぎたシーズン」というのがほとんど存在しなかったのがカープという球団の凄いところ。
マチュア時代は無名だった選手を鍛え上げてレギュラーに定着させ、Bクラスに終わったシーズンでも開幕当初は快進撃を続けて鯉のぼりの季節の頃には首位争い、というケースが多かったから、他球団のファンとして率直に言うなら、「ようやく優勝できたね」という気持ちよりも「25年も優勝してなかったの?」という感情の方が強い*1

ただ、歴代順位を眺めれば、リーグ優勝したのは紛れもなく25年ぶり、である。
そして、「1991」という数字を見て鮮明に蘇るのは断片的な記憶だけで、“最近”という感覚はさすがに湧いてこない。

ずっと霞がかっていた季節の中でも特に濃い灰色に染まっていたあの年のことを振り返ってあれこれ言うとそれだけで気分が落ち込むので細かくは触れずにおくが、あの頃自分の心を曇らせる元凶の一つだった“赤ヘル”のニュース*2を耳にしても、不快な感情はほとんど湧いてこなくなった(むしろ世間の人並には喜んでいる)というところに、重ねられた歳月の重みを感じる、と言ってしまうと大げさだろうか。

もっとも、このままの勢いでカープがCSを突破してさらにそのまま日本一に輝くようなことになると、次に出てくるのは「32」という数字だから、それに比べれば「25」なんて言う数字はまだまだ軽い。

00年代にロッテ、日本ハム、中日、といった長期滞留組が次々と日本一に輝いたこともあって、今、最も日本一から遠ざかっているのは広島球団、ということになっている。
あのころとは違って、リーグ優勝を決めてもすぐに「さぁ、日本シリーズ」とならないのが今のシステムの悲しいところだが、できることならもう一丁、カープには歴史をこじ開ける戦いをしていただき、来年以降、我らが愛しのチームに“断トツに日本一から遠ざかっている球団”の称号を授けていただけないものか、と思うのである。

*1:弱い球団を応援し慣れていると、「良いシーズン」=「最下位にならなかったシーズン」という基準になってくるし、その基準でいうと、カープファンはかなり幸福を味わい続けた部類に入るんじゃないかと思う。

*2:別にカープが特別に嫌いだった、ということではなく、贔屓のチーム以外のセ・リーグ球団はどこも大嫌いだった、というだけの話である。

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