ある書店の最後の日に思うこと。

紀伊國屋書店新宿南店が、今日、20年の歴史に幕を下ろした。

新宿という大都会の真ん中にありながら、1階から6階まで広いスペースに書籍がぎっちり詰まった圧倒的な空間を誇り、規模としては池袋のジュンク堂と双璧をなす立派な書店だったのだが、時代の流れには勝てなかった、ということなのだろう。

紀伊國屋の撤退”というニュース自体は随分前にリリースされていたから*1、この日が来ることは覚悟していたとはいえ、改めてその日を迎え、実際に足を運んで店内のあれこれを見回すと、やっぱり物悲しい気分になる*2

できたばかりの新宿サザンテラスをぶら歩きしてピカピカの内装に感動したところから始まり、地方赴任時、上京するたびに足を運んだこととか*3、初めて「知財の本」を手にしたこととか*4、両手に持ち切れないくらいの本を買いあさってストレスを発散したこととか*5、個人的な思い出を数え上げたらキリがない。

正直に白状すれば、自分自身、ここまで足を運んで本を買う機会は年々減っていたし、特に数年前に法律書のスペースが大幅に縮小されてからは品揃えが微妙になったこともあって*6Amazonや他の書店への乗り換えをしていたのも事実なのだが、それでも四半期に一度「L&T」を買いに行くくらいの付き合いはあったから*7、閉店間際のスカスカになった5階奥の方の書棚を見たら、やはり胸にグッとくるものがあった。

よく「インターネットで買えるんだから、街中の本屋なんていらないでしょ」的なことを言っている人を見かけるが、自分は、“品揃えが良くて気軽に入れる書店”が街中にどれだけあるか、というのが、その土地の文化の豊かさを如実に表していると思っていて、そういう存在がなくなってしまったら、その国、その土地の文化は死んだも同然、とすら思っている*8

世間の評判に惑わされることなく、手に取ってパッと一読して(専門書なら“はしがき”にも目を通して)本当に必要なものだけを買える、ということももちろん大事なのだが、もっと大切なのは、「買う予定のなかった本との偶然の出会い」で、特定の分野で、探していた本の隣にあった本の方が気に入ってそのまま買って帰ってきたことは普通にあるし、たまたま通りがかったエリアに積んであった書籍のカバーに魅かれて、全く買うつもりのなかった新書やら経営書やら歴史書やら娯楽小説やらを“ついで買い”したことも数えたらキリがない*9

ちょっと視点を周りに向けることで、偏狭な自分の趣味関心以外の世界に踏み出すきっかけを得られる。
そんな貴重な空間だからこそ、時代の流れにかかわらず残さなければいけないし、育てなければいけない・・・。

今回の閉店は残念なことではあるが、「在りし日」を語って惜しむだけではまた別の歴史の幕が下りるだけになってしまうので、ささやかながら行動で、明日からできることをしよう、と思った次第である。

*1:そして、その直後に新しいテナントが北の家具屋、というニュースを聞いて、随分がっかりさせられたものだ。

*2:ちなみに店内には「新宿の紀伊國屋書店の歴史」を象徴するようなパネルが展示されていたが、まさか新宿本店まで撤退、ということはないよな・・・とちょっと不安になった。

*3:当時住んでいた地域に法律書が揃った書店は皆無だった・・・。

*4:決して忘れない、田村善之先生の「著作権法概説」と「商標法概説」(いずれも第2版)。

*5:そのまま積読になっている本も数知れない。

*6:同じ紀伊國屋書店でも、地方大都市のお店の方が雑誌のバックナンバーも含めて品ぞろえが良いように思えることすらあった。

*7:「L&T」を置いている店は都内でも相当限られている。

*8:その文化の担い手を、小さな書店に求めるべきなのか大きな書店に求めるべきなのか、という問題はまた別に存在するのだけれど、このエントリーの主題からは外れるので今日は触れないでおく。

*9:紀伊國屋の新宿南店に関して言えば、元々、店の構造が3階フロアの“レコメンド”エリアに必ず立ち寄らざるを得ないようになっているし、自分もちょっとでも何か引っかかればパラパラめくるようにしていたので“ついで買い”する機会も他の店よりは多かったような気がする。

まだまだ終わらないストーリー。

今年もめぐってきた「3・11」。

カレンダーの曜日の並びも、ぶり返した寒気のせいで肌に刺さるひんやりとした空気もあの日と同じで、朝からいろんなことを思い出して心がざわざわしながら迎えた5回目の黙祷だった。

自分のように、公私ともにほとんど環境が変わらない中で過ごしている者にとっては、「5年」という歳月は“あっという間”の時間に過ぎないのだが、冷静に考えると決して短い時間ではない。

入学したばかりの小学1年生は卒業を迎え、大学進学を控えていた高校3年生も立派に社会人になれるだけの時間。
先週末くらいからTV各局がこぞって放映していた被災地取材でも、取材先の方々の“成長”や“変化”を取りあげるものが目立った。

これまで続けてきた取材の“完結編”的な取り上げ方をしている番組も多かったから、「5年経ったから終わり」ってことにならなければ良いのだが・・・という懸念がこれまでになく心をよぎったりもしたのだが、その一方で、「これだけの時間が流れれば、災禍の当事者ではない人々の中に“風化”という現象が生じたとしても、もはやそれを責めることはできないだろうな」という思いもある*1

自分も、阪神大震災の5年後に、どれだけあの時の記憶が残っていたか、ということを思い返せば、心の底から申し訳なかった・・・、と言わざるを得ない状況だったわけで、震災前後で、かの地にかかわりを持っていたかどうかによって、そしてかかわりを持っていた人々の中でもその濃淡によって、心の中での「3・11」の位置づけは大きく変わってきている、ということ、そして、裏返せば、今の被災地の状況や復興に向けた課題を多くの人に理解していただくことがそれだけ難しい時期に差し掛かっている、ということは、否定できないことなのだろうと思う。


当地に足を運んで、冷静に自分の目と耳で、そこにあるもの、そこにいる人々に向き合えば、「前向きなトーンで“復興”を報じる在京メディアがカメラに捉えていない部分」に、少なからぬ“影”があることには、容易に気が付く。

一般的には立ち直りが早いと思われている地域でも、瓦礫がなくなり、震災直後に活動していたボランティアの方々の数が減ったことで、かえって地域の活力の弱さが浮き彫りになってしまっているところはあるし、復興計画が比較的順調に進んでいる、と思われている地域でも、その受け止め方にはかなりの温度差を感じる。

震災直後の混乱の中では見えていなかった様々なことが、仮設住宅がなくなり、新しい居住エリアが出来上がっていくにつれて徐々に顕在化していく。
これまでそれぞれの地域に少なからずこだわりを持ってかかわってきたつもりの者としては、このようなプロセスを眺めるのは実に切ないことではあるのだけれど、これも“復興”に向けた長い長い道のりの一過程なのだ、と腹を括るしかない・・・。


政治的パフォーマンスではない熟慮の下で、この先の復興政策が進められていくことを、そして、「5年経った」からこそ現地に足を運び、自分の目で何が起きているのかをきちんと見つめ直したい、と思う方々が、この先もっともっと現れることを、自分は心から願っている。

そして、“風化”と顕在化した“摩擦”が入り混じるタイミングに差し掛かってきた時だからこそ、決して急ぎすぎることなく、されど、それぞれの立場で一つひとつの日常を積み重ねて平穏を取り戻そうとしている地域の人々をそっと下支えできるような復興貢献の在り方を、真摯に考えていかなければ・・・と思わずにはいられないのである。

*1:「忘れる」ということは、人が前に進むためには絶対に必要なプロセスだけに、当事者か否かにかかわらず、“風化”という現象を一概に否定するのは適切ではない、と思う。

あの頃。

最近、音楽を聴くということに縁遠くなっていて、CDも長らく手にしていなかったのだが、たまたまチャンネルを合わせた歌番組で、アーティスト自ら宣伝していたのを目にして、思わずAmazonで購入してしまったのが、↓である。

MEMORIES 3-Kahara Back to 1995-(初回限定盤)(DVD付)

MEMORIES 3-Kahara Back to 1995-(初回限定盤)(DVD付)

阪神大震災があったり、オウム事件があったり、と後から振り返ると、よく“ターニングポイント”と位置付けられる「1995年」だが、当時、青い春ど真ん中を生き抜いていた人間にとっては、そんな世相のゴタゴタとはかけ離れたところに、この年の日常は存在した。

“バブルはとっくにはじけた”と言われていたものの、当時社会人成りたての先輩方にはまだまだバブル期特有のお気楽さが満ち溢れていたし*1、そんな緩い空気の中で、将来のことに目を向ける余裕もなく、目の前のことに没頭するしかなかったのが当時の自分。

密度の濃い人間関係。財布の中にお金はなかったが、転がるように過ぎていってた日々には、甘さも苦さも酸っぱさもあった。

そして、昼夜構わず人が出入りしていた思い出の部屋では、ほぼ毎日「TK」ブランドの曲が流れ、週のうち何度かは“keep yourself alive”と“I BELIEVE”が無限リピートで流れていた。

当時の自分は、そこまで小室サウンドが好きではなかった(というより、むしろ嫌いだった。特に華原は。)から、CDの選択権を奪った日は徹底的にマイラバ3連発*2無限リピートで対抗する、という子供じみた抵抗を試みたりもしていたのだが、そんな時からはや20年。

小室ファミリーの曲はまだ分かるにしても、「ら・ら・ら」、「TOMORROW」に「LOVE LOVE LOVE」といった、当時ヒットチャートで張り合っていた楽曲を器用に歌いこなし、さらには、当時“対極”にあった敵方の「Hello,Again」を伸びやかに歌い上げているのを聞いてしまうと、“恩讐のなんたら・・・”という感じで、当時の感情を忘れて、ある種の感慨さえ抱いてしまう*3

一種の節目の年だったにもかかわらず、慌ただしさにかまけてほとんど振り返れずにいた年を、この年の瀬、追い込まれた時期になって、好きではなかったアーティストの一枚のアルバムで振り返ることになろうとは・・・*4

*1:実際、その後の10年に比べれば、あの年の景気はまだまだ全然どうってことないレベルだった。

*2:デビューから立て続けに世に送り出された「Man & Woman/My Painting」、「白いカイト」、「Hello, Again〜昔からある場所〜」。今でもファーストアルバムに収められた曲は、イントロ1秒で全曲当てられる自信はある。

*3:アレンジには若干??というのもあるのだけれど、ボーカルが素晴らしい。ライブで、本人の生声で、同じレベルで歌っているのを聞いてしまったら確実に泣く。

*4:もちろん、華原朋美のCDを買ったのは生まれて初めてである。周りの3人に1人は彼女のCDを持っていた時代ですら、頑なに手に入れることを拒んでいたのに。

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悲しき知らせが蘇らせた記憶。

ネットニュースで、

中村勝広氏 急死」

という見出しが最初に目に入ってきた時、何とも言えない気持ちになったのは自分だけだろうか。

プロ野球阪神タイガースのゼネラルマネージャー(GM)で阪神オリックスの監督を務めた中村勝広(なかむら・かつひろ)氏が滞在中だった東京都港区内のホテルで死去したことが23日、警視庁への取材で分かった。66歳だった。」(日本経済新聞2015年9月24日付朝刊・第39面)

関西方面では大騒ぎになっているだろうが、関東の一般紙では社会面の片隅のベタ記事でしかない。

だが、90年代、負け続けるタイガースを東の方で熱狂的に応援し続けていた自分には、中村勝広氏のお名前が、絶望の中に微かな希望の光を見せてくれた名将の名として、深く心に刻まれている。

日本一になった翌年以降、吉田監督、村山監督と、坂道を転げ落ちるように下降線を辿っていたチームに、しかも“幻の一枝監督”騒動の後に、火中の栗を拾うがごとく就任したのが89年のオフ。

就任直後は、トレード戦略、外国人補強戦略の失敗等もあって、2年続けて「最下位」という屈辱を味わったものの*1、地道にチームの若返りを進めていった結果、1992年、大躍進のシーズンを迎える。

投げてはマイク仲田、中込、湯舟の先発3本柱と、弓長、田村といったブルペン陣が大奮闘(防御率リーグ1位)し、打ってはオマリー、パチョレックの外国人2枚看板と、若手トリオの亀山、久慈、新庄が躍動して、あれよあれよという間に優勝争いに。

9月上旬に破竹の勢いで連勝し、首位争いをしていたヤクルトまで葬り去って、世の中が“7年ぶりの優勝確実”というムードになり始めた時、自分は、「このチームを応援し続けていて本当によかった」と感涙に浸ったものだった・・・。

その後、慣れない首位争いによるプレッシャーと*2、敵将・野村監督のしたたかな戦略もあって、結局はぬか喜びに終わってしまったわけだが、最後にあえなく潰えてしまったからこそ、美しい思い出として残るものもあるわけで、あの夢のようなシーズンは、いろんな意味でどんよりと曇っていた当時の自分にとって、数少ない“色付き”*3のエピソードだったし、そのシーズンが、どんなに野次られても顔色一つ変えずに戦いきった中村勝広監督に対する自分の敬意を決定付けるものにもなった。

その後、フロントの奇怪な補強戦略*4や、パチョレック選手、オマリー選手の退団(そして、後継外国人の獲得失敗)もあって、中村監督の在任中に92年を超える成績を残すことはできなかったが、自分とは無関係の“国民的行事”で盛り上がった94年のシーズンも、9月中旬くらいまでは優勝争いに絡む戦いを見せている(最終順位は4位)*5

最後は、采配がスカタンとかなんとか言われて、シーズン途中での休養を余儀なくされたのだが、その後の、藤田、吉田、野村の3監督時代(6年)で最下位5回、5位1回、という惨状だったことを考えると、中村監督の6年間で2位1回、4位2回、という戦績がこの時期のタイガースにとってどれだけ驚異的なことだったか、自分がわざわざ説明するまでもないだろう。


タイガースを追われて以降は、「オリックスの人」という印象の方が強くなっていた時期が長かったし*6、2012年にタイガースに復帰してからも、手厳しい大阪のファンから暖かい評価を受ける機会は少なかったように思う。

70年代に名二塁手として活躍したタイガース生え抜きの選手*7だったにもかかわらず、関西方面での名声が最後まで高まらなかったのは、中村氏が千葉県出身(成東高校)で、かつ東京六大学の名門・早大野球部主将、という中央の華やか過ぎる経歴を持っていたからか*8、それとも、オーナーやフロントが迷走してどんなに理不尽な仕打ちを受けても、喧嘩ひとつせず淡々と自分の役割に徹していたことが、タイガースファンの気風に合わなかったのか・・・*9

後者の点については、2012年に中村氏がGMとしてタイガースに復帰された時、「監督時代に受けた理不尽な仕打ちを良い教訓にして、理想的なチーム編成をしてくれると良いのだけどなぁ・・・」と感じた人は多かっただろうし、自分も、「正しいことをしたければ、(我慢して良好な人間関係を築いて)偉くなれ」という教え(?)を地で行くような展開だなぁ、と思ったもので、今シーズンの藤浪投手の躍進など、就任以降の補強戦略も実りつつある状況だっただけに、志半ばでこのようなことになってしまったのは、ご本人もさぞかし無念だったことだろう。

ただ、この先、タイガースの球史の中で、中村氏の残した足跡がどんな扱いを受けようとも、「中村勝広監督」がユニフォームを着て、現場でチームを率いていた時代に球場に通い、実況のラジオにかじりついていた一ファンとして、自分が氏の功績を忘れることは決してない。

そして、亡くなる最後の日まで、GMとして球団に身を捧げた中村氏の、この3年間の尽力がやがて花咲くことを信じて、今は心よりご冥福をお祈り申し上げる次第である。

*1:確か同一監督での2年連続最下位は「球団史上初」だったはず。まだ当時は「最下位」になるのが珍しい球団だった。

*2:本拠地で連勝を重ねた後のロード初戦、一番大事な東京ドームでの巨人戦で、仲田幸司投手が初回メッタ打ちにされたシーンなどは、まさに未熟さの象徴だった。

*3:優勝争いまっただ中の試合で、白と黒と黄色でスタンドが埋め尽くされた・・・それも、甲子園ではなく「神宮球場」でその瞬間に立ち会えた、という記憶は永遠に消えることはないと思う(試合の結果はいま一つだったのだが、これまでの応援では感じたことのなかったような熱気に接することができた自分にとっては、そんなことはどうでもよくなるくらい感動的な景色だった。

*4:勝ち運にこそ恵まれていなかったものの、間違いなく球団屈指の好投手だった野田投手を放出し、ロートルの域に差し掛かっていた阪急戦士・松永を獲得する、という失態・・・。

*5:熱くなる巨中広のファンを横目に、“いやいや最後に勝つのはうちですよ・・・”とほくそ笑んでいた時もあった。1週間くらいでその野望はついえたが・・・。

*6:2003年から2009年までは、オリックス球団GM、監督等を務めていた。

*7:前記のとおり、自分は中村氏を非常にリスペクトしていたので、当時の活躍を調べたくて、図書館とか野球博物館の資料室とかに通ったこともあったなぁ・・・と。

*8:岡田元監督も早大出身だが、出身はバリバリ大阪なので、監督時代のファンの受け止め方もだいぶ違っていたような気がする。

*9:この点については、自分ももう少し監督の立場で物申した方がよいのでは…と思ったことが何度かあったが、ご本人は、喧嘩して現場を混乱させるよりは、安定して指揮を執り続けることを重視したのだろうか。いずれにしても組織人としては“鑑”のような存在だったし、前後の混乱に比べれば、中村監督在任中のチームが遥かに安定していたのは間違いない。

「100年」の節目に呼び起される記憶

例年なら、週末に何となくテレビのチャンネルを合わせてぼんやり眺めるくらいで、気が付くと優勝校が決まっている、という感じだったのだが、今年は清宮選手の大フィーバーが気になったこともあり、いつになく予選の頃から、「夏の高校野球」を注目して見ている。

今年は、京都二中が優勝を遂げた第1回大会からちょうど100年の節目で、主催者側もいろいろと宣伝に力が入っていたはずだが、大会が進むにつれ、そんな周囲の思惑さえちっぽけに見えてしまうほどの素晴らしい展開。

普通の年なら、「いい選手だったんだけど・・・」と惜しまれつつ、序盤で大会を去る役者も多いのだが、今年に関しては、

早実があれよあれよの快進撃でまさかのベスト4*1、しかも、清宮選手が期待に違わず、PL時代の桑田選手以来の「1年生でホームラン2本」という結果を残す(しかも試合の流れに大きく影響する場面で、いい当たりが出る)。
・超高校級の2枚看板(小笠原慎之介投手、吉田凌投手)を擁する東海大相模が、準々決勝で花咲徳栄高校に苦しめられながらもサヨナラ勝ちを収め、結果的には順当に勝ち上がる。
・同じく大会屈指の好投手、佐藤世那選手を擁する仙台育英が、東北勢同士のサバイバルマッチを潜り抜けベスト4入り。
・さらに初戦からオコエ瑠偉選手がド派手な活躍を見せていた関東一高も、そのオコエ選手の9回決勝2ラン、という荒業でベスト4に・・・。

と、マンガでもベタすぎて書けないような展開で、準決勝の舞台に注目を浴びていた役者たちがずらっと顔を揃えることになった。

もちろん、早期に敗退したチームの中にも、ベスト4の舞台にふさわしい選手はいたはずだし、勝ち残ったチームも注目されていたスター選手ばかりが活躍していた、というわけではない*2

だけど、「個」の力を「チーム力」「指揮官の采配力」が凌駕しがちな夏の大会*3で、これだけ脚光を浴びるにふさわしい「個」の才能が勝ち残った、というのは、やはり記憶に留められるべきだろうと思う。

*1:Number誌でも指摘されていたように、西東京大会で都立高相手に苦戦を強いられていたチームが、まさかここまで健闘するなんて・・・というのが正直なところである。

*2:特に早実に関しては、清宮選手以上に、“脇役”に回された3年生たちの活躍が素晴らしかった。4番を打つ加藤選手の打席での雰囲気は、“脇役”にしてしまうのが申し訳ないくらい立派なものに感じられたし、高い出塁率を誇った1,2番コンピ、準々決勝でホームランを2本放った富田選手、そして、“弱体”と言う前評判を覆すかのように、大会に入ってから好投を続けた松本皓投手などなど・・・。

*3:暑さの中を予選から長丁場で戦ってきているために、どんなに才能に秀でた選手でもベストパフォーマンスを発揮しづらい、という状況があることに加え、最後のシーズンで、注目されている選手であればあるほど研究されマークがきつくなる、ということもあって、「個」だけではなかなか・・・という傾向はあったと思っている。

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ブログ開設から10年、の節目に。〜「企業法務戦士」は何と戦ってきたのか? 

2005年8月4日、「最近流行りなるブログなるものを開設してみた。」という一言から始まったこのブログも、とうとう開設から10年の節目の時を迎えた。

「10年」というとすごく長く感じるが、当時流行していた曲を聞いても“懐かしい”と思うほどの時代ギャップは感じないし、ブログ開設当初に良く取り上げた「のまネコモナー」のネタなども、読み返すとつい昨日のことのように思えてしまう。
それまでの人生の中で刻んできた「10年」に比べると、同じ長さでも明らかに短く、感覚的には“一瞬”のうちに過ぎていったのがこの「10年」という時間であり、そのような時間感覚と軌を一にして紡いできたのが、これまでの3000近いエントリー、ということなのだろう。

もちろん、客観的に見れば、自分を取り巻く環境に劇的な変化があったことも事実だし、それに伴って、個々の記事を書く際にバックグラウンドとなる経験や、執筆に駆り立てるモチベーションの中身も当然変わっている。

例えば、開設した当初のエントリーを見返すと、毎日の投稿件数がとにかく多い。

書き手としてのスタイルがまだ確立していなかったということもあるし、当時はまだ、(今との比較で)ブログに割く時間を比較的確保しやすかった、ということもあるのだけど、それ以上に、当時の自分は“何か書かずにはいられない”鬱屈した衝動に支配されていた。

法務の王道を歩むことを誰よりも強く願っていたのに、人事の壁に阻まれて、決して本意ではなかった職場で過ごさざるを得ず、“法の使い手”としてのこだわりを強く持てば持つほど、日常の仕事とそれにかかわる人々の思考形式とのギャップの中で空回りする・・・

今思えば、よく心のバランスを保てたな、と思うくらい、あの頃の自分にとっては、毎日がある種の“たたかい”だったし、だからこそ、ひとたびPCに向かえば、「法務という仕事」への想いを綴ることに必死になれた。

ブログのタイトルを「企業法務戦士の雑感」、としたのは、単なるフィーリングで、語感の良さゆえの偶然の命名に過ぎなかったのだが(そんなに深く頭を悩ませた記憶はない・・・)、当時、「戦うべき何か」は明確に存在したし、それゆえ目指すべきところも、はっきりと見えていた*1。だからこそ、三日坊主で終わることもなく、毎日飽きもせず、更新を続けられたのだと思う。

その後、ちょっとしたきっかけから会社の外に世界が大きく開け、必ずしも馴染んでいなかった仕事がいつしか最大の「武器」となり、長らく噛み合っていなかった歯車が何となく回るようになってきたりもしたのだが、実績をいくら積んでも、“行く手を脅かす影”に対する恐怖と憤りからは、そう簡単に逃れられるものではない。

そして、そんなふうに、心の中が不安で満ちていたからこそ、「法務部門の未来」「知財部門の未来」を、殊更、前向きな言葉で、精一杯の希望を込めて語ろうとしていたのが、あの頃の自分だった・・・。



歳月が流れ、立場が変わればモノの見方も当然変わってくる。

ふっと湧いて出る不可解な政策や司法判断など、新たなエントリーへの動機を生み出す事柄には今でも時々遭遇するが、こと身近なことに関しては、立場上、怒りを誰かに向ける側、というよりは、「向けられる側」になってしまったのも確かなわけで、ある種の無垢な純真さが生み出していた、かつてのような熱のこもったエントリーを書くことが、もはや難しくなってきていることは否定できない。

「法務」という仕事の魅力は、自分の中では今でもそんなに色褪せてはいないし、愛着だってもちろんある。

だが、この10年の間、王道からニッチ分野までほぼ万遍なく経験し、ディープな組織内のしがらみにも、論客が火花を散らす殺伐とした世界にも否応なく首を突っ込む中で、ブログを書き始めた頃とは違う思いが、自分の胸のうちで渦巻くようになっていることも事実。

“叩き上げのアマチュアだからこそできることがある”と拳を突き上げていた頃の感情はそのまま残っていても、ひとたび我に返れば、理性の片隅で“魑魅魍魎が跋扈する世界”というフレーズ*2に思わず頷いてしまう自分がいるわけで、一貫して抱き続けてきた気持ちと、それと相反するものがぶつかり合うことによる葛藤の中で、ブログの更新もどうしても滞ってしまう・・・*3

*1:そこに辿り着くための道筋を探し出すまでには、相応の苦労はしたが、目標が明確だっただけに、終始一貫して同じようなモチベーションをキープすることはできていた。

*2:唐津恵一「『企業内法曹』について一考」東京大学法科大学院ローレビューVol.6・205頁ほか。自分はこの著者がここで書かれている結論を全面的に支持するものではないが、企業法務の世界で豊富な経験をお持ちの著者がなぜこういう表現を使ったのか、に、思いが至るような機会も何度となくあった。

*3:もちろん「忙しさ」が最大の理由なのは確かだが、「迷わずにサッパリと書ける」ことが少なくなってしまったことが最近の低空飛行の背景にある、ということも、自覚はしている。

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就職活動開始時期を繰り下げたら、こうなった。

就職活動に関して、“ほらね、やっぱり、言わんこっちゃない”と言いたくなるような話題が、最近報じられることが多くなった。

いつもはひっそりと就職活動面や、教育面に掲載されることが多いネタなのだが、この日は、一気に「2面」にまで出てきている。

「就職活動の新たなスケジュールが今季から導入されたことで『学生の就活期間が長くなった』と考える大学が59%に上ることが25日、文部科学省の調査で分かった。」
インターンシップなどを通じた事実上の就活が、3年生の春に始まるのは例年と変わらず、日程が遅くなった分だけ長期化しているという。」
日本経済新聞2015年6月26日付朝刊・第2面)

記事を読むと、何となく“見込み違い”だった、というトーンが強く出ているのだが、「就職活動開始時期一律繰り下げ」なんて言うアホなことをすればこういうことになる、ということは、このブログの中でも散々警告してきたことで*1、何を今さら・・・という感が強い。

かつて存在した「就職協定」が廃止されてからもう20年近くになるので、その当時のことを忘れている人も多いのかもしれないが、廃止末期の大手企業における採用活動の状況というのは、

・建前では、正式な採用活動は8月1日から開始する*2、ということになっていた。
・しかし、実態としては、水面下でリクルーター等を使った事実上の説明会、面接等が行われており、解禁日の「説明会」に行っても、その後の採用に結びつく可能性はほぼ皆無。
・事前の活動で採用が決定した学生は、解禁日に、正式な「内々定」の通知をもらってめでたく握手。後は飲んで食って・・・。

といったものであった。

会社の規模が大きければ大きいほど、新卒社員の採用には、周到な計画性が求められるし*3、そこにあてはめる学生を選考するために、相応の時間を必要とする。

しかし、どこの会社も「オープン」に採用活動をすることができないから、大学ごとに先輩・後輩のツテを使って限られた範囲でインフォーマルな説明会・面接の機会を与えるか、どこかから入手した学生の名簿*4を使って、いわゆる「一流大学」の学生に資料請求はがきを送り付け*5、資料請求してきた学生との間で、リクルーターを介在させた事実上の面接のプロセスを始める、というのが、当時の一般的なやり方となっていた。そして、そのために、一部の上位校以外には大企業の採用の道が閉ざされている、とか、女子学生が恣意的に弾かれている、といったことが問題視されるようになり、「オープン化」、「人物本位採用」といった流れの中で、採用活動の期間や方法にタガをはめる「協定」は過去の遺物として葬り去られることになったのである。

その後、各社の思惑や外資系、ベンチャー系への対抗策、という意味合いもあって、活動開始時期は徐々に早まったものの、基本的には「オープンエントリー」の路線が定着していたから、優秀かつ要領の良い学生であれば、出身大学等を問わず、余裕のある時期に説明会等に参加して情報を収集した上で、概ね“期末試験後、春の新学期が始まるまで”の活動だけで内々定までたどり着ける、という状況にはなっていたように思う。

ところが、今年に入って「(公式な)採用活動開始時期を制限する」という悪しき制度が復活したことで、これまでの秩序が崩れ、「水面下の動き」をはじめとする悪しき慣行も再び目立つようになってきた*6

「建前」をきっちり守らない企業が悪い、と批判するのは簡単なのだが、書類選考、面接といったプロセスを、正式内定を目前に控えた8月、9月の間だけで行うのは実務的にはかなりリスクが高く*7、また、そんなやっつけ仕事で人生を決められてしまうのでは、学生もたまったものではないだろう。

その結果、経団連指針に拘束されない会社だけでなく、指針を形式的には遵守する方針の会社からも、「広報活動」が解禁された3月以降、自分の会社とマッチングする学生を早めに囲い込むための動き、というのが出てくることになり、「長期化」は避けられない事態となる。

また、問題が「長期化」だけで済めばまだよい方で、かつての就職協定下のように、閉ざされた環境で実質的な選考活動が行われる、ということになれば、割を受ける学生はもっと増えることだろう。


ちなみに、自分が就職活動を経験したのは、ちょうど“過渡期”で、従来型の採用活動と、オープンなスタイルでの採用活動が混在しており、説明会の時期も3月〜6月と、会社によって大きく異なる、という混迷の時代であった*8

良い社会経験だと思って、必要以上に多くの会社にアプローチしていたせいもあるし*9、早くから説明会を始めても、他社の状況を見ながら本格的な採用活動の時期を調整していたような会社が多かった、という過渡期ならではの特殊事情もあるのだが、先輩から「1カ月、長くても2カ月くらいで終わる」と言われていた説明会、面接の嵐がなかなか収まらずに閉口したことは、今も生々しい記憶として残っている*10

学生にとってみれば、「出遅れて行きたい会社の選考を受ける機会がなくなる」ことだけは何としてでも避けたいから、機会があればフォーマルだろうが、インフォーマルだろうが顔を出さざるを得ない。それに、動き出しの早い周囲の友人が、早々と内々定を取るような展開になってしまうと、余計に「1つは確保しておきたい」という思いは強まる。

一方で、「一つの会社に内々定をもらった」からといって、他の会社のドアをもう叩かなくてもよい、という割り切りができるかと言えば、それも違う。
転職が当たり前になった時代とはいえ、やっぱり最初に入る会社、というのは、履歴書上も人生経験上も大きいので、しっかり吟味して決めたい、というのは当然のことだと思う*11

その結果、真面目な学生であればあるほど、長々と時間を取られることになり、今までであれば、春休みに始まって、延びてもGW前には決着を付けられていたような話が、5月、6月、7月と延び延びになり、4年の前期を丸々就職活動のスケジュールで埋め尽くしてしまうような事態に陥ることは、容易に想像が付くところだ・・・。


まぁ、就職活動の実態がどうだったか、などということは、実際に体験した者にしか分からず、記憶にも残らないわけで、現代的な就職活動(いわゆる「シューカツ」)をまともに経験したことのない人々(大学関係者、政治家、そして古い世代の企業経営者)だけで制度を決めれば、“予期しなかった”状況に陥ることは必然だったのかもしれないけれど、さすがにここまで想定どおりにことが進んでしまうと、今の学生が気の毒でたまらなくなる。

今年の反省が速やかに次年度以降に生かされること、そして、その方向性が、悪しき規制ではなく、学生、企業双方にとっての「自由度」が確保される方向に向かうことを、自分は願ってやまない。

*1:直近のエントリーはhttp://d.hatena.ne.jp/FJneo1994/20130315/1363802095になるだろうか。もう2年以上も前の話か、と思うとげんなりする・・・。

*2:末期は、7月1日くらいまでには繰り上がっていたかもしれない。

*3:したがって内定解禁日の10月1日には、きっちりと固めておかないと新年度からの運営に支障が出る。

*4:個人情報管理が厳しくなった今は、ちょっと考えにくい手法ではある。

*5:会社からいきなり直接来ることは少なく、就活産業を営む会社(R社、M社、N社等)から請求はがき付きの「カタログ」が送られてきて興味があるところに出す、それをきっかけに会社とやり取りが始まる、という流れがメインだった。

*6:しかも、会社によってやったり、やらなかったりなので、余計にタチが悪い。

*7:これまでのように何度かに分けて採用を行う、という作戦も使えないし、かといって、内定時期を今の10月より後ろにずらす、という話になれば、学生の方が予定が立たずに困ってしまうのではないか、と思う。

*8:その意味では、今年就職活動をやっている学生の皆さんには共感するところが多い。この手の制度の変更で振り回されて割を食うのは、常に学生(と採用を担当する若手実務部隊)である。そして、制度を替えろ、と大きな声を上げて騒ぎ立てた人々は、決してその苦労を味わうことはない。

*9:資料請求のハガキは100通近くは出した。

*10:自分の場合、民間企業の就職活動は、あくまで「面接の練習」程度の位置付けのものでしかなかったので、なおさら「余分に時間を取られた」という感覚が当時は強かった。

*11:自分は就職に関しては極めて不真面目な学生だったので、5月で早々に打ち切ってしまったが・・・。

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