山崎正和氏の勇気ある発言

もう一つ、時事ネタを取り上げてみたい。


中央教育審議会山崎正和会長の、日本記者クラブ主催会見での発言。

「価値観が多様化する中、倫理的問題は学校になじまない。道徳を学校で教える必要はないと思う」
「(妊娠中絶や、勝者と敗者を生む競争社会など意見が割れる問題を挙げ)点数を付けられるものでもなく、学校で簡単に教えられない。代わりに民法や刑法などの順法精神を教えればいい」

「我が国の歴史はこうだったと国家が決めるのは間違い」
「自国の歴史を国家が決めているのは中国や韓国だが、歴史とは永久に学問の問題だ」(以上、2007年4月27日付朝刊・第42面)

これらの発言は、実に重みのある、核心を捉えたものだといえ、筆者としても全面的に賛同したい。


翻って世の中を見ると、安倍ボンボン首相をはじめとする保守派の政治家連中の手前勝手な「倫理観」「歴史観」を教育の場に持ち込もうとする動きが日々報道されているし*1、一部のメディアにもそれに追随しようとする動きがある。


だが、山崎氏が指摘するように、自由主義社会においては様々な価値観があって当然なわけで、「倫理」や「道徳」を教えるとなった時に、何か一つ“これ”といった答えを提示できるわけではない。それは「歴史の見方」にしても同様で、過去の我が国の外国への派兵・統治を、国際政治力学に照らした合理的な選択、と解釈するか、覇権思想に囚われた愚かな策だった、と解釈するかは、学者同士で議論すべき話であって、国が統一した見解をもって生徒に教え込むようなものではないはずだ。


理想を言えば、初等教育段階から高等教育段階まで一貫して、ありのままの事実と、それに伴う様々な解釈、思想を学生・生徒に向かって提示し、本人に“考える契機”を与えられるような教育を提供する、というのが望ましいだろうが、そのような力量のある教育者は、高等教育を担っている教育者(端的に言えば大学の先生方)の中にすら、そうそういるものではなく、現在の構想されているような「道徳教育」「歴史教育」の下では、所詮“国による価値観の押し付け”につながるのがオチだろう。


それゆえ、「そのような要素は教育の場から排除すべき」という山崎氏の発言を我々はもっと重く受け止めなければならない。


世の中にあふれる多様な価値観の中から、何を選び、自らの指針にしていくかは、“誰かに教わる”ものではなく、“自分自身で選び取る”ものなのであって、学校で教えられることは「どうやって情報を取捨選択するか」というところまでなのだ、と筆者は思うのである*2


なお、山崎氏の発言にあえて噛み付くとすれば、

民法や刑法などの順法精神を教えればいい」

のくだりだろうか(笑)。


刑法はともかく、民法の根底にある思想は「順法精神」という言葉で単一的に括られるものではないだろう・・・。


まぁ、信義則と権利濫用の概念くらいは、“精神”として教える意義があるのかもしれないが。

*1:彼ら自身の政治家としての「行動倫理」のいい加減さや、本当の意味での社会経験の薄弱さを指摘するのは容易だが、その点を突っ込んでいくと不毛な議論になりかねないのでここではあえて取り上げない。

*2:筆者も含めて、人々がメディアが垂れ流す情報を鵜呑みにしてしまう傾向の強い現代において、この点に関しては、より重点的な教育がなされるべきだと思うのであるが、残念ながら最近の諮問機関等における議論の中で、そういった冷静かつ中立的な視点からの議論が行われているとはとても思えない。

若者は反抗心を“失った”のか。

2年前、尼崎で悲惨な事故が起きるまでは、4月25日という日は「尾崎豊の命日」として記憶される日だった。少なくとも自分の中では。


さまざまな評価はあるだろうが、彼が一つの時代を創ったアーティストであったのは確かで、「尾崎豊変死」のニュースが流れた時、クラスに居た“狂信的信者”たちが涙を流さんばかりの勢いで叫んでいたのが、今でも思い出される(当然、彼らは葬儀の日は欠席していた)。


だが、没後15年を迎えた今、↓のような記事が出ているのを見ると、いかに「過去は美化される」といっても、あまりにやりすぎだろう、という思いに駆られざるを得ない。
http://www.asahi.com/komimi/TKY200704190202.html

「どんな価値観の変化があるのか。香山さんは「反発したり、知りすぎたりすると損をする。損得勘定が判断の基準になっている」と分析する。他者や社会との関係で揺れ、傷つく姿を歌ってきた尾崎の歌とは対照的な考え方。彼の実人生に対しては、こんな感想さえあった。「容姿にも才能にも恵まれているのに変に反抗して、早く死んだのはバカだ」
 学校や親への反抗、自分という存在についての不安。尾崎が歌ってきたのは、若者にとって普遍と思われるテーマだったはずなのに、嫌悪にも似た反感が生じている。
 尾崎の生涯を描いた著書がある作家吉岡忍さん(58)は「彼の歌は、内面に深く食い込んできて、いまの若い人にとって触ってほしくないところに及ぶ。現状に適応してトラブルなく日々を過ごすことに価値を置くと、そこに気づきたくないのだろう」と語る。

尾崎の歌を「学校や親への反抗、自分という存在についての不安」というキーワードでくくってしまうこと自体、筆者は疑問なしとはしない*1が、仮にこれを肯定するとしても、「その曲に対して反感を抱く」ことをもって「最近の若者は・・・」とつなげるのは、いくらなんでもおかしい。


尾崎が死んだ1992年前後、続々と遺作のアルバムが売れ出し、1〜2年「尾崎ブーム」ともいうべき時代が続いたのだが*2、当時の中学生・高校生の中にも、「尾崎(笑)」というノリの人間はたくさんいたし、替え歌やコントのネタにもされてしまう程度の扱いであった。健全な生活を送っている若者の中に、“尾崎否定論者”が多いのは、今も昔も早々変わっていないと思う。


もし変わったとしたら、それは「反体制」のシンボル的存在だった「尾崎」の曲を、学校の「倫理」の教科書や天下の朝日新聞が「良い教材」として取り上げるようになってしまったことに理由があるというべきだろう。


昔の中学生、高校生にとって、「尾崎」というのは、ビニ本やドラッグと同じで、親や教師に隠れてこっそり部屋で聞くようなものだった(それゆえ「反体制」のシンボルにもなりえた)のに、それを学校の先生に「教材」として示され賞賛されたのでは、「反体制」もへったくれもない。


大体、当時の尾崎の「卒業」等の詞に比べると、今のミスチルなんかの方が、遥かに「信念を持った社会への抗い」を表現しているし、当然、それらの曲は若い世代にも受け入れられているわけで、10代、20代の人間(それにとどまらず30代、40代、・・・の人間にも)に一定の比率で反骨心を持った人間がいる、という事実は、歴史を超えて普遍的に受け継がれていくものだと思う。


若者に説教するのは、天下の朝日新聞の専売特許とはいえ、曲や詞の美しさ、と言う点で純粋に一流のアーティストだった尾崎の思想を曲解して、「今どきの若者」に対する攻撃材料に用いるのは、全くもって感心できるものではない。


・・・ということで、没後15年にちょっとした憤りをぶつけてみた次第である。

*1:個人的には、尾崎の歌を貫いているのは、一種の「ナルシズム」ともいうべき独特の“美学”であって、それがかもし出す世界の美しさは素直に評価するが、こと「反抗心」という側面から見ると、一連の曲にはリアリティが欠けている、といわざるを得ないように思う。要は、彼の曲の中での反発、反抗といったものは「戦いもがき苦しむ自分」を演出するためのツールに過ぎないように思えるのである。

*2:尾崎豊のCDのセールスは、最初に世に出たときの数字ではなく、ほとんどが没後のこの時期に積み重ねた数字である。いわば“バブル崩壊直後”の鬱屈した時代にはちょうどぴったりはまるような曲だった、ということだろう。

歴史は繰り返す

バブルの時代を彷彿させるようなニュースが1面に。

国土交通省が22日発表した2007年1月1日時点の公示地価は全国平均(全用途)で前年に比べ0.4%上昇し、1991年以来、16年ぶりにプラスに転じた。マンション・オフィス需要が堅調な東京、大阪、名古屋の三大都市圏がけん引役になった。地方圏全体ではなお地価は下落しているが、仙台や福岡など地方の中核都市では反転上昇した。バブル崩壊後、長らく続いた「土地デフレ」から脱却した。」(2007年3月23日付け朝刊・第1面)

再開発需要もあって、ここ数年地価上昇を続けていた都心の商業地の“プチ・バブル”ムードがここに来て一気に全国的に加速したようである。


金持ちのための経済誌*1日経新聞のことだから、当然ながら、こういった傾向に対してはとりあえず煽るわけで、1面には「「清算」超え経済に活力」とバラ色の見出しが躍る*2


だが、筆者としては心境は複雑だ。


自分自身は金額の大小にかかわらず借金は背負わない主義なので*3、自分の保有資産を超える額の不動産をここ数年の間に取得する可能性は、ほぼゼロだろうが*4、周囲の同世代の人間や上司が、悪しき“マイホーム”幻想に取り付かれて、定年まで払い続けなければ返せないような住宅ローンで縛り付けられているサマを見ると、なんだか悲しくなる。


日本の地価はそうでなくても高すぎるのだ。


バブルへGO!」では、不動産取引の総量規制が「諸悪の根源」のように描かれているが、あの施策を打ったことによって、狂ったように上昇を続けていた地価の高騰にストップがかかり、それに便乗していた醜悪な不動産屋や銀行屋も淘汰されることになった。


おかげで、所得の低い若者や高齢者でも、今でも東京近郊に住み続けることができるわけだし、普通のサラリーマンでもローンを組めば何とか不動産を手に入れることができる状況に留まっていたわけである。急激な反動によって社会に様々な軋轢が生まれたのは確かだとしても*5、上記のような観点からは、当時の施策も評価されて良い。


そして、バブル以後これまでの間の地価下落のプロセスは、(さらに進んで)土地を庶民の財布で簡単に買えるようにするための調整局面だったはずなのだ。なのに・・・。


1980年代の末期、世にはびこっていたのは不動産屋と紳士面した銀行屋が組んで行っていた“地上げ”という悪しき慣行であった。


筆者が通っていた下町の学校にも、長年住み続けていた土地を追われそうになって、必死で抵抗を続けていたい家族の子弟がいて、怖いもの見たさで遊びにいったものだ(怪しい車が玄関の前に止まっていたり、目付きの悪い男どもがうろついていたり、と物騒なことこの上なかった。嫌がらせの品々も見せてもらった・・・)。


筆者自身は、人は常に新しい土地を目指して行動すべき(笑)だと思っているから、そもそも“先祖代々の土地”に執着する発想自体、時代遅れと切り捨ててしまうのだが、“しがみつきたい”人々の心情はそれはそれで尊重すべきだし、金に目がくらんだ亡者によって、無理やりそういった人々を叩き出すことを正当化する論理はない。


いわゆる“地上げ”と騒がれた事例の中には、そういった素直な心情とは無縁の“権益争い”(立退き料目当ての居座りなど)的側面もあったのだろうが、そうでない純粋な“悲劇”があったのも確かだし、そもそも人をそれだけ醜くさせたのは、過度に高騰した「不動産価格」なのだから、やはり地価の上昇はそれ自体悪だと思っている。


多くの善良な人々が居住用資産しか持たない(持てない)現代において、地価が上がって得をする人は限られている。


土地を持たない(持つつもりがない)人々や中小テナントは、高騰する家賃相場に悲鳴を上げることになるし、持っている人間でも、相続した瞬間に税金の重荷を背負うことになる。


そんな中、結局得をするのは、キャッシュを投げ捨てできる大資本と、土地を転がしている不動産屋、それと組んで設ける金融屋だけなのだ。


“バブル再来”を思わせる過熱感の中、

「公示地価の評価を担当した土地鑑定委員会の鎌田薫委員長は「上昇の著しい地域では、利便性や収益性で合理的に説明できない事例も散見された」と述べ、一部の取引過熱に警戒感を示した」(2007年3月23日付朝刊・第1面)

と、警句を発するムキもあるようだが*6、本音を言えばまだまだ手ぬるいと思う。


このまま野放図に過熱が続けば、いつかバブルははじけ、15年前と同じような“悲劇”が再びこの世にもたらされることになるはずだ。それで苦しむのが不動産屋や金融屋だけなら、高見の見物をするのも悪くない。


だが、20世紀バブル最大の「戦犯」とも言える巨大銀行や不動産会社、そして日経新聞(笑)が、新世紀のバブルの渦中でも堂々と主役を演じていることからも分かるように、真の悪人は少々傷を負ってもしたたかに生き延びる。そして、巻き込まれて身動きがとれなくなるのは、いつだって、罪のない一般市民なのである。


そのことに思いを馳せるなら、「本格的な景気回復の兆候」などと悠長なことを言っている暇はないはずだ・・・。

*1:その割には“市民感覚”風の記事も多いのが玉に傷だがw

*2:バランスを取ったつもりか、社説では「デフレが終わり注意を要する地価動向」とあるのがこの新聞らしいが。

*3:思いついたらいつでも、会社飛び出して新しいこと始めるつもりでいるので、ローンどころか流動性のない資産(例えば定期預金とか)は一切持たない主義である。

*4:そもそも首都圏に永住するつもりはないし、将来住むところは東京から遠く離れたかの地、と決めているので、今の仕事にひと段落付けるまでは、不動産を手に入れてもあまり意味はない。

*5:そもそも不景気によって失業者が急増したり、それを吸収する雇用が創出されなかったり、というのは、極端に保守的な日本企業の気質に由来するものであって、景気動向そのものとは直接関係ない話だろう、と個人的には思っている。

*6:というか、あの鎌田教授がこんなところで活躍されているとは・・・。

「死刑囚」100人の事態。

宇都宮市の宝石店強盗殺人放火事件で、死刑が確定する見通しとなったことで、拘置中の死刑囚は100人に達することになるという。

「「死刑囚」が100人に達する異例の事態の背景には、凶悪事件の増加や厳罰化を求める世論の高まりや、執行までの期間が長期化していることがある。死刑廃止を求める団体は20日、「死刑で凶悪事件は減らない」として終身刑導入の必要性を訴えたが、世論調査で制度存続を支持する声が多数を占めることから、長勢甚遠法相は「法の適正な執行という観点から対応する」と述べた。」(2007年2月21日付け朝刊・第43面)

前にも書いたかもしれないが、どうせ“犯罪者”という烙印を押されるのであれば、中途半端な“有期刑”や、仮釈放で世の中に出なければならない“無期刑”よりも、現世の穢れから解放され、その後の憂鬱な人生も一切背負う必要がない“死刑”の方がよほど受刑者の利益に資するのではないか、というのが筆者の持論で、少なくとも筆者自身が刑事被告人の立場に置かれるようなことになったら、「無罪、さもなければ我に死刑を」と法廷で叫ぶことであろう。


ゆえに、厳罰化を求める人たちがティピカルに「死刑制度賛成」を唱え、人権保障に重きを置く人々が同様に「死刑制度反対」を説く、という現在の構図には、ずっと疑問を感じているところである。


仮釈放なしの終身刑で一生“苦役”に従事させられるのと、現在のシステムの下で、周囲の冷たい視線を浴びつつ、経済的に保障されていない“余生”を(まだ世間的には若いのに)過ごしていかねばならないのと、どちらが良いか、という問いかけは、もはや「究極の選択」の域に入ってしまうもので*1、それならば「死刑」の方がまだまし、と思う人は決して少なくないはずだ*2


もっとも、死刑確定後、いつ執行されるか分からないまま拘置所の独房に放置される状況、というのは決して心休まるものではないだろうから、その意味で死刑にも“厳罰”としての意義があるのかもしれないが、そのような状況を演出しているのが、自ら死刑執行のサインをしない(あるいは執拗に減刑を求める)ことで、自分の思想信条を反映させている“人権擁護派”な人々であるというのは、実に皮肉なことだと言わざるを得ない*3


受刑者を“極刑から救おう”という意思それ自体は尊いが、そういう感情をひとたび抱いたからには、“救われた”受刑者が天命をまっとうするまで、その後の人生全てに対して責任を負わねばならないし、それができないのであれば、安易に“救おう”などという思いを抱かない方が良いのではないか、と自分は思うのであるが果たして・・・?

*1:これに近い状況が描かれていたのが、死刑制度のないアメリカの受刑者の現実を描いた『ショーシャンクの空に』という名画。

*2:100がゼロになった段階であれば、まだ「命があれば何でもできる」という金言は成り立ちうるが、-100以上のビハインドを背負った状況で、「何でもできる」といえるかは、やはり大いに疑問であり、そこをきれいごとだけで押し隠して論じようとするのはいかがなものかと思う。

*3:「死刑囚」がそもそも犯罪を犯していない、ということを前提とする「冤罪」被害者救済活動と、これらの“減刑”活動は本来明確に区別されるべきなのだが、実際には両者の区別は曖昧であるように思われる。

振り回される大学教育に同情す。

日経新聞の朝刊1面で、8日から「ニッポンの教育・第2部「学び」とは何か」という連載が始まっている。


要約すると、「最近の学生が「学ぶ目的」を見失っている」という嘆き節に尽きるのであるが、個人的には「何だかなぁ」と思うところも多々あり(苦笑)。


例えば、一例として、加藤新太郎新潟地裁所長への取材を元に、司法研修所入所“受験勝ち組”の気質の変化、という話題が取り挙げられており、

①試験に必要なことだけを予備校で効率的に学ぶ効率型学習の弊害
②公的な職業に就くという意識の乏しさ
③人生をどう生きるかといったビジョンを語れない

という“気質の変化”の3点のうち、特に①について、

「特に深刻なのが効率型学習の弊害で、試験に無関係な知識が驚くほど欠如している。研修所は2004年度から2年間、3年生判事補向け研修で古典を読ませた。05年度の課題図書は「ソクラテスの弁明」「武士道」「君主論」など。以前なら定番だったはずの古典を、司法修習生の最優秀層とされる裁判官の大半が読んでいなかった。」

と指摘した後に、

「医学部や司法試験は受験社会の頂点。合格者は社会的地位や高収入が半ば保証されるだけに、学力に加え、高い志と豊かな人間性が求められる。その根幹が揺らぐのは、どこかで学びがねじれ、劣化しているからだ」(以上、2007年2月8日付け朝刊・第1面)

と結論付けるあたりは、記者が単なる悪意をもって書いているとしか思えない・・・。


裁判官に必要な人間性が、古典を読むだけで得られるのであれば、苦労はしない。閉鎖された空間で培われた「教養」や「職業意識」は、特権階級としての偏屈なプライドにもつながりかねないものでもある。


仮に、今の学生がそのようなプロセスを経ずして、法曹の領域に足を踏み入れるようになっているとしても、その分、“普通の人間”としての俗物性(笑)を身につけているのであれば、“国民の目線に立った司法”という観点から、それはそれで大いに評価されるべきことのはずだ。


東大名誉教授の寺崎昌男氏の指摘として、

「深い人間理解が欠かせない医師や法曹など高度な専門職にこそリベラルアーツが必要だ。欧米ではリベラルアーツを基礎に専門教育があるが、日本にはそれがない。教養教育といいながら専門科目の初歩を教えるだけだった」

というコメントをわざわざ掲載して、それに対して肯定的な評価を与えていることにも疑問が残る。


学生や企業に“即戦力”となるための“実践的な学問”の重要性を強調して説き、「4年間総専門教育化」の流れを推し進めてきたのは、他でもないメディア自身であり、特に経済誌である日経新聞は今でも同様の立場をとっているように思えるからだ。


これは明確な矛盾、というほかないだろう。


ちなみに筆者の場合、法学部の法律専攻コースに在籍しながら、学部での4年間で法律の専門教育をほとんど受けていない。その代わりに数学だの論理学だの古典だの政治思想史だの心理学だの・・・と自分の興味のむくままに手を出して本を読み漁っていた、いわばリベラルアーツの申し子である(苦笑)。


だが、今、学問への意欲を駆り立てる「基盤」にあるのは、世のさざ波(今の環境で荒波というのはおこがましい)に身を投じてから直面した数々の矛盾を何とかしたい、という思いであって、学部時代のかすかな記憶(それは決して雑学知識以上のものではなかったw)ではない。


世の中での経験を積んでいない現役の学生が「学問の面白さ」を見出せないのはある意味当然のことで、大学における学問の質が“劣化”していくのは、学校教育の問題というより、社会から学校への“リターン”が容易には叶わない現状のシステムの問題だと自分は思うのである*1


まぁ、いつの時代でも、現役の学生は、「気力がない」と批判され、大学は「十分な教育を提供していない」と非難されるものだ。


5年前も、10年前も、そして、今批判記事を頑張って書いている記者の方々が大学に在籍していたであろう20年〜30年前も、同じような批判を受けていたことは、当時の新聞のコラムでも読めば、すぐに分かること。


大学が過度に大衆化して、俗物的な人間の“生産工場”のようになってしまうのは、筆者としても決して美しいことだとは思わないが、かといって、たかだか4年間しかない教育について、やれ“実利的な専門性強化だ”とか、やれ“リベラルアーツが重要だ”とお題目を唱えたところで、世の中が格段に良くなるわけではないだろう。大学に多くを求めすぎるのが、今も昔も、この国の悪いところだと思う。


人生は長い。それも大学を卒業してからの方が格段に長い。だとすれば、手を講じるべきところは、もっと他にあるのではないか、と思う次第である。

*1:多くの社会人にとっては、一端仕事を辞めて大学に入るのが困難な途である、ということに加え、受け容れる大学の側でも、そういった元・社会人に“お客さん”以上の扱いをしていないところに本質的な問題があるように思われる(特に法学系は顕著に・・・以下自主規制w)。

「子どもを産む機械」発言騒動

柳沢伯夫厚生労働相の“失言”が相当バッシングを受けているのだが、個人的には講演の中でちょっとクチが滑った、という程度の話で、国を挙げての大騒ぎをする、というのはいかがなものかと思う。


少子化を女性サイドの問題として語ること自体がそもそも問題」という指摘は、自分ももっともだとは思うのだけれど、老若男女問わず世の中には同じような考え方の人々がたくさんあふれているわけだし*1、大臣だけをスケープゴートにしても始まらんだろう、と。


どんなに古臭い思想の持ち主であっても、必要な政策をきっちり導入できるのであれば、それはそれで優秀な政治家というべきだし*2、政治家なんてそんなものだと思うのだけれど、最近は、ちょっとした言葉尻を過激に取り上げるメディアが多くて、いささか食傷気味でもある。


いずれにせよ、厚生労働省のトップがこの有様なのだから、これで一連の雇用制度改革にもますます逆風が吹くことは間違いないところで、何ともいえない空しさに襲われたのは筆者だけではあるまい・・・。

*1:そもそもいわゆる“少子化対策”の多くは、女性側の“支援”にスポットを当てたものになっているのだし。

*2:筆者自身は“少子化対策”の必要性自体あまり感じていないのであるが。

社会の反動化傾向?

今日の朝刊に掲載された「選択的夫婦別姓」をめぐる内閣府世論調査の結果を見て驚いた。

「夫婦が希望すれば結婚前の姓を名乗れる「選択的夫婦別姓」をめぐる内閣府世論調査で、制度導入のための法改正は「必要ない」とする反対派は35.0%で、5年前の前回調査より増えたことが27日、明らかになった。「構わない」と答えた容認派は逆に36.6%まで減り、賛否がほぼ拮抗(きっこう)した。20-30歳代を中心に慎重論が増えた。」
(2007年1月28日付朝刊・第38面)

おいおい、いまどき若いもんが慎重論って・・・www


前回の調査(2001年)の数字は別の意味で衝撃的で、30%前半だった肯定派の数字が一気に10ポイントほどあがったものだったから、今回世相を反映した適切な水準に戻った(肯定派が減少したとはいえ、10年前の水準は上回っている)ともいえるのだが、今国政を担っている方々が筋金入りの方々だけに(苦笑)*1、統計を取る際に何らかの作為が入り込んだ可能性も否定できない*2


“通称使用”が様々なところで定着してきたから、あえて別姓にしなくてもいいのでは?的な感覚で、法改正不要、を選択している人もいるのかもしれないが、結婚後通称で勤めていた会社を何かの事情で退職して、他の会社や派遣会社に移ったときに、「旧姓が使えなくて嫌だ〜」と叫んでいる人も相当数見てきたから、そのような意見に俄かに賛同するわけにもいかないだろう。


いずれにせよ、この数字を見て、高らかに「家族の絆」云々を叫ぶ論者が勢いづくことは間違いない。


だが、姓を変えれば伝統的家族観が崩れる、という発想自体ナンセンスだし、仮に崩れるとしても、いかなる家族観を取るのか国家(法)が強制することを正当化する理屈などあるはずもない*3


姓を同じくすることで「家族観」が守れる、と信じている人は、さっさと苗字を変えればよいし、そうでない、別の価値観で家族を作りたい人は変えなければ良い。今提言されている夫婦別姓化とはそういうレベルの話に過ぎないのである*4


なお、法務省は、

「直ちに夫婦別姓を導入する民法改正案を提出する状況ではない」

との見解を表明しているとのことだが、そもそも国民が大して賛同していない制度改正を「審議会答申を受けて」という名の元に、次々と導入してきたのはどこの役所だったか、よく自問自答していただきたいものだと思う(苦笑)。


まぁ、今提出しても、良くて審議未了廃案、ヘタすれば否決されかねない状況だけに、その辺も計算した上でのコメントなのかもしれないが・・・。


(補足)
ジュリスト誌に掲載されていた大村敦志教授の条文素案*5によれば、「夫婦の氏」については甲乙二案が示されているが、その中では選択的夫婦別姓制度が当然の前提となっている*6

甲案 夫婦は、婚姻の際に定めるところに従い、夫もしくは妻の氏、又は各自の婚姻前の氏を称する。
2 夫婦が各自の婚姻前の氏を称する旨の定めをするときは、夫婦は、子の出生の際に、夫又は妻の氏を子が称する氏として定めなければならない。

乙案 夫婦は、婚姻の際に定めるところに従い、夫もしくは妻の氏、又は各自の婚姻前の氏を称する。
2 夫婦が各自の婚姻前の氏を称する旨の定めをするときは、夫婦は、子の出生の際に、夫又は妻の氏を子が称する氏として定めなければならない。
3 夫婦のうち婚姻により氏を改めたものは、婚姻前の氏を日常生活上の呼称として用いることができる。
4 夫婦が各自の婚姻前の氏を称するときは、夫又は妻は、配偶者の氏を日常生活上の呼称として用いることができる*7。 

大村教授は、姓の相違が「家族としての一体性」に少なからず影響を及ぼす、というご見解のようで、私見として

「私自身は教科書などにも書いておりますが、どちらかというとO-9条乙案でして、別姓によって個人としての独立性を示すとともに、家族としての一体性をも示したいという要請は、必ずしも矛盾した要請ではないと思っております。そうした要請にも配慮するという形で、別姓制度を導入すればよいと思っております。」(前掲67頁)

とも述べられているが、「一体性に影響を及ぼす」か否かという点の当否はともかく、自由な姓選択のオプションを用意することで各人の家族観はいかにでも体現しうる、というのは間違いないであろう。


やはり、単に自分と相容れない考え方の人間が気に食わないからといって選択的夫婦別姓制度そのものに反対する、というのは、一種のカルト宗教家の如き愚かな振る舞いというべきだ、と筆者は思う。

*1:安倍首相しかり、高市早苗大臣しかり、山谷補佐官しかり・・・。

*2:これは5年前の調査にも言えることであるが。

*3:そもそも親子だって家族なのであって、親が子を思って苗字にあわせて名前をつけているのに、単に結婚したという一事をもって強制的に苗字を変える、と言う発想が、「家族」尊重につながるとはとても思えない。筆者に言わせれば、所詮、別姓否定論者など、家父長主義の残滓に憧憬の念を抱くだけのレトロな人々に過ぎない。

*4:ちなみに筆者自身は自分の苗字に何らこだわりをもっていない、というか変えられるものなら変えたい、と常日頃思っているので、できれば夫婦別姓にとどまらず、夫婦姓交換制度でも導入していただけるよう願う次第w。

*5:民法改正委員会家族法作業部会」での議論で用いられたもの、のようである。

*6:法制審の改正要綱を出発点としている、という研究会の性質上当然の話なのであるが。

*7:以上、内田貴大村敦志=角紀代恵=窪田充見=高田裕成=道垣内弘人=中田裕康=水野紀子=山本敬三=吉田克巳「特別座談会・家族法の改正に向けて(上)」ジュリスト1324号60-61頁(2006年)。

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