「死刑囚」100人の事態。

宇都宮市の宝石店強盗殺人放火事件で、死刑が確定する見通しとなったことで、拘置中の死刑囚は100人に達することになるという。

「「死刑囚」が100人に達する異例の事態の背景には、凶悪事件の増加や厳罰化を求める世論の高まりや、執行までの期間が長期化していることがある。死刑廃止を求める団体は20日、「死刑で凶悪事件は減らない」として終身刑導入の必要性を訴えたが、世論調査で制度存続を支持する声が多数を占めることから、長勢甚遠法相は「法の適正な執行という観点から対応する」と述べた。」(2007年2月21日付け朝刊・第43面)

前にも書いたかもしれないが、どうせ“犯罪者”という烙印を押されるのであれば、中途半端な“有期刑”や、仮釈放で世の中に出なければならない“無期刑”よりも、現世の穢れから解放され、その後の憂鬱な人生も一切背負う必要がない“死刑”の方がよほど受刑者の利益に資するのではないか、というのが筆者の持論で、少なくとも筆者自身が刑事被告人の立場に置かれるようなことになったら、「無罪、さもなければ我に死刑を」と法廷で叫ぶことであろう。


ゆえに、厳罰化を求める人たちがティピカルに「死刑制度賛成」を唱え、人権保障に重きを置く人々が同様に「死刑制度反対」を説く、という現在の構図には、ずっと疑問を感じているところである。


仮釈放なしの終身刑で一生“苦役”に従事させられるのと、現在のシステムの下で、周囲の冷たい視線を浴びつつ、経済的に保障されていない“余生”を(まだ世間的には若いのに)過ごしていかねばならないのと、どちらが良いか、という問いかけは、もはや「究極の選択」の域に入ってしまうもので*1、それならば「死刑」の方がまだまし、と思う人は決して少なくないはずだ*2


もっとも、死刑確定後、いつ執行されるか分からないまま拘置所の独房に放置される状況、というのは決して心休まるものではないだろうから、その意味で死刑にも“厳罰”としての意義があるのかもしれないが、そのような状況を演出しているのが、自ら死刑執行のサインをしない(あるいは執拗に減刑を求める)ことで、自分の思想信条を反映させている“人権擁護派”な人々であるというのは、実に皮肉なことだと言わざるを得ない*3


受刑者を“極刑から救おう”という意思それ自体は尊いが、そういう感情をひとたび抱いたからには、“救われた”受刑者が天命をまっとうするまで、その後の人生全てに対して責任を負わねばならないし、それができないのであれば、安易に“救おう”などという思いを抱かない方が良いのではないか、と自分は思うのであるが果たして・・・?

*1:これに近い状況が描かれていたのが、死刑制度のないアメリカの受刑者の現実を描いた『ショーシャンクの空に』という名画。

*2:100がゼロになった段階であれば、まだ「命があれば何でもできる」という金言は成り立ちうるが、-100以上のビハインドを背負った状況で、「何でもできる」といえるかは、やはり大いに疑問であり、そこをきれいごとだけで押し隠して論じようとするのはいかがなものかと思う。

*3:「死刑囚」がそもそも犯罪を犯していない、ということを前提とする「冤罪」被害者救済活動と、これらの“減刑”活動は本来明確に区別されるべきなのだが、実際には両者の区別は曖昧であるように思われる。

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