著作権法における「公序」とは?

このブログは一応法律系ブログ(のつもり)。
なので、久々に予告していた裁判例のコメントに戻る。


知財高判平成18年2月27日(第2部・中野哲弘裁判長)*1
「ジョン万次郎像」等をめぐる著作者人格権確認等請求事件である。


既に、大塚先生のブログや
http://ootsuka.livedoor.biz/archives/50363844.html#trackback
okeydokey氏のブログに
http://d.hatena.ne.jp/okeydokey/20060303/1141316781
本判決に関する充実したコメントがなされているので、
改めて詳述する必要はないのであるが、
本事件をひとことでまとめると、

「2時間サスペンスドラマのような事件」

である(笑)。

銅像をめぐる人間ドラマ

地裁の判決*2が出たときは、
「著作者の認定なんて法律論関係ないじゃん」と思って見逃していたのだが、
読んでみると、両当事者の人生模様が色濃く浮かび上がっている、
想像していた以上に泥臭い事件であることが良く分かる。


かたや、有名な彫刻家として知られ、美大教授として彫刻を教えていた原告。
かたや、彫刻の本場欧州に留学に行ったものの、
芸術家としては芽が出ないまま、柔道の指導で生計を立てていた被告*3


二人は戦後間もない昭和24年に出会い*4
その15年後、「ジョン万次郎」像をめぐって、再び交錯することになった。
原告が苦心の末作り上げた像に、著作者として刻まれた被告の名前。
そのことに気付きつつも、被告の兄弟子という立場ゆえに沈黙した原告、
銅像に隠された秘密は、30年の長い眠りを経て、
平成の世に突如として世にさらされることとなった。


人生の光と影の体現者、
決して交わることのなかった二つの運命。
審判の日は間近。
女神の天秤は、果たしてどちらに微笑むのか・・・・。


キャスティングは、読者の想像にお任せしたい(笑)。


一般的に、「著作者の認定」といった作業は、
あくまで裁判官の事実評価に依拠して行われる判断に過ぎず、
本来、そこに評釈を加える余地などほとんどないのであるが、
本件に関して言えば、
これまでの「彫刻家」としての活動実績からいっても、
被告の側にほぼ勝ち目はなかったものといえ、
被告側が相当無理な主張立証活動を強いられたであろうことは、
判決文に現れている主張を読むだけでも容易に想像が付く*5


地裁判決では、詳細な事実認定の末に
著作権法14条に基づく著作者推定を覆しているが、

「本件各銅像にその制作者として被告の名前が表示されていることにより,その本来の制作者である原告が有する社会的名誉や声望が害されているとしても,本件各銅像が建立されてから30数年が経過した現在においては,その程度がそれほど高くはないこと,及び,前記認定のとおり,原告は,本件各銅像の制作者として被告の通称が刻まれ,原告の名前が制作者として公表されるものでないことについては,銅像の依頼者と被告との関係などを考慮して,少なくともこれを黙認していたものであり,その後30数年を経過した今日に至って本件訴訟を提起したとの事情があることに照らせば,本件においては,現段階において謝罪広告請求を認めることは相当ではない。」

として、著作者人格権侵害に基づく謝罪広告請求を棄却しているし、
著作権法115条に基づく通知請求も、その内容の一部を否定するなど、
本件の特殊事情に照らした“配慮”も示しているのであり、
本件訴訟の当事者の主張のアンバランスさを鑑みると、
むしろ被告側に対する“温情”さえうかがえる結論になっていたのである。

「公序違反」論の是非

さて、このたびの高裁判決に目を向けてみることにする。


被告(控訴人)側は、追加主張として、
推定覆滅のための主張立証方法の問題や、
一審における原告側の鑑定手法の問題などを指摘しているが、
このあたりはあっさりと退けられている。


議論を呼ぶとすれば、
「一審被告名義での公表に関する合意が存在した」
という被告の主張に対する裁判所の応答部分で、

「これらの事情に照らせば,明示的にはもちろん,黙示的にも,一審被告が主張するような本件合意が成立したとまで認めることはできない。」

として、黙示の合意の存在すら否定したにもかかわらず、
続けて、

「加えて,著作者人格権としての氏名表示権(著作権法19条)については,著作者が他人名義で表示することを許容する規定が設けられていないのみならず,著作者ではない者の実名等を表示した著作物の複製物を頒布する氏名表示権侵害行為については,公衆を欺くものとして刑事罰の対象となり得ることをも別途定めていること(同法121条)からすると,氏名表示権は,著作者の自由な処分にすべて委ねられているわけではなく,むしろ,著作物あるいはその複製物には,真の著作者名を表示をすることが公益上の理由からも求められているものと解すべきである。したがって,仮に一審被告と一審原告との間に本件各銅像につき一審被告名義で公表することについて本件合意が認められたとしても,そのような合意は,公の秩序を定めた前記各規定(強行規定)の趣旨に反し無効というべきである。」

と述べたのは、
既にokeydokey氏が指摘されているとおり、
“蛇足”の感を免れ得ない。


もっとも本件に関して言えば、
勝ち目の乏しい訴訟で、強引な主張を繰り返し続けた
控訴人(被告)に対し、一種の“引導渡し”として、
厳しい判断を突きつけた裁判所の気持ちも分からないではないのであるが・・・。


上記の裁判所の判断に対しては、
著作権法制における「公の秩序」とは何ぞや。」
という問題提起ができるように思われる。


田村教授をはじめとする多くの識者は、
本判決と同様に、
①著作者の同意による侵害不成立が条文上規定されていないこと、
刑事罰の対象(121条)にもなりうること、
などから、
氏名表示権に関する19条の規定を「強行規定」と解し、

「別人を著作者として掲げる契約が締結されたとしても、公序良俗に反し無効となると解される」*6

という考え方に立たれているようである*7


だが、労働事件の裁判例などでは、
「公序違反」性の認定に厳しい判断が示されることも多い。


使用者と労働者、という、
一方的な契約条件設定が行われていることが推認されやすい領域ですら、
「契約自由」という大原則が「公序」による介入の壁として
立ちふさがることが多い、というのが我が国の現状である。


一個人である著作者が、部屋に監禁されながらゴーストライターとして
“他人の文章”を書かされ、“契約”によって氏名表示権の「放棄」を
迫られたような場合はまだしも、
本件のように、当事者間の関係にさほどの非対称性が見られない事案では、
少なくとも「弱者保護型規制」や「決定侵害型規制」が働く余地は
ないように思われる*8


だとすれば、ここで問題になるのは、
「秩序維持型規制」をかけることの是非、ということになろうが、
本判決や多くの論者が掲げている「公益上の理由」が、
他の一般的な「強行法規」におけるそれと比べて、
どれほど意義のあるものなのか*9
ということについては、未だ十分な分析がなされていないように思われる*10


本来であれば、このあたりの議論は、
山本敬三教授(あるいは大村教授あたりか)の著作あたりに
じっくり目を通してから行うべきなのだろうが、
残念ながら現時点でそこまでの余力はない。


ゆえに、以上は、単なる感想。


職務発明の問題をめぐる契約介入の是非を論じておられる山本教授が*11
この分野に進出されるのも見てみたいものだと、
密かに願ってみたりもする(笑)*12

*1:http://courtdomino2.courts.go.jp/chizai.nsf/d36216086504bdc349256fce00275162/89562e05cc7455dc49257123001cfd36?OpenDocument

*2:東京地判平成17年6月23日(第46部・設楽隆一裁判長)。

*3:「イタリアナショナルチームのコーチ」として東京五輪に帯同していたことも認定されている。これはこれで、すごいことだと思うのだが・・・。

*4:しかも被告が交際していた女性を通じて・・・。

*5:「本件各銅像には、被告が柔道やレスリングを彫刻と平行して傾注してきたことによる作風が現れている」・・・って、どんな作風なんだか・・・(笑)。

*6:田村善之『著作権法概説〔第2版〕』411頁(有斐閣、2001年)。

*7:著作者人格権の「放棄」ですら有効なものとみなす余地あり、とされる田村教授ですらこのような見解を示されているのであるから、著作者人格権の「人格権」としての性質をより強調される他の論者の方々の見解は押して知るべし、ということになると思われる。

*8:このあたりの分類は、後述する山本教授の論文による。

*9:言い換えれば「虚偽の氏名を表示させない」という目的が、契約自由の原則を超越するほどの価値のあるものなのか。

*10:刑事罰の存在が「公序性」を基礎づけるものとして作用するのは間違いないところだが、「著作者人格権」の意義そのものが問い直されている現在においては、刑事罰規定そのものが限定解釈される余地はあるように思えるのであって(しかも実際にはほとんどエンフォースメントされていない規定でもある)、単に刑事罰として「規定されている」というだけで直ちに「公序性」に結びつけることは、それによって生じる弊害(合意の上でのゴーストライター契約を結んだ場合等にそれらを一律に無効とすることの弊害等)を鑑みると、やや疑問の残るところである。

*11:山本敬三「対価規制と契約法理の展開」『職務発明』133頁−142頁(有斐閣、2005年)など。

*12:ちなみに、文化審議会著作権分科会の法制問題小委員会契約・利用WGが、著作権法と契約法の関係について検討を始めているようである(平成18年1月報告書・93−100頁)。

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