倫理と法の狭間で〜「最高裁判決法廷意見の分析」(第10回)

最一小判平成18年9月4日*1

新聞報道等で話題となった、死後懐胎子の認知訴訟。
周知のとおり、最高裁は結論として原告(子)の認知請求を棄却した。


認定された事実によれば、
亡くなった父親は元々慢性骨髄性白血病の治療を受けており、
無精子症のリスクを伴う骨髄移植手術を
結婚の半年後に控えていた身であった。
婚姻直後から不妊治療を行っていた夫婦にとって、
精子の冷凍保存という最先端の生殖補助医療技術は、
神の福音とも言うべき画期的なものであったことは想像に難くない。


父親は、いったん骨髄移植手術が成功して職場復帰するが、
その4ヶ月後に死亡。
生前から、保存精子を用いて自分の子を生んでほしい、
という夫の意向を聞かされていた妻は、
夫の死の翌年に、保存精子を用いた体外受精を決意する。


後述するように、本判決の結論に至った背景の一つには、
“死後懐胎子”という存在に対する
法を離れた感情的・倫理的側面からの懐疑的姿勢があるのは
疑いないことのように思われる。


だが、次代へと命のバトンをつなごうとする
真摯な両親の思いを阻む“倫理”って、一体何なのだろう・・・?


そんな疑問が、このエントリーの出発点となっている。

多数意見の論旨

「人工生殖について父の同意があれば認知請求を認めてよい」
として原告の請求を認容した原審判決を覆した最高裁の論理は、
以下のようなものである。

「現在では、生殖補助医療技術を用いた人工生殖は、自然生殖の過程の一部を代替するものにとどまらず、およそ自然生殖では不可能な懐胎も可能とするまでになっており、死後懐胎子はこのような人工生殖により出生した子に当たるところ、上記法制は、少なくとも死後懐胎子と死亡した父との間の親子関係を想定していないことは、明らかである。」
「死後懐胎子と死亡した父との関係は、上記法制が定める法律上の親子関係における基本的な法律関係が生ずる余地のないものである。そうすると、その両者の間の法律上の親子関係の形成に関する問題は、本来的には、死亡した者の保存精子を用いる人工生殖に関する生命倫理、生まれてくる子の福祉、親子関係や親族関係を形成することになる関係者の意識、更にはこれらに関する社会一般の考え方等多角的な観点からの検討を行ったこと、親子関係を認めるか否か、認めるとした場合の要件や効果を定める立法によって解決されるべき問題であるといわなければならず、そのような立法がない以上、死後懐胎子と死亡した父との間の法律上の親子関係の形成は認められないというべきである。」(4-5頁)

しかし、「民法の実親子に関する法制」が、
「本件のような人工生殖により子が生まれる事態を想定していない」
からといって、
そこから直ちに「立法がない以上親子関係の形成は認められない」
という結論が導かれるわけではなく、
多数意見は“説明不足”とのそしりを免れ得ないものといわざるを得ない。


元々立法者が想定していないケースに対しても、
裁判所の創造的法解釈で白黒を付けている事案は
いくらでもあるのであって、
本件のような“謙抑的な”姿勢を貫くならば、
近年の著作権侵害訴訟などは、
ほとんど権利者敗訴で終わってしまうであろうが、
実際にはそうなってはいない。


このように、多数意見はいかにも“消化不良”というべきものに
なってしまっているのであり、
裁判所の“本音”を読み解くには、
この後に続く滝井繁男、今井功両裁判官の補足意見まで
見ていかねばならない。


滝井繁男裁判官(弁護士出身)補足意見

滝井裁判官は、
「子は生存中の父母の配偶子によって生まれるものである」というのが
「自然の摂理」であるという前提の下、
死後懐胎子の出生は現行法制の予定しない事態である、とし、
民法は認知請求において懐胎時の父の生存を要件とする明文の規定」
を置いていない、とする原告側の主張に対しては、

「自然生殖を前提とする上記法制の下では、同要件は当然の前提となっているものというべき」(6頁)

と切り返す。


そして、
死亡した精子提供者の生前における明確な同意があれば、
法律上の親子関係が認められる、
という原告側の主張に応答した以下のくだりからは、
裁判官としての“本音”が透けて見える。

「本来、子は両親が存在して生まれてくるものであり、不幸にして出生時に父が死亡し、あるいは不明であるという例があるにしろ、懐胎時には、父が生存しており、両親によってその子が心理的にも物質的にも安定した生育の環境を得られることが期待されているのである。既に死亡している者が提供した冷凍保存精子を用いて出生した子はそもそもこのような期待を持ち得ない者であり、精子提供者の生前の同意によってそのような子の出生を可能とすることの是非自体が十分な検討を要する問題である上、懐胎時に既に父のいない子の出生を両親の合意によって可能とするというのは、親の意思と自己決定を過大視したものであって、私はそれを認めるとすれば、同意の内容や手続について立法を待つほかないと考えるのである。」(7頁)

「両親がいた方が安定した生育の環境を得られる」とまで
言い切れるものなのか、
近年生じている様々な悲劇の前では疑問があるところだし、
既に生まれている子をどう取り扱うか、という問題の前で
「価値の調和」云々を述べても仕方ないではないか、
という思いはあるのだが、


「既に生まれた子についてはその福祉を第一に考えるべき」という考えを
「理解でき」る、としつつ、

「法律上の親子関係を肯定することが生まれてきた死後懐胎子の福祉にとってどれだけの意味を持つものかは、必ずしも明らかになっているわけではない。・・・(略)・・・。既に生まれている死後懐胎子の福祉の名の下に、血縁関係と親の意思の存在を理由に法律上の親子関係を肯定すれば、そのことによって懐胎時に父のいない子の出生を法が放任する結果となることになりかねず、そのことをむしろ懸念するのである。」(8頁)(以上、太線筆者)

という滝井裁判官の一貫した論理の前では、
所詮は水掛け論に終わってしまうように思われる。


また、先に筆者が疑問としてあげた、
立法の欠缺から多数意見の結論が導かれる理由として、
滝井裁判官は次のように述べているが、

「司法は、法の欠缺といわれる領域を埋めるための判断を必要とする場合もあり得ると考える。しかしながら、本件のような医療の進展によって生じた未知の領域において生まれた子に法律上の親子関係を肯定するについては、法律上の親子というものをどうみるかについての様々な価値の調和と法体系上の調整が求められるのであって、司法機関がそれを待たずに血縁関係の存在と親の意思の合致というだけで、これを肯定することができるという問題ではないと考えるのである。」(7頁)

「法律上の親子関係をどうみるか」という深遠かつ抽象的な問いかけは
どうにも分かりにくいものというほかない。

今井功裁判官(裁判官出身)補足意見

以上見てきたように、「父親がいない子が生まれてくること」そのものを
問題視するかのような滝井裁判官の補足意見とは対照的なのが、
今井裁判官の補足意見、ということになろうか。


この補足意見の特徴は、
「死亡した父と死後懐胎子との間に法律上の父子関係を形成すること」
のメリット・デメリットをより具体的に検討する姿勢を
示したことにある。

「法律上の父と子との間において発生する法律関係のうち重要かつ基本的なものは、親権、扶養、相続という関係であるが、現行法制の下においては、認知請求を認めたとしても、死亡した父と死後懐胎子との間には、法廷意見のとおり、親権、扶養、相続といった法律上の父と子の間に生ずる基本的な法律関係が生ずる余地はなく、父の親族との関係で親族関係が生じ、その結果これらの者との間に扶養の権利義務が発生することがあり得るにすぎず、認知を認めることによる子の利益はそれほど大きなものではなく、現行法制とのかい離が著しい法律関係になることを容認してまで父子関係を形成する必要は乏しいといわざるを得ない。」(12-13頁)

このような見解の当否に関しては、
「死後認知」も認められている現状にかんがみると
議論のあるところだろう。


今井裁判官自身、
そのような批判が成り立ちうることを認めつつ、

「(死後認知は)懐胎の時点においては親権や扶養の関係が生ずることが予定されていたところ、その後父が死亡したという偶然の事態の発生によるものであって、懐胎の当初からそのような関係が生ずる余地がないという死後懐胎の場合とは趣を異にするものである。」(13頁)

と説明しているが、
人工生殖による懐胎直後に父親が死亡した場合と、
父親の死亡直後に冷凍精子を用いて人工生殖した場合とで、
事実上は実態を大きく異にするものではなく、
むしろ「現行法制とのかい離」が生じる方がおかしい、
という意見も成り立ちうるわけであるから、
この点については、
もう一段説得力のある理屈が求められるように思われる。


だが、専ら“個人的思想”の領域に属する理屈で
多数意見の結論を説明しようとする滝井裁判官の補足意見よりは、
一応は「親子法制」プロパーの問題として、
法的見地からの検討を加えようとする本補足意見の方が、
議論のあり方として、よりふさわしいのは確かだと思う。


何としても子を残したい、という親の真摯な気持ちと、
「自然の摂理に反する」生殖を認めるべきではない、という見解とで、
どちらが正しく、どちらが間違っているか、
優劣をつけることなどできるはずもないのであるし、
そのような争いの前では、「倫理」は何ら結論を左右する
決定打にはなりえないからである*2


なお、仮に「社会的合意」の存在を前提に考えるとしても、
本補足意見が指摘するように、

「親子法制の面では、医療法制面の検討を前提とした上、どのような要件の下に父子関係を認めるのか、認めるとすればこの父子関係にどのような効果を与えるのが相当であるかについて十分な検討が行われ、これを踏まえた法整備がされることが必要である」(13-14頁)

といった、
二段構えの検討が必要になるのであって、
社会倫理や医療倫理からダイレクトに結論を導くような発想は、
好ましくないと考える。

これから10年生き続けるのか、それとも化石になるのか・・・・。

亡くなった父親の真摯な同意がある限り、
死後懐胎子が誕生したとしても、倫理的には何ら問題なく、
法律上の父子関係を認めるべきか否か、と言う問題についても、
発生させることによって重大な効果が生じないのであれば、
ささやかな“親子の絆”を裏付けるものとして、
認めてしまえば良いではないか、というのが、筆者の考えである*3


今回の判決の根底に流れる“思想”に照らせば、
このような考え方が直ちに認められる余地があるとは言いにくいのだが、
生殖医療の一層の進歩とともに、
人々の意識が急激に変わっていけば、
10年後には、本判決が旧世代の“遺物”として片付けられる日が
来るかもしれない。


10年間生き続ける判決になるのか、
それとも化石として葬り去られることになるのか、
先のことを予測するのは不可能であるが、
“倫理的観点”からの精神論に終始することなく、
多少なりとも、独自の法的観点からの議論が
積み重ねられることを、今は願うのみである。

*1:H16(受)第1748号・認知請求事件。

*2:もっとも、今井裁判官の補足意見では、「十分な社会的合意のないまま実施された死後懐胎による出生という既成事実を法的に追認することになる」ことを「大きな問題」として捉えており、“倫理観”という束縛から完全に自由な見解が説かれているわけではない。

*3:もっと極端なことを言えば、倫理的に多少の疑義があったとしても、父子関係発生の効果を認めることで第三者の権利利益を害しないのであれば、法的効果だけでも認めてよいのではないか、とも思っている。

google-site-verification: google1520a0cd8d7ac6e8.html