著作権法は「大陸法」的か。

毎週月曜日に掲載されている日経紙の「領空侵犯」というコラムで、東大の坂村健教授のコメントが紹介されている。


「産業発展へ法体系変えよ」というタイトルの付いたコメントの中で、特に目を惹くのが以下のくだり。

「法体系をすべて英米法に変えるのは確かに難しいですが、最も変化の激しい情報通信分野ではそれが必要です」
「例えば、ネット分野だけでも著作権法英米法的にするという方針を政府が明確に宣言してはどうでしょうか。著作権分野に関しては英米法的機能を持つ特別な裁判所もつくるべきです」
日本経済新聞2008年8月25日付朝刊・第5面)

坂村教授によれば、

英米法」=「問題が起きたら裁判所に判断してもらい、その判例の蓄積がルールになる」
大陸法」=「緻密に作り上げられた法律文のみが唯一のルールとなっている」

ということのようで、

「変化の早さに対応するためには「英米法」系手法を取り入れることが欠かせない」

という発想から、上記のようなコメントに行き着いたようなのだが・・・



上の理屈でいうなら、侵害主体性をめぐる一連の判決のように、柔軟かつ大胆な法解釈が展開されている著作権法の世界は、教授の提言を待つまでもなく、もう十分に「英米法的だ」ということになってしまいそうである。


また、「大陸法的な」窮屈さが残っている規定といえば、真っ先に「権利制限規定」が思いつくが、「引用」をめぐる判断を見ても分かるとおり、この点においても現実に、準則定立機能を担っているのは裁判所である。「英米法的機能を持つ特別な裁判所」と聞いて、知財高裁第3部を思い出した人も決して稀ではないだろう(笑)。


教授にしてみれば、

「インターネットの世界にさっさと「フェア・ユース」を入れろ」


ということが暗に言えればよかったのかもしれないが、それにしては少し話を大きくしすぎだなぁ・・・というのが率直な印象である。


なお、坂村教授は、ストリートビューの例を取り上げた上で、米グーグルを

「あいまいな法体系の中で成功を収め、大企業になっても挑戦を続けています」

と持ち上げ、

英米法導入を明確に宣言することが風土改革に役立つかもしれません」

と主張されているのだが、ストリートビューに関していえば、我が国においてもプライバシー権だの肖像権だのに関する法制度は極めて曖昧なものであり、「法体系」の観点からみれば、日本もアメリカも大して異なるものではない。


それでもなお、日本とアメリカの企業の間に「差」が生じるのだとすれば、それは法体系によるものではなく、元々企業(及びそれを構成する人々)が持っているDNAの違いによるもの、というほかないだろう。


坂村教授にしてみれば、いつも、

「明確な立法がないと動けない」

と弱音を吐く日本の産業界に対して苛立たしい思いがあるのかもしれないし、「リスクに挑戦する風土を醸成すべし」という指摘自体はもっともだと思うのであるが、法体系を変えれば解決する問題なのか、と言えば、大いに疑問がある。(コラムのコンセプトを考えれば、こんなところで突っ込みを入れても仕方ないのだろうけど・・・。)

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