既に導入から2か月以上経過した裁判員制度。
どこの法廷でも公判前の整理手続にだいぶ時間をかけているようで、第1号事件の公判審理開始も8月までずれ込む形になったが、制度が既に始まっている、という事実には何ら変わりはない。
ところが、一向に進まないのが、“国民への浸透”である。
この日の朝刊には、以下のような世論調査の結果が掲載されている。
「内閣府が25日発表した「裁判員制度に関する世論調査」によると、裁判員候補者に選ばれたら裁判所に「行く」と答えた人は71.5%で、2006年の調査に比べ6.2ポイント増えた。一方で「義務だとしても行くつもりはない」との回答も25.9%あった。」(日本経済新聞2009年7月26日付朝刊・1面)
内閣府の分析は、
「裁判員制度について一定の理解は得られている」
という悠長なものなのであるが、既に制度が始まった後になって、しかも、「参加が義務付けられていること」や、「正当な理由なき不参加には過料制裁も課されるという条件があること」がかなり周知された今になっても、「25.9%」と、調査対象者の実に4分の1の人たちが不参加表明している事実は、重く受け止める必要があるように思う*1。
「重大事件」といっても、世の中の刑事事件の大多数を占める「争わない」事件であれば、そんなに長期間の審理・評議を経るまでもなく審理は終結するだろうし、そういった“(想像していたよりは)負担が軽い裁判員”を経験した人が増えてくれば、自ずから「裁判員になること」へのイメージも変わってくるのだろうと思うが、そこまで行く前に制度上重大なスキャンダル*2が発生して世間の注目を浴びるようなことになれば、制度そのものの存続が危ぶまれる事態にもなりかねない。
で、これだけ浸透が進まない最大の原因がどこにあるか、ということを考えてみると、その一番の理由は、
「何でわざわざ普通の市民が刑事裁判に参加しなければいけないのか分からない」
というところに尽きるのではないかと思う。
最高裁や各種メディアは、「国民の司法参加の重要性」等々、きれいな建前を並べて理解を呼び掛けているが、普通の人々にとってみればそんな建前はどうでもよいわけで、そういった建前ばかりを並べ立てている限り、良識ある人々が「職業裁判官がいるんだから、自分らがリスクを負ってまで参加する必要はないだろう」と思うのは、当然のことなのだ。
そこで、内閣府のアンケートで「行くつもりがない」と回答された方に、一度読んでいただきたい本をご紹介したい。
司法修習生が見た裁判のウラ側―修習生もびっくり!司法の現場から
- 作者: 司法の現実に驚いた53期修習生の会
- 出版社/メーカー: 現代人文社
- 発売日: 2001/12
- メディア: 単行本
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誤解のないように言っておくと、この本に書かれている内容が全て真実だ、と言うつもりは筆者には毛頭ない。
編集の中心となっているグループがグループだけに、元々バイアスがかかって書かれている記事もいくつか掲載されているのは確かだし、そもそも本が出てから10年近く経過した今、当時のような悪弊がいまだに実務上残っていると考えるのは早計だろう。
だが、ことの真偽はともかく、これを読めば、
「なぜ、一般国民・市民を刑事裁判に参加させよう!」
という動きが出てきたのか、その背景に連なる事情の一端を知ることはできるのではないかと思う。
「裁判員」として、普通の市民が刑事裁判に参加することには、少なからぬ意味があると筆者は信じたい。
そして、だからこそ、きれいごとではない、現状の訴訟実務の問題点をさらけ出す勇気を、関係当局には求めたい、と思うし、メディアも積極的に踏み込んで、法曹制度に内在する諸々の問題点を明るみにさらしてほしい、と思う次第である。