立つ鳥が残した波紋と、はなむけの苦言。

「何で今の会社を選んだのか」とか、「何で前の会社を辞めた(辞めたい)のか」「仕事を変わった(変わりたい)のか」なんてことを、理詰めで説明する、というのは、自分は元より無理なことだと思っている。

もちろん、賢い人であれば、必要に迫られれば当然それなりの理屈を考えることはできるし、特に転職の場合は、そこをどれだけもっともらしく説明できるか、というのが採否の大きなカギになるから、自ずから必要に迫られることになるのは確かなのだが*1、そういった“外向け”の理屈の裏にあるのは、理屈でも何でもない、極めて単純な感情だけ・・・ってことも、現実には多い。

だから、これまで散々、会社の法務部門に入ってくる人、辞めていく人、場合によっては会社ごと辞めて別の世界に行ってしまう人・・・と、いろんな人々から、的を射ているものからピント外れなものまで、納得できるものからそうでないものまで、それぞれの“理屈”を聞かされても、「まぁ、今はそう思いたいんだよね(笑)」と聞き流すことがほとんどである*2

特に、様々な衝動に駆られて辞めていく人間の言葉ほど、真剣に受け止めると損をするものはないわけで*3、たとえ相手が目の前にいる部下なり後輩であったとしても、「こいつ何かに取りつかれてるな」と思ったら、相手の語る“理屈”が全く自分の腑に落ちないものであったとしても、そこで議論を吹っかけてまでしつこく慰留することはしない、というのが自分の今の流儀だから、今回目にしたものも、本来ならさらっと流しても良かったはずだった。

だが・・・

その“理屈”がネット上に書き残されて、これから、の人たちの目に触れるところに置かれているとなれば、事情は異なる。

「経験した仕事に対してどういう思いを持つかは本人の自由だろう、お前の価値観を押し付けるなよ」というご批判もあるかもしれないし、「いちいち突っ込みを入れるなんて大人げない」という感想を持たれる方もいらっしゃるかもしれない。
そういうところも含めて、ここからの中身の評価については読者の皆様に全面的に委ねるつもりだが、誰にでも譲れないものはあるし、今回の話は、自分にとっては、極めてそこに近いところの話だ、ということは、予めご承知いただいた上で、読んでいただければ幸いである。

書き残された「転進」の理由と、それに対する素朴な疑問。

自分が今回、槍玉に上げようとしているのは、coquelicotlog氏が書き残された、「転進記」と題する一連のエントリー。

「転進記(1)」-「企業法務」について考えたこと
http://coquelicotlog.jp/2013/09/04/832/
「転進記(2)」-法曹資格、法学教育について考えたこと
http://coquelicotlog.jp/2013/09/05/834/
「転進記(3)」-「女性」として働き続けること
http://coquelicotlog.jp/2013/09/06/839/
「転進記(4)」-選択肢が「ある」ということ、選択肢を「捨てる」ということ
http://coquelicotlog.jp/2013/09/07/845/

企業法務業界から「かなり違う業界」に行くことにした、という著者(30代前半)が、様々な切り口から自らの「転進」について語る、というエントリーであり、相当手堅くロジックを積み重ねて「転進」という一つの選択の理由を合理的に説明することを試みられている、という点で、他の方のこの種のエントリーとは一味違った異彩を放つものとなっている。

ご自身で書かれているように「考えに考え抜いた」(転進記(4)より)上で書かれたものであるのは間違いないし、「転進記(3)」のような、「『女性』として働き続けること」をテーマとしたエントリーに対しては、自分には論評できる資格などない。

だが、「転進記(1)」、「転進記(2)」の中に織り交ぜられた、「企業法務」の現状に関する評価と、それに起因する転進の「理由」については、これが書かれた方の個人的な経験に基づく感想に過ぎない、という事実を差し引いても、強い違和感を抱かざるをえなかった。

特に、以下のくだり。

「『企業で法務をやること』と、『弁護士として企業法務案件を扱うこと』がかけ離れていることはご案内の通りで、個人的には後者の面白みを外から見ることができて初めて感じたものの、前者は私の一生の仕事にしたいわけではないらしい、と考えるようになったのでした。」
「『企業で法務をやること』に価値がないのではありません。私は辞めることを決めた今でも、企業に専任の法務がいて、その人が法律の知識を持ち、事業の知識も持ち、できれば戦略的思考も持っていて、自社の利益を最大化するリスクヘッジを試みていく営為には大変価値を感じています。法務には、大変テクニカルな習熟も必要になります。契約書レビューなどはそれなりに普遍的なテクニックかつすぐには上達しないスキルがありますし、法律相談等を有効かつ無駄なく弁護士にお願いするには、問題の交通整理(かつ、ある程度仮説を立てて依頼し、明後日の方向に行かないようにするための工夫をする)の能力や、社内決裁のお作法の深い理解も、円滑に承認を通していくには必要です。法務担当は、「契約書」という形で、取引の承認フローに関わる回数が比較的多いだけに、自分で発議せずともいろいろな取引に関わることになりますし、それを通すための尽力はとても重要な業務であると考えています。」
「ただ、大切であることと、自分に向いていることと、自分がやりたいと思えるかどうかは、別です。」
「私はあまり大きい規模の会社にはおりませんでした。OJTでの教育もすぐ終わってしまい、かつ、自分より圧倒的に知識のある先輩、というのは特に法律知識に関してはおりませんでしたので、自他共に幅広い自助努力が求められる状況でした。その中で奮励するうちに、無資格でロースクールにすら行っていない自分の知識の不足や習熟の足りなさが許しがたく感じられるようになってきたのでした。」
〜「転進記(1)」より

確かに「企業で法務をやること」と、「弁護士として企業法務案件を扱うこと」は似て非なる所為だし(さらに言えば、両者は優劣関係で括られるようなものではなく、どちらを選ぶかは単なる好みの問題に過ぎない)、その後に綴られている「企業で法務をやること」の中身についても、決して間違ったとらえ方はされていない。

しかし、その後に続く、「知識の不足や習熟の足りなさ」というご本人の問題認識の方向性と、それを「無資格」&「ロースクールにすら行っていない」というところに結び付ける論調は、これから「法務」という世界を目指す人々に誤解を与えかねないのではないか、と自分は危惧している。

たとえ、いかに慎重に言葉を選び、前後の記述と合わせて自らの志向のオリジナリティを強調したとしても・・・。

幸か不幸か、自分は資格を取るずっと前の時代でも、「法務」という仕事に関わる上での“知識の乏しさ”を、自分の経歴ゆえのコンプレックスとして心底から感じることはなかった。
いや、もちろん自分がしたアドバイスの法的裏付けがかなり危うかったことにあとから気づいて、「知識が足りないなぁ・・・」と感じたことは何度もあったのだが、大学で、あるいは大学院で学ぶことによって、あるいは法曹資格を取るためのプロセスを経験することによってそれをカバーできる、とは思っていなかった。

なぜなら、実務で必要な「知識」と、大学で教えている「知識」あるいは法曹養成課程で学ぶ「知識」とは本質的に次元が異なるもので、前者を補充するために後者を取得するのは、あまりに迂遠だと思ったからで、実際には、その後、後者に関して経験できたことは多いが、それでも自分の中での結論は変わっていない。

仕事上、判断をするために必要な「知識」の素は、法律文献を読み解く最低限の読解力があれば手に入るし、てっとり早く仕入れたければ、経験豊富な弁護士に聞くこともできる。
そして、それを、現実に直面した場面で溶かして、自分の頭で考えた上で当てはめる、というプロセスを踏んで初めて、本当の意味での実務で使える「知識」になる。

すなわち、企業内法務における「知識」とは、「経験」とほぼ同義なのであり、2年、3年の経験でそれが「足りない」と思うのは当然のこと。

それを「ロースクール」云々、という話に結びつけてしまうのは、あまりに拙速だし、必要なモノの本質を捉え違っているように思えてならない。

そもそも、「知識」以前に、発言に説得力を持たせるためのロジックの立て方、見せ方、仕事の回し方、そして、社歴の浅い担当者を「プロ」として認知させるための部門そのもののステータスの向上こそが、自分が手段を選ばず、必死に取り組んできたことだった(今でも、多くの企業の法務部門には、「知識」以前にこっちの方がずっと重要性が高いはずだ、と信じてやまない)。

「企業法務は面白い。ただ、自分がこれを職務としてできるかも、と感じた瞬間というのは、大きなディールであっても、目の前の議事録であっても、満たすべき法的要件があり、堅実にこれを積み重ねることは大変重要で、きちんとした仕事をするためにも知識は本当に必要である、と痛感した時だった。」

と語られるcoquelicotlog氏にとって、大切なのは法学的な「知識」そのものであり、上記のようなロースクールでも司法研修所でも売られていない*4エッセンスを極める方に自らのエネルギーを向けることに対しては、(必要性は分かっていても)面白みが感じられなかったのかもしれないし、それをcoquelicotlog氏特有の事情、と理解することはもちろん可能だ。

だが、そうでなくても「法科大学院でしっかり勉強して、法曹資格が取れるレベルに達した者だけが良い企業法務担当者になれる」というセールストークがはびこりつつある、というのが昨今の状況だけに、「無資格」と「ロースクールに行っていない」という2点が殊更に強調される(ようにも読めてしまう)形で「法務業界からの転進」の理由が説明されていることを、読んだ者がどう受け止めるのか、ということを、さらにもう一歩配慮していただきたかったなぁ、というのが率直な思いである*5

そして、もう一つ。
「転進記(2)」に以下のようなくだりがある。

「『物事を処理するに当って、外観上の複雑な差別相に眩惑されることなしに、一定の規準を立てて規則的に事を考えること』ができること。そうできるようになることに大変心を惹かれ、それを可能にする能力をこの身のうちに抱くことが私の目指す到達点であって、そこに至る具体的な道具立てが法律や法曹資格でなくとも、そこに至ることはできるであろう。私に向いている装備を探し、私なりの道具を使って、『法律的に物事を考える』ことができれば、それはそれで価値があるのではないか、その道具立ては、今般の法曹養成の状況を鑑みると、少なくとも現状において高コスト・低リターンなスキルとなりつつある法曹資格ではなく、ましてや企業法務という立場に拘泥する必要すらなかろう」

この前に引用されている末弘厳太郎博士の名言には、自分もかつて接したことがあるし、現在に至るまで血肉となって生き続けている言葉でもある。

そして、上記エントリーに書かれている「そこに至る具体的な道具立てが法律や法曹資格でなくても」そこに至ることができる、という結論にも全く異論はない。

問題は、それがなぜ、末弘博士の言葉を実現する一番の近道である「企業法務」という恵まれたポジションからの「転進」につながる理屈になるのか、ということである。

「自分の特徴を理解しつつ、なおかつ特性を生かしつつ社会で働いていくにあたって、『狭い実定法ないし実定法学の知識を超える視野、社会についての見通し、歴史学や思想史などでしか養われない資質』は、混沌として複雑で、明快な解のないこの世の中の課題を一つずつでも拾い上げて、少しずつでも良い方に置いていけるようにできる大きな力になるのでは、と考えます。無論それは、実定法に拘泥する必要はないし、ひいては法律にこだわりすぎる必要さえないのかもしれません。」

今や実定法学においても、広い視野からの検討をしなければ業績を残せないはず(と自分は信じている)だから、そもそも上で書かれているような「狭い実定法ないし実定法学」と「歴史学や思想史」との比較が妥当かどうか、にも疑問はあるのだが、それはさておくとして、「企業法務」という場所が、「実定法」や「法律」そのものに拘泥して仕事をする場所ではない、ということは、書かれたご本人が一番良く分かっているはず。

それなのになぜ、

「法律は、とても重要で、私にとって愛着のある「道具」です。ただ私は、そんなに法律に特化した才能があるわけではなく、どちらかというとこだわりなく幅広くのことを知り、頭に汗をかいて絞り上げて考えることでそれを統合して成果物を生み出すことに興味があり、向いているのでは、というのが今回至った結論です。そのためには道具立てを変えたほうが有益で、なおかつ、その形でスキルを上げ、アウトプットを出していく、というところを考えるとコンサルティングかな、と以前から頭にはありました。」

ということになってしまうのか、これではまるで、「企業法務」という場所が「法律」という道具に特化した仕事をするところのように思われてしまうではないか・・・というのが自分が最初に受けた印象である。

もちろん、「法律」という道具は、それが難解で日頃から接している人間が少ないゆえに、企業内の序列や力関係を覆して自らが望む施策を実現するために、法務部門の極めて大きな武器となるのは間違いない。
だが、法務部門で使える武器は、決してそれだけではないだろう。

時には他部署の力も借りつつ、集められる情報は徹底して集めて、法律という武器にミックスする形で経営判断を事実上左右するような自部門の「判断」に重みをもたせる・・・それこそが、単に「リーガル・オピニオン」だけを求められる立場の社外の法律事務所と企業内の法務部門との一番の違いだし、後者の面白さを決定的なものにする要素でもある。

そして、ここにはまさしく「コンサルティング」のプロセスと共通する中身があるし、“社内の一部門”という立場上、むしろそれを超えたものすらあるように思われるのに、なぜ、「コンサルティング」と対比されるポジションに「企業法務」という仕事を置こうとするのか、それが分からない。

何名かの企業法務の先達が指摘されているように、「法務部門」において様々な「道具」を駆使することの面白さを味わうには、coquelicotlog氏のこの分野での経験は短すぎた、というべきなのかもしれないし、それゆえ、ここでことさらに“理屈”を批判するのはやり過ぎ、とのそしりを免れ得ないのかもしれない。

ただ、「広い世界に目を向ける」ために「コンサルティング業界」に行きたい、という思いを説明するために*6、今自分がやっている仕事をわざわざ比較対象にする必要があったのか? という点に素朴な、だが、最大の疑問があったので、敢えて書かせていただいた次第である。

おわりに

個人的な経験で言えば、法務部門からコンサルティング業界に転身した人間は、過去に自分が接した方の中にもいたし、逆に、コンサルティング業界から法務部門に「転進」した方も知っている。

だから、coquelicotlog氏の今回の選択に対して、正しいとか正しくないとか、そんなことを申し上げるつもりは毛頭なく、要は単なる好みの問題だと思っているのだが、長年、企業法務の世界で仕事をしている者の視点で見た時に、上に引用したような“理屈”には大いに違和感があったし、この“理屈”を維持したまま、言葉を尽くして説明しようとすればするほど、この世界を知る人々(企業法務側の人間に限らず)にとっての違和感は拡大していくんじゃないのかな・・・ということだけは、申し上げておきたかった。

まだまだ未来のある方だと思うので。

*1:自分はそういう面倒なことが極めて嫌いな人間なので、少々足元の環境に不満があっても、なかなか普通の転職をしよう、という気にはなれないw。

*2:正確に言うと、入ってきた人の数年後、あるいは、辞めていった人の数年後の姿まで含めて眺めているうちに、そう流すのが一番賢い聞き方だ、ということに気付いた、というところだろうか。

*3:目の前で後ろ向きなセリフ吐いて辞めて行った人が、何年か経った後に「戻りたいなぁ」と真面目に復帰オファー出してくる、なんて話も耳にする昨今の状況に鑑みれば、なおさら、というところはある。

*4:厳密に言えば、プログラムの中に潜んで売られているのだが、売っていることに気付かずに通り過ぎてしまうことの方が多い。

*5:「転進記(4)」などを拝読すると、「『きれいな形』で法曹、法務としてのキャリアは始められず」とか「有資格者・ロースクール卒業生の絶対数が増えていく中でほぼ同年代として過ごしているとしても」といった表現が散見されるところで、この辺は、同じ世代ではない自分には必ずしも理解しきれないところではあると思う。ただ有資格者の「絶対数」ということで言えば、「1500人時代」以降、そんなに大きく変わっているわけではないし、法曹を目指すための努力をした人とそうでない人、というところでの差は、当然昔からあったわけで、“今特有”の問題ではないんじゃないか、と自分は思っている。あの大学の場合、学生時代に法律をまじめに勉強していた人ほど、就職してから法律と関係ない仕事につきたがる、という傾向は昔からあったから(逆に自分のように、ほとんど実定法に触れなかった人間の方が、同世代の中では法律に近い仕事に就いている傾向が強い気がする)、むしろ、そのあたりの影響では・・・と思ったりもする(ご本人は謙遜されているようであるが)。

*6:ちなみに、「企業法務」と「コンサルティング」(社外の弁護士も、か)を比べた時に、一方が「広い世界」でもう一方が「狭い」という見方は、決して正しくないと自分は思っている。企業法務部門の社外との接点は決して少なくないし、そこから見える景色も決して視野の狭いものではない(もちろん会社や業界の規模によって、その広さは変わり得るが、その辺の大小も決して決定的な要素ではない、と自分は思っている)。要は、定点から腰を据えてじっくり世界を見るか、自分自身が動きながら世界を見るか、という違いであって、前者でも「広い世界に目を向ける」気持ちさえ忘れなければ、「広い世界」を見ることは可能だし、後者でも自らが視野狭窄に陥ってしまえば何も見えなくなる、ということに変わりはない(はず)。

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