総会シーズンの真っただ中で、空を仰いでため息をつく。

今年に限った話ではないが、6月も中盤に差し掛かると、4月-3月を一区切りとする日本企業の多くは、否応なしに「株主総会」というフレーズを意識せざるを得なくなる。
そして、この季節は、どこまで実際に総会の運営にかかわっているかにかかわらず、連動した役員人事やら何やらで、どことなくそわそわする人間が多くなる湿っぽいシーズンでもある。

これまでこのブログでも、明に暗に触れてきたとおり、現場でビジネスを回して支えてナンボ、という信条の下で生きている者にとっては、

株主総会なんて、ただの儀式」

に過ぎない。

だが、会社の内にも、そんな「儀式」に過剰に神経を尖らせる人々は決して少なくないし、外に目を向ければ、ここ数年増殖一途の“コーポレート・ガバナンス厨”の輩たちが、上から目線で「儀式」にことさらに意味を持たせようとする。

すっかり“厨”のスポークスマンになってしまった感のある日経新聞などは、「株主提案の増加」を好意的なトーンで取り上げ、最近では「相談役・顧問制度」に疑問を唱える株主提案にスポットライトを当ててみたり、と、話題作りに必死なのだが、当の大手製薬会社の株主提案をよく読めば(&セットで提案されている議案と並べて読めば)、提案の背景に建前論と異なる理由や思惑があることは明白なわけで、そういった部分を捨象して、あたかも高尚な企業統治体制の議論に持ち込もうとするメディアには正直辟易する。

また、本来は資産運用の一手段として株式を保有しているに過ぎない機関投資家に対して、“熟慮して議決権行使をせよ”というプレッシャーをかける昨今の風潮にも解せないところは多い。

自分はひねくれ者だから、一個人投資家の立場で議決権行使しようと思ったときに、デフォルトが「会社提案賛成、株主提案反対」となっているのを見てしまうと、思わず、一つや二つは逆の投票行動をしたくなってしまうし、現に自分の中で基準を立てて、ヒットした場合には“会社が嫌がる”方向での議決権行使をすることもあるのだけれど、それが対象企業の統治体制に何らかのインパクトを与えることまで望んでいるわけではないし、ましてや、企業のパフォーマンス向上に寄与するなどと考えたことすらない。

企業の業績を左右するのは、専ら客観的な市場環境と現場での一つひとつの地道な取引の積み重ね、そしてちょっとした「運」であって、上のレベルでの経営判断がああだったからこうなった、というのは、ほとんど後付けの理屈に過ぎない。仮に「上の判断」が命運を分けるようなことがあったとしても、それは「執行」レベルでの話。

だから総会で雛壇に並ぶ取締役に対しては、通り一遍の「説明義務」を果たさせ、万が一の場合には一身をもって「責任」を取る役回りを果たさせればそれで十分なのであって、それを超えて何かにコミットさせようとするのは大いなる無駄だし、投資目的で株式を保有する株主に予定調和を超えた行動を求めるのは、もっと無駄なことだと思うわけである*1

年々、役所も含めた「声の大きい人々」と、実際に企業の活動を支える現場の感覚との乖離が大きくなっている現状、そして、コポガバをネタにして私企業の箸の上げ下ろしにまで“口先介入”しようとする、世界でもあまり類を見ないムードが日増しに強まっている現状を前に、今は溜息しか出てこないのだけれど、「いつかブームは去る」と念じつつこの佳境を乗り切ろう・・・そんな気持ちでやっている。

*1:そもそも、投資家には、株式を好きな時に売却する自由が与えられているわけだから、賢明な投資家であれば、効果の薄い「株主としてのアクション」に労力をつぎ込む前に、企業のパフォーマンスの良し悪しを見抜いてポートフォリオを組み替える、というのが常識的に求められる行動であるはずだ。

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