「希望」の灯を消さないように。

文化の日」くらいは文化的なことをしたい、と、珍しくAmazon Primeで映画を2本、さらにいろいろ節目のJBC2020の中継を見つつ、久しぶりの祝日を穏やかに過ごしていたのだが、その流れで、今日のエントリーではしばらく書けていなかったある本の読後所感も書いてみることにする。

希望の法務――法的三段論法を超えて

希望の法務――法的三段論法を超えて

サントリーHD㈱法務部の部長を現役で務めておられる方が「法務」の進むべき道について書き下した、ということで発売当初から話題となり、未だにAmazonでは「ビジネス法入門」ジャンルでベスト10圏内をキープしているこの書籍。様々な評価が乱れ飛んでいることも承知の上で、一言で感想を述べるとすれば、

法務に関わる人なら、一度は読まないと損する一冊

ということになるだろうか。

そもそも、企業内法務で長く経験を積まれた方がこういう形で自らの経験を言語化して書籍を出す、ということ自体が極めて貴重なことなわけで、ともすれば、3~4年足を突っ込んだ程度で企業内法務についてあれこれと語ろうとしている人も決して少なくないこの時代に、「本物」の一冊が出た、ということの意味は極めて大きい。

そして、極めて読みやすく高度な文学的センスすら感じさせる筆致ながら、書かれていることの端々には、深く考えさせられるような指摘が散りばめらており、さらにそれらに対する著者の熱い思いも伝わってくる。

内容的には、先日ご紹介した「Society5.0時代の法務」*1と共通するところも多いのだが、「単著」となったことでその路線が純化された、というべきだろうか。

例にもれず、お気に入りの本を紹介する時はどうしても引用箇所が多くなってしまうのだが、気に留めておきたいフレーズ*2、特に「契約」に関する”名言”を本書の中からいくつか挙げてみることにする(以下、強調は筆者による。)。

「AIが導入された法務業務において、契約書のレビューにおける本当に必要なスキルはどういうものであろうか。それは、もしかすると、契約書の外にあるのではないか。」(20頁)
契約書を週に何本レビューするという数字は、法務部門の本質的な成果ではないのだ。(中略)法務部門の業務の本質は、契約書を作り出すことではなく、その契約に基づき作り出されたビジネスが円滑に進み、企業価値向上につながるということではないか。」(21頁)

「繰り返しになるが、法務部門の仕事の成果は『契約書』そのものではない。その契約に基づきビジネスが円滑に進み、リスクがヘッジされているという状態を作り出すことである。」
「当たり前であるが、契約書はあくまで『手段』であり、『ツール』である。決して、『手段』を『目的』にしてはならない。」(以上32頁)

「わたしたちは他社と何かをしようとするときに、あまりにも類型化された『契約』や『取引類型』に縛られすぎてはいないだろうか。
「そこに何か落とし穴はないだろうか。わたしたち法務部門は、現場の取引を類型化された『契約』というものに無理やり落とし込み、それが他社との関係性の全てのように扱っていないだろうか。」(以上44頁)
取引や相手との関係性の内容は、決して『契約』が生み出すのではない。取引や相手との関係性が『契約』を生み出すという根源的な立ち返りが求められているように感じる。」(45頁)

本書では、「AI」導入という視点から上記のような点が強調されている面も大きいのだが、おそらくそれはただのきっかけに過ぎず、「まずリアルな取引ありき」という価値観こそが企業育ちの実務家に共通するものではないかと思うだけに*3、それが本書ですっきりと言語化されているのに接し、我が意を得たり、と感じた読者は多いはずだ。


また、良く論じられがちな「法務とビジネスの関係」に関しては、第1部第2章「企業法務と契約の往復運動」に出てくる以下のフレーズに尽きるだろう。

「ビジネスパートナーではない。あなたは、ビジネスの一部であるのだ。」(23頁)

このフレーズは、「まずは自分自身もビジネスを行っているという意識を強く持つことである。ビジネスに入ることである。」「自分が『法務担当者』であるという意識、『インハウスロイヤー』であるという意識を強く持っている限りは、未来永劫ビジネスのことなど理解できないと思う。」(以上23頁)という言葉に続いて出てくるものであり、さらに「法務部門はビジネスの中にあるし、なければならない。法務担当者、あるいはインハウスロイヤーは、法務担当者であるずっと前に、『ビジネスパーソン』である筈である。」(24頁)という言葉に続いていく。


自分がかつて会社に入った時に「法務」などという部門はなかったし、当然ながら「法務担当者」としての採用枠も当然の如くなかった。

たまたま何かの弾みで「法」にかかわる仕事をやるようになり、より深いところまで足を踏み入れる方向には進んだものの、それは自分がやりたい「ビジネス」の現場に近づくための手段を手に入れたかったからであって、少なくとも会社の中にいる限り、「そこから乖離した全く別の世界」に行きたいと思ったことなどない。

だから、気が付けば、わざわざ上記のようなフレーズを呟いて警鐘を打ち鳴らさないといけない時代になってしまった、ということが、自分にとっては驚きであり、ちょっとしたショックだったりもするのだけど、ここしばらく、様々な世界を見る中で、わざわざこういうことも言って聞かせないといけない時代になってしまっているのかも・・・と自分自身、感じるところがあるのも事実だけに、「よくぞ言ってくださった」というのが正直なところだろうか。

「事業部門のことを悪く行ってしまう法務担当者は、まず自分の胸に手を当ててみるとよい。大概の場合、その原因は、法務部門の方にある。
「役に立てていない法務部門であればあるほど、つい事業部門の悪口を言ってしまう。事業部門の悪口を言うとは、単に天に唾を吐くようなものである。」(以上30頁)

という言葉と共に、深く刻んでおきたい言葉である。

他にも、

「わたしたち法務部門は、法律やルールを決して自己目的化してはならない。
社内のルールを変えることもできなくて、ルールメイキングを声高に叫ぶのは、何か違うと思うのである。」(104頁)

とか、

「そもそも、契約書やなぜ契約を締結するのかという契約に関する理解があまりない状態で、契約書ばかり見ている企業法務という印象は二つの意味で払拭しなければならないだろう。」(108頁)

という法学教育に対する提言など、傾聴に値するメッセージは随所に登場する。

そして、そんな”硬派”な言葉を散りばめつつも、本書が堅苦しいものに感じられないのは、車の運転からデートの段取り、さらには料理に至るまで、ほぼすべての章に登場すると言っても過言ではない、大胆な”比喩”である。

自分は、本書を最初に読んだ時、若い頃に読んだ辻仁成の小説の再来か!*4と思ったし、改めてこのエントリーを書くために読み直し、上記のように”名言”を抜きだしていくと、何となく”法務界の寺山修司”とでもお呼びした方が良いのではないか、という気にすらなってくる。


もちろん、辻仁成寺山修司の書いたものの評価が分かれるのと同じように、本書の中に気になるところがないと言えば嘘になる。

箇所によっては、比喩が利きすぎて、「あれ、これ何の話でしたっけ?」と何度か読み返してしまったところがないわけではないし、(これは書かれた時期によるところも大きいのだろうが)いい意味でも悪い意味でも「新常態」を強く意識した記述が多いがゆえに、(本来なら「新型コロナ」の有り無しにかかわらず大事なことなのに)既に「常態」に戻って仕事をしている(あるいは遅かれ早かれ戻ることになる)世の中の大半の読者からは*5、”ちょっと前の書き物”のように見えてしまうところがあるかもしれない。

そして何よりも違和感があったのは、「法的思考」や「法的三段論法」に言及しているくだり(39~42頁)だろうか。

本書の著者は、

「想像力を働かせるために必要なのは、先入観をなくすことである。」(39頁)

ということを強調するあまり、

法務担当者が長年学んだ『法的思考』を一旦捨て去り、先入観をなくす」(39頁)

ことを提唱されている(これと同じ文脈で、実務の場面では「慣れすぎてしまっている」法的三段論法から距離を置いた方が良い、という趣旨のことも書かれている、41~42頁)のだが、事業戦略を考える場面でも、経営戦略を考える場面でも、(ただの思い付きではなく筋道立てて戦略を立てようとするならば)一定の論理的な思考枠組みは当然必要になってくるし、「法務」以外の仕事をしている人々のそれと、「法務」の人々のそれとが本質的に異なるものだとは、自分は全く思わない

「契約書は常に締結されなければならない」とか「知的財産権は絶対に当社側に帰属とすべきで共有などありえない」といった変なこだわりは捨てよ、という点は間違いなく支持できるところだし(40頁参照)、「常に何らかの尺度や過去例、類似事例を参考にしながら、事実を評価している思考法で仕事を行っている」(41頁)だけではいけない、というのも当然理解できるところではあるが、あたかも、そういった変なこだわりや思考法が「法的思考」とか「法的三段論法」の帰結であるかのように捉えてしまうと、それらを学んで企業の門を叩く人々には気の毒なことになってしまうような気もする。

こと組織内においては、「法的思考」とか「法的三段論法」といったものは、あくまで「法務」の看板を生かしてカウンターパートと対等に会話をするための”ツール”に過ぎないのであって、筋道立てて相手を納得させられる理屈であれば、引っ張ってくる規範は何だって良いはず*6

言うなれば、「思考法が違う」といったところで、キャッチボールをするときに使うグローブが、ミズノかアシックスか、それともNIKEか、という違いくらいしかないのであって、それを「捨て去れ」と言うのは、素手で硬式球のキャッチボールの輪の中に入れ!」と指導するようなものではないだろうか。

自分たちの仕事を、演繹的に導かれた数えきれないくらいの「選択肢」を吐き出すだけのものにしてしまうのも*7、逆に「これしかない」という結論に向けてクリアな道筋を付けるものにするのも、「法的思考」であることに変わりはないし、それこそが、自分たちを「ビジネスの一部」たらしめているものなのだから・・・。

ということで、最後は少々蛇足風になってしまったが、いずれにしても、「法務」の世界に足を踏み入れて、そこそこ経験を積んだくらいの若者には「ガツン」と来る中身だと思うし、これを読んで「ガツン」と来てほしい、と思う気持ちは自分にもある。

そして、これに追従するにしても、対抗するにしても、

「本書の著者が示した『希望』への道筋をどう実現するか、あるいは 乗り越えるか?」

ということを自分の頭で考え、実践することが何よりも大事なのではないかな、と思った次第である。

以上、少々時機に遅れてしまったが、僭越ながら推薦のエントリーとして。
本書が一人でも多くの法務担当者、そして、企業内法務を目指す人々の目に留まることを願ってやまない。

*1:今こそ、地に足の付いた議論を。 - 企業法務戦士の雑感 ~Season2~参照。なお、この「Socirty5.0....」の巻頭の言葉も本書の著者が代表して書かれている。

*2:自分が手持ちのノートに書き留めたくだり、でもある。

*3:全くの偶然ではあるが、上記のようなフレーズの一つ一つは、自分が企業内でどっぷり仕事をしていた時代に、あるいは今でも企業実務者向けのセミナー・研修等でことあるごとに話している内容ともかなりの部分重なっているような気がする。

*4:例えばこれとか。

ピアニシモ (集英社文庫)

ピアニシモ (集英社文庫)

  • 作者:辻 仁成
  • 発売日: 1992/05/20
  • メディア: 文庫

*5:この点に関しては、未だに「在宅勤務」等々の体制をとっている大企業や一部IT企業と、それ以外の会社とでかなりギャップが大きいところなので、主な読者層が前者なのだとすればあまり気にするところではないのかもしれないが、会社の数で言えば圧倒的に後者の方が多い、というのが自分の見立てである。

*6:「試験」とか「基本書」から法律の世界に入るとどうしても本書で書かれているような”硬い”方向に行きがちなのだが、現実の世界では多くの場合には「模範解答」などないのだから、「目の前で起きていること、前提となるファクトをきちんと見定める」ということさえできていれば、「法的三段論法」の下でも、導きたい結論に合わせて柔軟にロジックを組み立てることはいくらでもできるし、実務家であれば、常にそうしなければいけないはずだ、と自分は思っている。

*7:念のため申し上げると、初期段階のブレインストーミングの場面等、そういうアウトプットが求められる場面も当然あるわけで、1つの方向に「決め打ち」して話をすることが常に歓迎されるべきことではない、ということは気に留めておく必要があるように思う。自分自身、今も昔も、結論を先取りした帰納的なアウトプットに向かいがちなところはあるので自戒も込めて。

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