結局は「やったもの勝ち」だったのか?

日経紙に長年連載されている『私の履歴書』。

どんな分野でも功成り名を遂げた方の半生記が面白くないはずがないのだが、今月はジャストシステム創業者の浮川和宣氏の回、ということで、「一太郎」の栄枯盛衰を目の当たりにしてきた世代としては、なおのこと興味を惹かれる話が多かった。

おそらくパソコンに初めて触れてからまだ10年くらいしか経っていない、という方には想像もつかない世界だと思うが、1990年代、日本のパソコンにインストールする文書作成ソフトといえば、一太郎」一択だった。

90年代半ば、大学の部室に置かれていたピカピカの”Windowsマシン”にインストールする表計算ソフトをLotusにするかExcelにするかは時々喧嘩になったが、「一太郎」を入れるのが必須だ、ということについては、誰もが疑いの目を向けることはなく、当然ながら大学生協の購買部で一番売れていたソフトウェアも、一太郎の当時の最新バージョンだった。

それが、いつからだろう。

しばらくPCに触らない社会人生活を過ごし、デスクワークに入った時に与えられたオフィスのパソコンには、容赦なく「Word」が入っていた。

初めて自分用にパソコンを買ったのはちょうど公取委がいろいろと動いた直後くらいだったから、確か、購入時には一太郎モデルとWordモデルを選べる方式になっていたような気がするが、会社で使っているのがWordなら、互換性を考えて私用PCもWordにせざるを得ない。そして気が付けばそれから数十年、外界から隔絶された法曹ムラに片足を突っ込んでいた時以外には、「一太郎」とかかわる機会は皆無で、最近ではその存在すら忘れかけていた。

そう、ソフトウェア開発会社として絶頂期にあったジャストシステムという会社を、瞬く間に突き落としたのは紛れもなく「Word」であり、「Windows」の強烈なブランド力とともにそれを日本のありとあらゆるパソコンにインストールさせたMicrosoftに他ならない。

だから、今月の「私の履歴書」でも、その頃の出来事がどう書かれるか、ということが一番気になっていて、それが掲載されたのが、今日、24日だった。

マイクロソフトについては、思うところがある。パソコンメーカーがウィンドウズを搭載する際に、当時シェアの低かったワードをセット販売するよう求めていたからだ。我々の一太郎を排除する目的は明らかだった。
「米司法省に続いて日本の公正取引委員会もこの問題を指摘し、ワードのセット販売を事実上強要していたとして、98年11月には独占禁止法違反で排除勧告を出した。」
「だが、独禁法違反が指摘されても、後の祭りというのが率直なところだ。
日本経済新聞2022年3月24日付朝刊・第48面、強調筆者)

この欄で半生を振り返る方の中には、誰もが知っているような著名事件でも、あえてストレートに書かずに「不幸な出来事が・・・」等々ぼやかす方は結構いらっしゃる。だが、浮川氏にとっては、四半世紀経っても強烈な憤りとともに蘇ってくる記憶だったのだろう。この部分の記述は実に端的でストレートなものとなっている。

Windows95」の発売から排除勧告が出されるまで約3年。運悪く、時代はちょうど多くの企業でワープロから廉価化したPCへと端末を移行し始めた時期とも重なる。

一度取り込まれてしまうと、互換性、継続性の関係で他のソフトウェアに切り替える動機が容易には湧いてこなくなるのがこの種のパッケージ戦略の恐ろしいところで、個人的には「一太郎」の方が優れていると思っていても、会社が大量購入したPCにWordがインストールされていれば、よほどこだわりと経費に余裕のある会社でなければ、さらに別の文書作成ソフトを入れる、ということにはならない。そして、それに合わせて多くのビジネスパーソンが「Windows経済圏(当時)」に取り込まれていく・・・。

今の時間軸で考えれば決して長いとはいえない「3年」という時間も、市場勃興期の縄張り争いの決着を付ける時間としてはあまりに長かった、ということなのだろう。この第23話に出てきた「後の祭り」という言葉はとても重かった。

もちろん、「一太郎」とジャストシステムの没落の理由をマイクロソフトの”バンドル作戦”だけに求めるのは一方的に過ぎる、という見方もあり得るとは思う。

そもそもスケールの大きな「OS」ベースで商品戦略を組み立ててきたグローバル企業の発想、今にも通じる強い営業力、前提としてそれがあったからこそ「Word」を隅々まで浸透させることができた、ということは否定しようもない事実だし、その状況が今の今まで変わらないのは、その後のWordそれ自体とIMEの進化によるところも大きい。

仮に「95」の段階で公取委が素早く動いて、瞬時に不公正な取引方法を中止させていたとしても、いずれは力業でシェアを奪われていた可能性は高かったと思われるし、さらに言えば、世界のMicrosoftさえ苦しめた2010年代の大幅なゲームチェンジの過程で、徳島の小さなソフト開発会社が生き残れた可能性を探す方が難しいような気もする。

ただ、”たら・れば”は禁物とはいえ、「一太郎」がシェアを落とすスピードがもう少し遅かったなら、歴史が違う方向に動いた可能性もまたあるわけで、それだけに、守る側にとってはもちろんのこと、攻める側にとっても自己の戦略に対する規制のエンフォースメントのスピード感というのは、極めて重要な要素になってくる。

一太郎の悲劇」をどう受け止めるかは、それぞれの方の立場によって異なるとは思うのだが、先に引用した「私の履歴書」の中の一文に触れ、どんな厳格な規制でも、行使されるまでのタイムラグは当然存在する、ということだけは、あらゆる立場の者に共通する一つの教訓として受け止めておかねばならないと感じた、ということを、最後に強調しておくことにしたい。

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