「銀行振込」は絶対的な選択肢なのか?

よほどの”記事日照り”だったのか、なぜか昨日、日曜日の朝刊の1面に載ったこの記事。

政府は給与をデジタルマネーで受け取る制度を2023年4月にも解禁する方向で最終調整する。労働者側は決済アプリの口座に直接給与が入り、日常の買い物に使える。世界に遅れている日本のキャッシュレス化を進める契機となる。」(日本経済新聞2022年9月12日付朝刊・第1面、強調筆者)

この「給与のデジタル払い」(資金移動業者の口座への賃金支払)というテーマは、遡れば元々は「成長戦略」の文脈で登場し、議論の本丸・労働政策審議会労働条件分科会でも2020年8月のキックオフ以降*1、2年以上にわたって断続的に議論され続けてきたものである。

厚生労働省のウェブサイトを見ると、明日9月13日に予定されている第178回分科会でもこのテーマに関する審議が予定されているようだから、おそらくそこで何らかのとりまとめ(案)が示されるのだろうが、そこでわずか数日でも抜いて観測気球を上げるのが、日経紙の真骨頂と言えば真骨頂・・・。

ただ、直近で議論された今年5月27日の分科会の議事録*2や、そこに出てきている議論整理の資料*3などを見ると、「本当にこれでまとまるんかい?」と突っ込みたくなるくらい懐疑的な意見は多い。

初期の議論などを見ていると、労働者側の委員を中心に、これは資金決済法の審議会の議論なのか?と言いたくなるような「デジタルマネー事業者に対する不信感」が色濃く出ていたりして、日頃、1000円以下の買い物は99%電子マネーQR決済で済ませてしまう自分の感覚*4からすると、「いまどき何を・・・」という感じの話だったりもするのだが、終盤になっても行きつくところは「資金移動業者の信頼性」や「デジタルマネーの安全性」で、既存の給与支払手段との比較で相当懐疑的な目が向けられているのは間違いない。

そして、そんなこともあってか、冒頭の記事についても、これを見た人々のSNS上での大方の反応は、「一体これで誰が得するんだ?」的なムードに満ちていたように思うのだが・・・


何事も「慣れ」というものは怖い。

自分自身、20年以上にわたって、給与が振り込まれるのは当たり前のように「銀行口座」だったし、今でも収入のほとんどは口座の中に入ってくる。

だから、ある日突然、「電子マネーでお支払いします!」みたいなことを言われたら、ひどく戸惑うだろうな、とも思う。

だが、冷静に考えれば、「給与を銀行口座に振り込んで支払う」というのは決して”必然”の支払方法ではないし、全ての銀行に絶対的な安心感を寄せられるわけでもない。

さらに言えば、「給与が支給日に銀行口座に振り込まれ、それを現金化して使おうと思ったら銀行の支店なりATMに行かなければならない」というのは、支払いを受ける給与生活者にとって決して便利なことでもない

かくいう自分も、地方勤務をしていた時に、地元の社員は9割方そこにしか給与支払口座を作らない、という大きい数字の付いた地元の銀行ではなく、今でいう「メガバンク」の口座を給与振込先にしたがゆえに、かなりしんどい思いをした。

なぜなら、その「メガバンク」は、自分が赴任していた地域内に、支店もATMも全く設けていなかったからだ*5

当時でも、一部の銀行との間ではATM連携をしていたのではないかと思うが、なにぶん手数料が高すぎて安月給の身には耐えられない。
クレジットカードを使おうにも、当時はまだ少額決済をクレジットカードで、という文化は浸透していなかったし、「電子マネー」なんてものは影も形もなかった。

そうなると、残された選択肢はただ1つ。

平日が休みになったときに、東京か、かろうじて支店が置かれている隣県に出かけて数か月分の生活費を引き落として戻ってくるしかなかった。

それゆえ、多額の現金が入った封筒をカバンに入れ、遺失・盗難に怯えながら抱きかかえるように持ち帰る、という”運び屋”を何度演じたことか・・・。

やがて仕事がシフト制から通常の日勤に変わり、有給休暇でも取らない限り平日動けない、という状況になると(そしてそれなりに年次を重ねたことで、後輩にご馳走する機会等も増えてくると)、ちょっとやそっと”運んだ”だけでは資金繰りがままならなくなり、つなぎでカードキャッシングを使ったことも何度かあった*6

東京に戻ってくるまでの何年かの間にそんな経験をした身としては、どんなに「安全安心」でも振り込まれたその日にもらったお金を使えない銀行振込よりも、支払われたその瞬間からすぐに使える電子マネー払いの方が良い!という発想が出てきても何ら不思議はないだろうな、と思うし、あの頃自分に選択肢が与えられていたら、迷わず電子マネー払いを選んだことだろう*7

もちろん、何事にも限度はある。

手取りが10万行くかどうか、という時代ならともかく、毎月うん十万振り込まれるようになってくると、電子マネーアプリを搭載したスマホが、かつて運んだ”現金入り封筒”以上に厄介な代物になってくるし*8、ある程度まとまった額になったら「払い戻し」を受けるにしても、「その行く先が結局はどこかの銀行口座」なのだとすれば、最初から銀行振込でよかったじゃないか・・・という話になることは容易に想像もつく。アンケートで「デジタルマネーでの給与支払い歓迎!」と答えた方の割合はそれなりに多いが、そういう方々の多くは「全ての支払をデジタルで良いか?」という問いに対して真逆のリアクションを見せるような気がする。

ただ、例えば、遠い地域に単身赴任している方に赴任手当の分だけでもデジタルマネーで給与を支払うことで、家族が使う口座は維持しつつ、赴任者自身もストレスなく日々の生活を送れるようになる、ということになるかもしれないし、日本の銀行に口座一つ作るにも苦労する*9海外からの研修生、実習生等にとっては、スマホ一台あれば使えるデジタルマネー払いの方が融通が利くという側面も当然ある。

そして、そういうニッチなニーズに応える選択肢を増やす、という点では、今回の制度創設の議論にも十分意味はあるだろう、と自分は思っているところである。

現実には、コスト削減のために、わざわざ特定の銀行(場合によっては支店まで指定して)給与支払口座を作らせるような会社すら存在しているこの世知辛い社会では、「労働者保護」以前に、「使用者」がデジタルマネーでの支払いを拒否する*10、というパターンで「制度は変われど普及せず」になる可能性の方が今は高い気もするのだけれど、”銀行一択”の世界にちょっとでも風穴を開けられるならそれだけでも大きな前進、と思うだけに、議論の最後が少しでも前向きなまとめになることを今は期待している。

*1:最初に登場した時の資料と思われるのがhttps://www.mhlw.go.jp/content/11201250/000663599.pdfである。

*2:https://www.mhlw.go.jp/stf/newpage_26700.html

*3:https://www.mhlw.go.jp/content/11201250/000943189.pdf

*4:それより高額の買い物は基本クレジット払いだから、現金をやり取りする機会が今やほとんどなくなっている。多くで月に1,2回というレベルだろうか。

*5:正確に言うと、赴任した直後はまだ県内に一店舗だけ支店が存在したのだが、数か月で閉鎖されてしまい、一県丸々「空白」地帯となってしまっていた。

*6:当然利息は発生するが、当時の提携ATMのバカ高い手数料に比べると、それでもマシな方だった。

*7:もちろん、あの当時電子マネーが存在して、街中の店舗で使えたなら、あそこまで”現金の運び屋”を繰り返す必要もなかったとは思う。さらに言えば、全国津々浦々のコンビニにATMが浸透し、それと手数料がかからないネットバンクを組み合わせて使える今となっては、逆に「銀行以外」の給与支払方法に執着する理由もなかったりする。

*8:これまで何年もいろいろな電子マネーを使い続けている自分でも、一度に10万円以上アプリに積んだことはおそらくない。

*9:これは今や日本人でも苦労する作業になってきている。

*10:手数料負担もさることながら、これまで慣れ親しんだ「銀行振込」のオペレーションを変えてまで新しい制度に乗っかろうとする使用者がそうたくさん現れるとも思えない。

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