そろそろ不毛な議論に終止符を。

「生成AIと著作権に関する議論は先日のエントリーでも取り上げたばかりではあるのだが*1、今日の朝刊の「経済教室」に、早稲田大学の上野達弘教授による著作権法の権利制限規定を”諸悪の根源”であるかの如く批判する近時の見解」を鮮やかなまでに斬る論稿が掲載されているのを拝見し、これぞ真打ち・・・と大いに感服したので、ここで紹介させていただければと思っている。

あえて自分が解説するまでもなく、実に美しく分かりやすい言葉で書かれている論稿ということもあり、本エントリーのほとんどは「引用」に依拠することとなる点は、ご容赦いただければ幸いである。

経済教室「AI規制の論点(上)/「生成」と「学習」区別し対応を」*2

上野教授は、「クリエイターやメディア」が著作権法の「情報解析規定」*3、に懸念を示している、という状況を紹介した上で、情報解析規定の意義について以下のように説明する。

「情報解析規定が対象とする行為はAI学習に限られるものではなく、大量データ解析を広く含む。例えばSNS(交流サイト)における大量の書き込みを網羅的に収集・解析して将来の流行を予測したり、大量の医学論文を網羅的に解析して新しい薬品や治療法を開発したりすることも、この規定の対象だ。こうした大量データ解析は広く社会に便益をもたらすといえるが、論文はもちろんネット上の書き込みにも著作権が存在する以上、網羅的解析は情報解析規定がなければ事実上不可能だ
「日本が09年に世界で初めて情報解析規定を導入したのに続き、英国(14年)、ドイツ(17年)、フランス(18年)、欧州連合EU、19年)、シンガポール(21年)などが同様の規定を導入した。日本の法制度が海外をリードするのは珍しく、日本には先見の明があったというべきだ。」(強調筆者、以下同じ)

その上で、近時声高に叫ばれる感情的な批判に対し、怒涛の反論を畳みかけた。

「情報解析規定はビジネスを優先する代わりに、著作権を制約したものと受け止められるかもしれない。
「だが規定の趣旨からすると、そうした見方は正確ではない。日本の情報解析規定はいわゆる「非享受利用」(作品の鑑賞などを目的としない利用)に関する規定に位置づけられている。そこでは、著作権という権利は作品の鑑賞など人の享受があるから保護が認められるという理解を前提としており、著作物の享受がない場合は著作権が保護する利益は害されていると評価できないという考えが背景にある。」
「そして大量の著作物を情報解析するのは、誰も著作物を享受するわけではないから、まさに非享受利用に当たることになる。日本の情報解析規定は、本来著作権が及ばない行為を自由としたにすぎない。これは18年の著作権法改正に際して整理された発想で、著作権制度を新時代に適合させる理論的枠組みとして世界的にも注目されている。」
「誤解すべきでないのは、情報解析規定は生成AIによる著作物利用をすべて許容するものでは決してないことだ。つまりこの規定は学習(入力)を許容するものにすぎず、生成(出力)は別問題だ。従って生成AIの出力が他人の著作物と創作的表現のレベルで共通する場合、それは当然、著作権侵害に当たり得る。」
「他方、生成AIの出力が単に事実や画風・スタイルのレベルで他人の著作物と共通するにすぎない場合、そうした出力は著作権侵害にならない。これは著作権法の大原則だが、たとえ出力が適法だったとしても、著作権のある著作物を無断でAI学習に利用されること自体を著作権で止めたいとの声があるのも事実だ。」
「ただ仮にAI学習を著作権で止めたとしても、著作権侵害やディープフェイクの出力がなくなるわけではない。そうである以上、違法有害な出力については、そうした出力自体を防止する策を講じる必要がある。AI学習それ自体を著作権でコントロールできるようにしても効果がないばかりか、あらゆる分野の様々な大量データ解析を阻害しかねず、得策とはいい難い。」

そう、まさに「生成AIと著作権」をめぐる議論の行き着く先はここに述べられていることに尽き、これ以上でもこれ以下でもない。

またこれに続けて、(頑迷なる権利者にどこまで響くかは分からないが)その先にある「共存」への道もちゃんと示されている。

「そしてたとえ情報解析に著作権が及ばなくても、解析を目的としたデータ提供契約を締結することは可能であり有用でもある。情報解析をする者にとっては、雑誌論文や新聞記事の個別収集がたとえ著作権法上自由であっても、権利者と契約して、そのデジタルデータを解析に適した形で網羅的に取得できるメリットは大きい。実際、オープンAIは23年7月に米AP通信と、23年12月に独アクセル・シュプリンガーと、AI学習のための記事利用に関する契約を結んでいる。」
権利がなければ契約が成立しないという見方は誤解であり実態にも反する。コンテンツ保有者は、著作権でAI学習をコントロールすることを目指すより、データ提供契約など、著作権法以外の手段による共存の道を探るべきではないか。」

そして最後に記された警鐘混じりの「予言」。

生成AIの「影」は、学習(入力)ではなく生成(出力)にある。両者をはっきり切り分けないと、生成AIの「光」の部分にも陰りをもたらしかねない。情報解析規定発祥の地である日本は情報解析の自由を堅持しつつ、違法有害な出力防止に知恵を絞るべきだ。いずれ人は生成AIに慣れ、AI学習を恐れる声も過去のものになるだろうから。」

上野教授もこの論稿の前半で指摘されているように、生成AIの「出力」に関しては、この先もやらなければならないことが山ほどある。そんな状況下で、当の昔に決着がついた「情報解析」レベルにまで遡って「著作権法上の議論」を喚起することにどれだけの意味があるというのだろう。

個人的にはこの見事な論稿をもって、一般メディアレベルでの議論には終止符が打たれることを望みたいところではあるのだが、掲載紙面上での明らかに的を外した*4「ポイント」のまとめを見る限り、そう簡単にはいかないだろうことは容易に想像がつくところ*5

だがそれでもなお、時代を先に進めた平成期末の権利制限規定はしっかり守られるべきだと自分は思っているし、時計の針を逆に回そうとする試みには断固として対抗しなければならない、と思う次第である。

*1:k-houmu-sensi2005.hatenablog.com

*2:日本経済新聞2024年2月26日付朝刊・第16面

*3:論稿の中では特定の法条は示されていないが、主に著作権法30条の4が念頭に置かれているものと思われる。

*4:おそらく編集した側が意思をもってそうしたものだと思われるので、あえて引用はしない・・・。

*5:この手の話題では先陣を切って「改革」を唱えるはずの日経紙も、この話題に関しては殊更に逆行する社説や記事での取り上げ方をすることが多いように見受けられる。

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