「フェアユース」じゃなくて良かった、と思える理由

GWから、読もう読もうと思っていてしばらく寝かせていた一冊の本にようやく目を通すことができたので、感想がてらエントリーを残しておくことにする(2019年5月13日更新)。

タイトルの通り、本書は、昨年苦難の末、ようやく日の目を見た「柔軟な権利制限規定」に関する「平成30年(2018年)著作権法改正」(2019年1月1日施行)に対する関係者の評価をまとめたもの。
編著者が、長年「米国型フェアユース」を推してこられた城所岩生先生だけに、改正に対しても批判的なトーンが全面的に出ていることを想定して読んでいただのだが、シンポジウムをもとに編集した、という書籍の性格上、思っていたよりはバランスの取れた内容にはなっていた*1と思う。

特にお勧めなのは、上野達弘教授が書かれている第3章(「改正法における『柔軟な権利制限規定』の意義と課題」)と、島並良教授が書かれている第4章(「著作権法の行く手-平成30年改正が描く未来像」)

上野教授は、平成30年改正の元になる報告書*2のとりまとめにも関与されている方なので、改正法を側面支援するのもいわば当然といえば当然なのだが、「一見すると『柔軟』とは感じないかもしれませんね」、「『表現非享受』という表現は分かりにくいかもしれませんね」というトーンで批判者に共感を示す素振りを見せつつ、

「明確性のある個別規定を設けると、今度は文言に縛られることになります。明確性と柔軟性はどうしてもトレードオフの関係に立つわけですね。」
「考えてみたら、いわゆるフェアユース規定をめぐる従来の議論では、むしろ個別規定が厳格すぎることが問題とされてきたわけです。誤解を恐れずにいえば、柔軟な権利制限規定を求めてきた人たちは、不明確な規定を求めてきたとも考えられるのです。したがって、今回の柔軟な権利制限規定が不明確だというのは、だからこそ望ましいというべきなのかもしれません。」(3.3より。強調筆者、以下同じ。)

と、「分かっていない人々」(後述)をバッサリ・・・。
そして、

「今回の改正における柔軟な権利制限規定は、単に[明確な個別規定]と[柔軟な一般規定]との組み合わせにとどまらず、なぜ著作権を付与するのかという著作権の正当化根拠にまで立ち返って、柔軟性の程度を類型化したものと理解できるものであり、これは今までにないおもしろいアイデアだと思っています。」(3.7)

と、今回の報告書の趣旨も改めて強調しておられる。

また、島並教授は、「このたびの立法には関与していない」という立場から、平成30年法改正の立法過程に関し、

「規範を柔軟化する目的と、具体的な権利制限ニーズを探るという手段が、残念ながらマッチしてなかった」(4.3)

といった指摘をされつつ、

「今回改められた条文のうち、30条の4は一般性の高い本文があるがゆえに大幅な柔軟性が達成されています。また、47条の4は、目的を限定している結果、一定の外枠はありますが、その枠内である程度の柔軟化をしています。」(4.2)

という評価も下されている*3

そして、著作権という法制度を考える上で「さまざまな権利・利益との衡量」が必要であること、そして「今回の権利制限規定の柔軟化は、たくさんある衡量手段のなかの1つ」である、と位置付けた上で、「事前に立法で衡量する」場合にも、「事後に裁判所で衡量する」場合にも、利用する側のアクションが欠かせないという点を強調し、

『正しい』著作権法のあり方を求めるには、それなりの『正しい』努力が必要になるということです。そうしたある意味でのきびしさが、また同時に、著作権法のダイナミズムであり、おもしろさだと私は感じています。」(4.5)

と、ユーザーの我儘な言説を戒めるかのような、至極まっとうなご意見でまとめられている。

講演をベースにまとめられた論稿、ということもあり、以上ご紹介した章の記述は、いずれも簡潔にして明瞭。
だが今回の改正と著作権制度のあるべき姿の本質を実に的確に射抜いている。

これら上野、島並両先生のパートと、中山信弘名誉教授が書かれた第2章(「平成30年著作権法改正―『柔軟な権利制限規定』の意義と今後の課題」)だけ読めば、本書購入の目的は達成できるのではないか、というのが、全体を読み終わった後の自分の素直な感想だった。

「それでもなお、フェアユース」という主張がなぜピント外れなのか?

もっとも、本書全体を見れば、既にご紹介したような、今回の改正に比較的「ポジティブ」な評価をしている論稿は少なく、全体的に批判的な言説が目立つのも事実なので、ここで、今回の改正でもっとも「柔軟」とされている第30条の4の規定を改めて眺めてみることにする。

(著作物に表現された思想又は感情の享受を目的としない利用)
第30条の4 
著作物は、次に掲げる場合その他の当該著作物に表現された思想又は感情を自ら享受し又は他人に享受させることを目的としない場合には、その必要と認められる限度において、いずれの方法によるかを問わず、利用することができる。ただし、当該著作物の種類及び用途並びに当該利用の態様に照らし著作権者の利益を不当に害することとなる場合は、この限りでない。
一 著作物の録音、録画その他の利用に係る技術の開発又は実用化のための試験の用に供する場合
二 情報解析(多数の著作物その他の大量の情報から、当該情報を構成する言語、音、影像その他の要素に係る情報を抽出し、比較、分類その他の解析を行うことをいう。第四十七条の五第一項第二号において同じ。)の用に供する場合
三 前二号に掲げる場合のほか、著作物の表現についての人の知覚による認識を伴うことなく当該著作物を電子計算機による情報処理の過程における利用その他の利用(プログラムの著作物にあつては、当該著作物の電子計算機における実行を除く。)に供する場合

米国とは異なって私的使用のための複製は既に明文で広範に認められており(30条)、写り込み(30条の2)や引用(32条)なども、相当広い範囲で権利制限が認められているわが国において、今回加わった第30条の4をもってしてもなおカバーできないような「著作物を自由に利用できる、と評価されるべき利用態様」はおそらく今の世の中には存在しないし、将来的にも(少なくとも自分が生きている間は)出てこないだろうと自分は思っている。

そして、このような平成30年改正後の著作権法の権利制限規定をしっかり理解した上で、それでもなお、「既存の権利制限規定に該当しない著作物の利用態様は多々ある」「それらの利用についていちいち権利者の許諾を取らないといけないのは時代に合っていない」ということをおっしゃる方がいるのだとしたら、それは、おそらく、

「世の中は著作物のユーザーだけで成り立っているわけではない。」
著作権法の世界は、常に、権利を持つ創作者と利用者とのバランスの上に成り立っている」

という大事なことを失念しているか、意図的に看過しているかのどちらかではなかろうか。

政治側で「フェアユース」推進の旗振りをしていた阿達雅志議員は、上記書籍の中で、

「著作物の使用をできる限り促進する、イノベーションのための使用をなるべく認めたうえで適正な収益の配分をすればいい」

という考え方を当然のように前提として、

「それにもとづくと、現行の著作権法は、すべて個別に事前の許諾が必要という、あまりにも時代に合っていないものです。日本では、権利制限規定を個別に認めているだけであって、現在のデジタル時代、とりわけマスの時代、さまざまな著作物を使う時代において、毎回事前に許諾を取って初めて使用できるというのは役に立たないのではないだろうか、と思うのです。」

と続けているのだが(以上1.1より)、単に「許諾権」を「報酬請求権」化したい、というだけなのであれば、それは「米国型のフェアユース」とは全く別の世界の話になるし、「著作権を権利者に『権利』として行使させたくない(収益配分はあくまで『おまけ』として行う)」という意図なのであれば、それは「イノベーション」という空虚なマジックワードの名の下で、権利者の存在をあまりにないがしろにしすぎている。

そもそも、米国のフェアユース規定&判例法理自体が、著作権者からカテゴリカルに権利を奪うために存在している制度ではなく、(ユーザー側から見れば)「許諾を得る&対価を支払う、という決断を、司法府の判断が出るまで先送りする」制度に過ぎないのであって、少なくとも平成30年改正後の著作権法の下では*4、日本においてもそれは十分に可能となった*5

だから、結果的に「フェアユースっぽい規定」にならなかったことをもって、今もなお「課題あり」というスタンスを取られているのだとすれば、それに対しては、

「分かってないな」

という感想しか出てこない。

阿達議員に続けて、三宅伸吾議員が、「審議会の構成メンバーが偏っている」とか、「自民党の文部科学部会で族議員が出てきて自分たちがマイノリティになってしまった」等々の恨み節を述べているのだが(1.2より)、議論の土台がそもそもおかしいから、権利者側の利害関係者を説得できないのはもちろん、ユーザー側の産業界関係者や中立的な学者・弁護士まで多くの人々が反対に回るのであって、それで「我々がマジョリティになることを目指すべきだ!」と言われたところで、皆引くしかないだろう・・・。


もちろん、自分も、今回の改正がベストだとは思っていなくて、現時点で第30条から第47条の7まで、多数の(しかも改正された時期*6によって、ワーディングの細かさもまちまちな)権利制限規定が並存している状況は、どこかで一度きちんと整理したほうが良いのではないかと思っているし*7、一つ一つの条文の表現をより分かりやすく洗練されたものにしていく、という努力もあきらめずに続けていく必要があるのではないかと思っている。

だが、平成30年改正著作権法が既に施行された今、「ユーザー」(及びそれを支える専門家)の立場で優先すべきことは、出来あがった条文に文句を付けて「フェアユース」の夢を追いかけることでも「ガイドライン」の作成を文化庁に懇願することでもなく、今回の改正法の立法趣旨をしっかり理解して、事前に許諾を得るべき利用態様と、そうでない利用態様をきちんとジャッジして進めていくこと、そして、その判断に際して過度にリスクを恐れないこと*8ではなかろうか。

多くの関係者の労苦の上に築き上げられた平成30年改正法を「新しい一歩」にして初めて「次の時代の著作権制度」を語ることができる。

かつて、ほんのわずかながら一連の立法過程に口を出した者としては、これが率直、かつ切実な思いなのである。

*1:もっとも、コンテンツの権利者側に立って主張を展開されている方は一人もいない、という点ではバイアスがかかっているのは間違いない・・・。

*2:平成29年4月「文化審議会著作権分科会報告書」(http://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkashingikai/chosakuken/pdf/h2904_shingi_hokokusho.pdf

*3:もっとも、島並教授は、「著作物の本来的利用ではないから」とか、「著作権者の利益を通常は害さないか、害するが軽微だから」といった理由で権利制限を正当化することに対して、「検討すべき理論的問題をはら」む、という指摘もなされている(4.4)。

*4:自分は改正前から、その気になれば改正前の権利制限規定の下でも十分そういう対応はできると思ってはいたのだが・・・。

*5:安全策を取って事前にお伺いを立てるユーザーがいたとしても、それは日本の法制度ゆえではなく、リスクを過度に重視する社会風土ゆえの話に過ぎない、と自分は思う。

*6:改正に対応した内閣法制局の担当官の在籍時期、といった方が正確なのかもしれない。

*7:ここは上野教授がコメントされているような、「シンプル&フレキシブル」な方向でのリフォームを目指すべきだし、「非享受型」の利用態様については今回創設された30条の4に、それ以外の「享受型」の利用態様についてはより柔軟な受け皿規定を設けてそこに集約する、といった方向性が考えられるのではないかと思う。

*8:繰り返しになるが、ここで過度にリスクを恐れて安全策に走ってしまうと、結果的に改正の趣旨が失われることになるし、またあてもなく「フェアユース」という「青い鳥」を追いかけて迷走する時代に逆戻りすることになってしまうので、実務家(特に判断を求められる法務担当者や、法務担当者から相談を受けた弁護士)としても、それだけはやってはいけない、と強く心に念じる必要があるのではないかと思っている。

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