ジュリスト2005.10.1号(第1298号)

今号は、第162回国会改正法の特集。
憲法論としても、刑事政策的観点からも大きな意味を持つ
巻頭の監獄法改正(実に約100年ぶりの本格的な改正。)から、
法的にはさほどの意義を感じない「なんたら基本法」(笑)まで、
一挙に掲載されている。
個人的に関心のある不正競争防止法も、解説記事付きで掲載*1


ここ数年、様々な分野において、
物凄いスピードで法改正が進められている。


昨年の民法の口語化に続き、前国会では商法が会社法に改組(&口語化)。
法例も口語化されるのは時間の問題。
これから法律を学ぶ人々は、
カナ文字が並ぶポケット六法に苦しめられることももうないのか、と思うと、
ちょっと複雑な気分である*2

探究・労働法の現代的課題/第2回「配転命令と家庭生活(家族責任)への配慮」

楽しみにしているこのシリーズ。
今回は名古屋大の和田肇教授の基調論文に続いて、
畑守人弁護士(使用者側)と水野英樹弁護士(労働側)の見解が示されている。


議論の出発点となるのは、

「当該転勤命令につき業務上の必要性が存しない場合(①)又は業務上の必要性が存する場合であっても、他に不当な動機・目的をもってなされたものであるとき(②)若しくは労働者に対し通常甘受すべき程度を著しく超える不利益を負わせるものであるとき(③)等、特段の事情の存する場合でない限りは、当該転勤命令は権利の濫用になるものではないというべきである」

という東亜ペイント事件(最高裁昭和61年7月14日)における法理。


和田教授は、この判断枠組みを
「労働者の労働生活と家庭生活の調和を阻害する枠組みとして機能した」ものと
指摘する一方で*3
使用者側に高度の「私生活配慮義務」を求めることの危険性も指摘し*4
「こうした限界を超える新たなシステムと理論枠組み」として、
①転勤の有無によるコース制の導入、②労働者の個別的同意を得る手続、
を導入し、さらに、これらのシステムの可能性との関係で、
労働契約における意思の探究(労働者の「合意」の意味の解釈)の在り方として、

「労働生活や私的生活の変化に応じて労働者の勤務地選択に関する意思が推定される場合、それを変更して転勤を命じるためには、改めて労働者と再交渉してその同意を得なければならない」

という理論構成をとるべきではないか、と説かれている*5


個人的には、
「アットホーム志向」が強まっている現代において、
「通常甘受すべき程度を著しく超える」という要件の
実質的ハードルは自ずから下がっていくものと思われるし、
社員の福利厚生にかかる経費を少しでも削減しようとしている企業が、
今後、遠隔地への配転を伴う人事異動を頻発していくとは思えないので*6
現在の判断枠組みでも大きな問題は出てこないのではないかと思うが、
会社と労働者の長期的継続的な雇用契約の過程で、
再交渉による契約内容の調整を要する、という理論構成自体には大いに賛同する。


現在の雇用慣行においては、一つの会社に勤め続ける限り、
採用時や入社直後の「合意」によって、
その社員のその後の「会社人生」の8割が決められてしまう。


だが、勤務地どこでもあり、職種なんでもあり、で入社した
ゼネラリスト総合職が、仕事をしていく中で、
スペシャリスト志向」に目覚めることもあるし、
「家族第一主義」に転向することもある。
そうなると、当然、勤務地や職種にその人なりの「こだわり」を持つことになるし、
安易な異動発令は受け入れられない、という思いも当然出てくる。


これまで、そういった社員の「思い」は、
使用者側の「恩恵的配慮」によって辛うじて掬い上げられていたに過ぎなかったが、
それが「再交渉義務」という形で、労働契約の規律として取り込まれるのであれば、
労働者側の立場は格段に高まる*7


もちろん、そういった社員の「思い」の中には、
ピンからキリまであるのが常で、
全てを聞き入れていたら収拾が付かなくなるではないか、
という批判もあるだろうが、
今までそういった「思い」にあまりに無頓着な会社が多かったことを考えると、
一種のドラスティックなショック療法として、
新たな規律を実務の場に持ち込む、というのも一つの手ではあろう。


なお、和田教授や労働側の泉弁護士の論文においては、
労働者の「家族的責任」も強調されているが、
自分は、ことさらにこの側面だけを強調して、
配転法理を構成しようとするのは危険だと考える*8


使用者側に労働者の家族状況への過度の配慮義務を課せば、
使用者は必然的に労働者の私的領域をあれこれ詮索せざるを得なくなるし、
そうなると、労働者の側はかえって息苦しい思いをすることになる*9


重視されるべきは、労働者の「自己決定権」であって、
「家族的責任」ではない。
子供を自分で育てることも勿論立派な生き方の一つではあるが、
子供を他人に預けてでも仕事に人生を賭けるというのも、
個人が選択しうる一つの立派な生き方である*10


したがって、使用者が負うべき義務は、
労働者の「自己決定」に応じて「再交渉」する義務にとどめるべきであり、
それを超えた使用者の介入は、むしろ防ぐ方向で制度設計するのが望ましい。


使用者は、
「家族を重視する」という「自己決定」をした労働者に対しては、
家庭生活と両立しうる就業環境に配慮する義務を負うとしても、
「仕事を重視する」という「自己決定」をした労働者に対しては、
むしろ、その者の力を生かせる就業環境を与えられるよう配慮する義務がある
というべきであり、
その環境が遠隔地(例えば外国など)への転勤を伴うものであったとしても、
「小さい子供がいるから」などという理由で、
使用者側がそのような「配慮」を躊躇するようなことはあってはならない、
と自分は思っている。

渉外判例研究*11

味の素職務発明訴訟(東京地裁平成16年2月24日判決)の評釈。
事案自体は当然知っていたが、準拠法について判断が下されていたことまでは、
実は知らなかった・・・(忘れていた・・・?)。
日立高裁判決の直後で、あまり内容まで気に留めていなかったというのもあるが。


判旨は、準拠法を日本法とし、
特許法35条が外国における特許を受ける権利にも適用される、としており、
評者も結論自体には賛成しているので(理由に疑問ありとする)、
先日のエントリーで紹介した島並助教授の見解とは異なる。
http://d.hatena.ne.jp/FJneo1994/20050903/1125774940

前にも述べたように、
自分は現時点での判例の立場に親近感を覚えているが、
本件味の素事件が既に和解により終結してしまった以上、
結局のところ、残された日立職務発明事件の最高裁判決を待つほかなさそうである。

*1:樫原哲哉=波田野晴朗「不正競争防止法等の一部を改正する法律」ジュリスト1298号90頁(2005年)

*2:刑法も民事訴訟法もまだカナ文字で書かれていた、大学に入学した頃の六法を、自分は今でも実家に大切に取ってある。自分の学生時代の得意科目が、憲法刑事訴訟法だったのは、決して偶然ではない(笑)。

*3:和田肇「労働法学の立場から」ジュリスト1298号125頁(2005年)。和田教授は、この判断枠組みについて「通常甘受すべき不利益」の程度としてあまりにも高度のものが要求されすぎているのではないか、という疑問を呈されている。

*4:和田・前掲128頁。労働関係にパターナリスティックな様相を与え、労働者の私的生活への不要な介入になりかねないと指摘する。後述するように、自分も全く同感である。

*5:以上、和田・前掲128-130頁

*6:自分の会社でも、入社直後の配属の際に「東京出身者は地方へ、地方出身者は東京へ」というポリシーを長らく貫いていたが(よってほぼ全社員を社員寮に入寮させることになる。)、近年は自宅から通勤できる人はなるべく自宅から・・・と腑抜けな方針に転向している。

*7:他人事のように書いているが、実のところ自分自身がそういった「わがまま社員」の一人である。

*8:両論文は決して「ことさらに強調して構成したもの」ではないだろうが、分かりやすい「キーワード」を前面に出すことで使用者側をミスリードする懸念がないとはいえない。

*9:そうでなくても、女性社員は結婚の予定だとか出産の予定だとかを、しつこく聞かれて閉口しているという実態がある。また、新しい育児休業法制が導入されて以来、「小さい子供がいる女性社員は仕事を休んで育児をしなければならない」的な風潮が強まっているのも事実である。

*10:両親が共働きで、小学校に上がるまでずっと遠く離れた親族に預けられて育った自分には、「親がちゃんと面倒を見ないと子は育たない」という言葉がトラウマのように染み付いている。親と一緒に暮らすようになってからも、父親の単身赴任などを経験しているが、それで自分自身不都合を感じたことはない(いろんな人に同情されることにも慣れたが、同時に閉口させられたものだ)。厚生労働省は「親が子供の面倒を見ることができる」制度の定着に躍起になっているように思われるが、今必要なのは、むしろ親が手をかけなくても子供を育てられる社会的システム(低廉な価格で提供される24時間保育サービスや施設など)の整備の方ではないだろうか。現在わが国の出生率が下がっている理由としては、子供を産んでも(休みがとれなくて)育てられないから、ではなく、子供を産むと仕事を中断して休まなければならないから(育休がいかに整備されたとしても休まねばならないことに変わりはない)、ということの方が大きいように思う。そのことに気付かずに「子供は親が育てるもの」という固定観念に縛られていると、問題の本質を見誤る可能性が高い。

*11:申美穂「職務発明の対価請求の準拠法」ジュリスト1298号184頁(2005年)

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