「生活者の論理」という視点

結局、さしたる成果もあげられないまま、このGWの5連休を終えようとしているのであるが、そんな中、唯一読んだ本が↓である。



大内教授と言えば、近年、労働法研究者としての枠を超えた“やわらかい”著作を数多く世に送り出していることで知られており、何でもかんでも規制緩和の方向に持っていこうとする経済学者的言説とも、その対極に位置する“古典的労働法学者”的言説とも一線を画したバランスの良さには元々定評のある先生である。


そして、本書においても、その才は如何なく発揮されているように思われる。


たとえば、ワーク・ライフ・バランスに関する

「ワーク・ライフ・バランスにせよ、少子化対策にせよ、政府が力を入れても、なかなかうまく行きそうにないのは、問題が個人の価値観と深くかかわっているからである。(皮肉なことではあるが)政府の音頭取りで簡単に歌い出したりしない国民というのは、むしろ健全なようにも思える」(46頁)

「公共輸送機関のパンクチュアリティが、生活の質を高めることは誰も否定しないであろう。しかし、これは同時に、鉄道会社の社員の労働強化につながっている。労働者は、同時に生活者でもある。私たち日本人は、生活者の論理と労働者の論理がぶつかりあうなかで、前者を優先することを暗黙のうちに選択しているのではなかろうか。これも、ある意味では、日本的なワーク(労働)・ライフ(生活)・バランスの取り方かもしれないのである。」
「日本の労働者がよく働くのは、この生活者としての利便を十分に享受したいからでもある。生活者としての利便を享受するには、それなりの金がいる。労働者の家庭では、残業代を組み入れた生活設計をしていることが多いであろう。いったん生活水準を上げてしまうと、それを下げるのは大変である。違法なサービス残業までするのは、上司の覚えがよくなり出世にプラスになるという計算があるからである。それにより、当面の生活に犠牲が出ても、長い目でみれば自分やその家族の生活は安泰となり、この豊かな生活水準を享受し続けることができる。こう考えているのだろう。」(67-68頁)

のようなコメントや、解雇規制に関する、

「私個人は、不幸な結婚はできるだけ早く解消して、新たな恋愛に向けて再出発できるようにするほうがよいのと同じように、不幸な雇用関係の解消に法的に縛りをかけるべきではないと考えている。とはいえ、解雇を完全に自由化するのは、恣意的な解雇を許すことにもつながり(前述の「評判のメカニズム」がいつでも機能するわけではない)、会社と社員の力関係の違いを考えると、直ちに受け入れることも難しい。」
「私は、法がやるべきことは、解雇を規制することよりも、不幸な雇用関係の解消が円満に行われるように(法的には、合意解約の締結がなされるように)誘導することだと考えている。」(148-149頁)

といったくだりは、“両極”からの極端な意見に日々曝されて辟易している我々に、新鮮な視点を提供してくれるものだと思う。


働く者一人ひとりに、“個人として”理想とする生活を追求する自由があることを前提に、「会社の論理」、「労働者の論理」とは異なる「生活者の論理」という軸を示すことで、従来の“通説的”議論とは一線を画した見方を提示する本書には、一読する価値が十分にあるといえるだろう。


また、読む人によって好き嫌いはあるだろうが、ところどころで交ざるユーモアや、ある種突き放すようなシニカルな視点が見え隠れするところなども、筆者は嫌いではない。


“運動論”や“政策論”を熱く語る研究者も、それはそれで悪くないと思うのであるが、客観的、現実的な視点で現状を分析する、というのも、研究者に必要な資質の一つではないかと自分は思っているので・・・。




なお、自分も本書のすべての部分について大内教授の考え方に賛同しているわけではなく、章によってはあれ?と思うところもあるのは確かである。


特に、見解を導く上での前提となっている世の中の現状認識が、ちょっと古いのではないかと思えるところや*1、根拠のない“通説”の受け売り?と思われるようなところもあったりするのが*2、ちょっと引っかかる。


新書という媒体に載せた原稿だけに分かりやすさを優先したのかもしれないが、どちらかと言えば、このあたりの現状認識は「頭の古い会社の人事担当者(中堅以上)」(苦笑)とも共通するように思えるだけに、気になるところではあった。


ついでに言えば、労働者側に「労働者の論理」と「生活者の論理」があるのと同じように、会社側の「論理」も一つではない。


「人事屋さんの論理」だけが会社を支えているわけではない、というところにまで踏み込まないと、会社と働くものとの間の真の関係は見えて来ないように思うのであるが・・・。

*1:たとえば、「企業の人材育成システム」に関して論じるくだりで、「会社が、社員を自社の色に染めるためには、あらかじめ半端な知識や技能はないほうがよい。必要なのは、これから会社でも訓練を受けるうえでの基礎的な素養である。(略)。法学部卒といっても、必ずしも法律の知識を使った仕事をするわけではないので、大学時代の教育そのものは、会社にとってそれほど大きな意味はない。」(120-121頁)などという記載があるが、10年前ならともかく、今、ここまで新入社員の「知識や技能」を軽視している会社は少ない。仕事が高度化している上に、社内で人材を育成する余力が乏しくなった、といった事情はあるのだが、少なくとも採用の現場レベルでは、どの会社ももっとシビアに「知識や技能」を見ていると思う。特に法務系の仕事の場合。

*2:たとえば、「エリートとノン・エリート」の章で「受験秀才は、課題が所与のものではなく、自分で発見しなければならないという状況に置かれると、なかなか力が発揮できない可能性がある。そこで必要なのは創造力であるが、この力は、受験では測定できないからである。」「また、受験秀才は成功経験をもっているので、課題が与えられても、それが自分の能力からして、解決が困難と判断すると、失敗を怖れてそれに取り組むことを端から回避してしまうこともある。進取の気性が求められる仕事では、受験秀才は力を発揮できないことが多いであろう」といったくだり。確かに「受験秀才」でもこれらの仕事を苦手とする者はいるが、そこから「受験秀才」よりもそれ以外の人々の方がこの点で高い能力を発揮できる、という結論は導けないわけで(少なくともこのような結論は、自分の職業経験における経験則には明らかに反する)、そこから「製造業を基盤とする『工業社会』から、知的な能力を駆使した創造力が求められる『知識社会』へと移行するなか、受験秀才の得た高い学歴は、会社のニーズに応える実力の指標とはならない可能性もある」(以上105頁)というところに持っていくのはどうかな?という思いはある。

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