“ムラ”に必要な外からの視線

自分は長らく「知財」にかかわるところで仕事をしてきた。

それゆえ、「知財」と聞いただけで、“特殊な世界”と思われてしまう現実、例えば、法務の仕事を結構長くやっている人でも“その辺は素人なんで”と急に謙虚になってしまうし、ましてや弁護士の世界になると、“ああそれは○○先生に”なんて丸投げも厭わない事態になってしまう、という現実も良く承知している。

だが、最近、自分自身、少し離れたところから知財の仕事を見ている中で、「本当にそうなの?」と思うことが多くなってきていて、そんなとき、ある裁判官が書かれた一つの論稿に出会って、大きなインパクトを受けた。

それは、判例時報2138号(H24 3.21号)に掲載された滝澤孝臣・知財高裁部総括判事の「審決取消訴訟‐その基本を考える」という論稿である。

本稿は、第1の章が、「特許庁審判官特別研修」での講演、第2の章が「日本弁理士会大阪研修」での講演、と、滝澤判事が部外でお話しになられた内容(講義案)をまとめたもののようで、口語調の分かりやすい文章にまとめられているのだが、そこには、“知財ムラ”に閉じこもっている専門家に向けられた非常に辛辣な批判も記されている。

民事裁判官としていくつもの著作、論文を世に出されている著名な方でありながら、現在の職に着任するまで「知財事件に経験がなかった」滝澤判事が、「これまで経験してきた民事事件を踏まえて知財事件について考えてみた結果」として問いかけた数々の教訓的至言は、非常に貴重なものだと思うだけに、その中でも、特に自分が気になったいくつかのポイントを、ここでご紹介することにしたい。

特許訴訟も民事裁判である、ということ。

最近ではあまり露骨に言う人も見かけなくなってきたが、知財高裁ができた頃の議論では、「技術が分かる裁判官を」なんてことが、真顔で良く言われたものだ。

だが、滝澤判事は、そんな「特許訴訟=特殊論」を正面から批判している。
以下、少々長くなるが、引用すると、以下の通り。

「裁判官は世間知らずといわれますが、その喩えをいい意味で言い返しますと、裁判官は、世間を知りませんので、その担当する事件がどのような事件であっても、知ったか振りをして裁判することは決してありませんし、そのような知ったか振りをした裁判は厳に戒められるところです。例えば、医療事件について、医師のレベルで、すなわち、医師になったつもりで裁判するわけではありませんし、建築事件について、建築士・設計士のレベルで、すなわち、建築士・設計士になったつもりで裁判をするわけではありません。関係する法律に照らして、医師として尽くすべき義務を尽くしているか否かなどといった法的判断が求められているのが民事裁判であるからです。特許事件についても、同様でして、発明家・研究者のレベルで、すなわち、発明家・研究者になったつもりで裁判をするわけではありません。発明それ自体の価値と、当該発明が特許として保護に値するかどうかとは自ずと別論です。前者、すなわち、発明それ自体の価値は発明家・研究者でないと理解できないかも知れませんが、それが民事裁判の対象となっているわけではありません。民事裁判の対象となっているのは後者、すなわち、発明が保護されるべきか否かといった法的判断なのです。」(7〜8頁)
特許法が規定する発明の新規性、進歩性などは、もとより特許法の適用によって判断することができる要件として規定されているわけでして、当該発明がこれまでにあった発明と同じであるか、これまでにあった発明から容易に想到することができる発明であるかという比較がもっぱらになりますし、その比較は、これまでの発明と今回の発明とその技術的価値の優劣を判断するものではなく、その技術的思想の異同を判断するものです。そのような判断をするに際して、問題となっている発明を理解する必要がないなどとはいいませんが、発明を理解するという意味が当該発明の技術的価値を理解しているという意味ですと、特許法の適用が問題となる場面では、そのような理解は求められていないというか、そもそも、そのような理解は特許法で判断の対象として規定していないといわなければならないように思います。」(8頁)

専門的な領域で争われる民事裁判というのは、「知財」以外にもたくさんあるのに、なぜ「知財訴訟」だけを特別扱いしなければならないのか?というのは、ある程度広い分野で法律にかかわってきた者であれば、誰しもが疑問に思うことである。

最近では、“技術に詳しい”ことを法廷でアピールする裁判官、というのもいらっしゃったりするようで、若干状況が変わってきているのかもしれないが、それでも、ここで述べられているような、“裁判所の伝統的なスタンス”は維持されるべきだと自分は思っているし、そういった“裁判官としての矜持”を正面から主張できる方が知財高裁にいらっしゃる、というのは、個人的には嬉しいことだと思う。

ちなみに、上のくだりは、特許庁審判官向けの講義案部分から引用したものであるが、当事者代理人向けになされた講義案に書かれている内容は、もっと手厳しい。

「少し目線を変えますと、裁判に対する批判の一つというか、常套句にもなっている典型的な批判として、「裁判官は世間知らず」といわれます。(略)その批判に際して、裁判を正しく理解した上での批判であるのか、裁判を正しく理解していないため、裁判の結果を正しく受け止められないで、裁判を批判しているだけではないのかといった疑問、要は「裁判知らずではありませんか」といった疑問を反対に呈したいところです。」
裁判の本質、換言すれば、裁判の普遍性といったものは、その対象となる事件が専門的な分野であるか否かによって少しも変わるものではなく、知財訴訟、審決取消訴訟であっても、そのような裁判の対象として事件が提起される以上は、裁判の本質に従って当該事件の解決がされるということ代理人として事件に関与される先生方にも、是非、肝に銘じていただきたいと思う次第です。」(17頁)

法律家にとっては当たり前の流儀でも、それが通じないカテゴリーの人々がいて、しかもそういう方々が法廷で代理人として登場してくる・・・そんなもどかしさが伝わってくるようなコメントである。

「裁判」という場で争っている以上、裁判所に“法に則った判断”をしてもらうためには、特許発明等に込められた技術思想を争点判断に必要な法律要件に乗せた上で法廷に出していかなければならない。だが、その技量が不十分であったがゆえに有利な結論を引き出せなかったにもかかわらず、「この特許はこういうものだから、○○という結論になるはずだ。××という結論を出す裁判所はおかしい」的な批判を繰り返す代理人にあたってしまうと、依頼する当事者の方も萎えてしまうわけで、大阪の研修だけではなく、東京の研修でも繰り返しお話ししていただきたい、そんな至言だと思う。

主張の一方性・片面性、争点の曖昧化が好ましくない、ということ。

滝澤判事は、続いて、審決取消訴訟における弁論の問題点を指摘されている。

例えば、「当事者の主張がそれぞれ一方的・片面的であって、相手方の言い分も聞かないで、自分の言いたいところを言うだけに終始している場合」として、特許事件において「原・被告がそれぞれ独自に技術用語を造語している」ケースや、商標事件において「結合商標の類否判断において独善的な自己本位の主張がなされる」ケースなどが挙げられている(18〜21頁)。

この点については、

「そもそも、裁判所(特に知財高裁)が一方的な書面のやり取りだけで訴訟を進行させていて、弁論準備手続の場などで、双方の主張をかみ合わせるような具体的な訴訟指揮をしていないのがいけないんじゃないか!」

という突っ込みもあるところだろう*1

元々、特許事件などは、双方から提出される書面も相当大部で専門用語も飛び交うものになるから、期日までに裁判官がそれに全部目を通して、その場で“噛み合わせる”ための求釈明や論点の絞り込みを行うのは、なかなかたやすいことではないのだろうが、それでも、淡々と進め過ぎでは・・・?と思うところはある。

また、審決取消訴訟であればともかく、侵害訴訟にでもなってくると、権利者側の技巧的な(というか強引な)クレーム解釈に対抗するために、あえて噛み合わない「技術用語」を使う、というのもやむを得ない面はあるところで、裁判所の論理だけで語られても・・・という批判は、ありうるところだろう*2

だが、他の一般的な民事裁判と知財関係事件を見比べた時に、感じる物足りなさ、もどかしさ、というものは確かにあるだけに、そこに問題意識を持つ裁判官がいるのであれば、当事者としても応えていかなければならないだろう、という思いはある。

知財高裁がプロパテントの立場か、アンチパテントの立場か、と問うことに、大きな意味はないこと。

自分が、この論稿の中で最も興味深かったのが以下のくだりである。

「もっぱら民事裁判に従事してきた私が知財高裁に異動になって奇異に感じていることの一つに、知財事件に関係している方々と裁判官との協議会で、出席者から知財高裁はプロパテントの立場ですか、それとも、アンチパテントの立場ですかと聞かれることがあります。」
「仮に民事事件に関係している方々と協議会が開催されたとしても、出席者から裁判所は或る権利についてこれを擁護する立場ですかとか、反対に、当該権利を抑制する立場ですかと聞かれるようなことはおよそ考えられないところですが、知財事件に関係している方々との協議会では、そのような民事事件を担当していた当時には考えられない質問に匹敵するような質問がされることが少なくないので、ついつい奇異に感じてしまうというわけです。」
「もとより、裁判官は、法律と良心に従って裁判をしなければならないのですが、反対に、それ以外に、一定の方向性、価値観を持って裁判をするようなこともあり得ないことですしたがいまして、そのような注文、要望に耳を傾けることは一切ないのですが、そのような注文、要望がされるのも、知財高裁が一般の裁判所とは異なり、知財立国に向けた国の施策を推進する国家機関の一つであるかのように受け止めている向きが多いからかも知れません。」
「裁判所としましては、要件に該当する特許は認め、要件に該当しない特許は否定するしかありません。外国の裁判制度はともかく、我が国における裁判はそういうものでして、プロパテント、アンチパテントといった捉え方にそもそも馴染まないものなのです」(9〜10頁)

このくだりを読んで、「法解釈、といったって、裁判官の裁量として許容される幅は相当広いのだから、結局のところ裁判所(裁判官)のポリシーが結論に影響することは避けられないのではないか?現に、過去には・・・(以下略)」という突っ込みをしたくなった人も多いことだろう。

世間の人が思っている以上に、裁判所という組織は時流に敏感だ、ということも、法律にかかわっている多くの人は感じているし、それゆえ、このブログでも“アンチ・パテント”、“プロ・パテント”という視点で数々の裁判例を分析することは多い*3

ただ、滝澤判事が述べられるとおり、我が国における裁判所の機能、というのは、本来、「当該事件の解決」のみを本旨とする限定的なものであるはずで、それを超えた“政策的判断”を求めるのは、度の過ぎた期待と言うべきなのだろう*4

冷静に考えれば当たり前のことではあるが、ともすれば、裁判所(特に知財高裁)の“政治性”に目をとらわれがちな我々に対する一つの警句、として受け止めておくことにしたい*5

なお、滝澤判事は、

「審決取消訴訟の判決は、知財高裁の判決であっても、事実審としての判決ですから、その判決に判例性が認められるわけではありません。」
当該判断が後行訴訟の裁判所の判断を拘束するかのような主張も見られないわけではなく、こうなりますと、面はゆいだけでなく、判決の判例性について、考え直してくださいといいたくなってしまいますその法律判断は、所詮、事実審の法律判断にすぎないからです。」
「この点を認識していれば、知財高裁の各部の判断に矛盾が感じられたとしても、異とするには当たらないはずです。」(以上、24〜25頁)

と、知財高裁判決の「判例としての規範性(がないこと)」にも言及されている。

民事訴訟における事実審の位置付けに鑑みれば当然の理であろうが、最高裁における「判例」が少ない知財の分野においては、むしろ新鮮に聞こえてしまうコメントですらあるわけで、今後はその辺により注意しながら、知財系の判決(特に第4部の判決)を見ていく必要があるのかもしれない。

おわりに

滝澤判事は、他にも、「審決取消訴訟における紛争解決の一回性」のための提案*6や、審理において過度に書証を優越させるのではなく、人証調べを行うことの意義(及び代理人が審問技術を取得する意義)、そして、審決取消訴訟の和解解決の可能性、など、民事裁判官ならではの様々な提言を行っている(詳細については、判例時報の原典をあたっていただきたい。)。

全ての裁判官が、同じお考えで知財事件を扱っているわけではないように思われるところが、当事者としては悩ましいところではあるのだが、これまで「知財事件というのはこういうものだから」という言葉で片付けられていた、一般民事事件とのギャップについて、少しでも埋めていくような試みが、あっても良いのではないか、と思えるところもあるわけで。

「特殊性」に名を借りた“専門分野の囲い込み”は、商売上のテクニックとしては意味があることなのかもしれないが、少なくともそれを、法律家にとっての“正道”ということはできないだろう。

そして、だからこそ、「外」からの視点を大事に、外側の世界にも受け入れられるような実務を築き上げていくことが肝要なのではないか、と自分は思うところである。

*1:なお、滝澤判事の第4部は、そういう意味では異なる仕切り方をしているのかもしれない。幸か不幸か自分は経験したことがないのだけれど。

*2:逆に言えば、その背景には、あえて異なる用語を使って説明しないと、裁判所が相手の“口車”に載せられて不適切な認定判断をしてしまうのではないか、という不信感もあるわけで、問題は意外に根深いというべきなのかもしれない。

*3:加えて言うと、裁判所が一定のポリシーを持った存在だ、ということは、知財の分野に限ったことではなく、貸金業に関する一連の判決群に象徴されるように、すべての民事・刑事事件においてみられる現実である。

*4:結果的に一部の裁判官が政策的視点を取り込んだ判決を書くことがあったとしても、それを全ての裁判所、全ての裁判官に求めるのは本来望ましいことではないし、それに期待した訴訟活動を展開することは、時に大きなリスクを孕む、ということを認識しておく必要がある。

*5:「まねきTV」、「ロクラク2」を適法とした知財高裁判決が覆された時の最高裁判決に対する批判にも、滝澤判事が指摘するような“誤解”が大なり小なり混じっていたように思うところである。

*6:滝澤判事は、審判段階においてなるべく「引用発明の全部を比較対照して主張・反論を展開させること」等により、蒸し返しを防ぐことを提案されている。

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