週末まではまだブログを更新する余力もあったのだけれど、週が始まれば山を超えるまでダッシュで駆け抜けるしかない。
そんな週だ、今週は。
ということで、少しでも早く床に就いて明日の態勢を整えろよ・・・と自分に突っ込みを入れつつ、この季節になるとどうしても書いておきたいことがあって机に向かっている。
自分の中で、6月といえば「異動」の季節だった。
定時株主総会をもって取締役が変わる。晴れてその切符を掴んだ執行役員の後任にどこかの部長クラスが繰り上がる。さらにそれで空いたポストにその下の担当部長やら次長やら…という人々が繰り上がり、さらにそのポストに・・・といった具合に上から下まで、管理職だけで一斉に数百人単位で動く地殻変動が毎年のように繰り返される。
だから、6月の2週目から3週目くらいにかけては、連日連夜送別会がある種仕事のように繰り返されるし、「その時」が近付くと引継ぎやら荷物整理やらでバタバタし、総会を跨いでその疲れも取れないうちに、ハイテンションで歓迎会・・・というのもまた恒例行事となっていた。
もちろん、こういった「大移動」には、様々なイレギュラー要素が付きもので、「おめでとうございます!」とストレートに声を掛けられるようなパターン(純粋に「上」にいくパターン)の方が稀だったりもする。
「横」にスライドすることもあれば、螺旋階段をぐるっと回って、元いたところに(さしてポジションも変わらぬまま)戻ることもあるし、肩書はともかく処遇としては明らかに・・・と、他人事なれどため息をつきたくなるようなパターンもある。
そして、どんな時でも一番切ないのは、定年にはもう少しなれどここで出たらもう返り咲きはないかな・・・というタイミングで本社を離れ、子会社、関連会社へと旅立っていくパターンだった。
一つの会社に長くいて、いろんなパターンを見てくれば、「もしここでうまく軌道に乗って「上」に行けたら、その次の異動でさらにその上の可能性もあったかもしれない、でも、ここで子会社のこのポジションだと正直その次の目はない・・・」ということまで、どうしても見通せてしまう。
ポストの数はあらかじめ決まっていて、異動のサイクルは通常2~3年。ある年代がはじき出されるタイミングで下の世代がその穴を埋める。
そういう組織の”新陳代謝”が図られる限り、それはどうしても避けられないことでもある。
いざ、自分の上司がそういうことになったとしても、下々の者は所詮他人事だから、通常なら、当の本人が内心を押し隠し「モナリザの微笑」を浮かべて去っていくのを横目に、「やっぱり実力者の会長とそりが合わなかったからなのかなぁ。」「いやいや、社長の座を虎視眈々と狙う××常務に疎んじられたんじゃないかなぁ。」などと妄想を繰り広げ、不埒な会話を散々酒の肴にして騒いだ末に、1か月も経てば「過去の人」にしてしまう。
行った先で定年まで仕事をし、次に送られてくる後任にバトンタッチするまで与えられたポジションを守っていれば、相当な給料は手元に残るし、最後にガッツリ退職金をもらえば、その後もまずもって安泰。だから周囲も惜しみつつ、まぁそれでもね、と思うところはあるし、もしかしたら当の本人すらそう思っているかもしれない。そんな気配すらあった。
だが・・・
自分は、この季節のそんな光景が大嫌いだった。
特に、若い頃から将来を嘱望されていて、自分も「この人にはもっと上まで行ってもらわないと困る」、「この人のためなら私を滅しても働ける」と思っていた人が離れていく瞬間に立ち会うほどつらく、悲しいことはなかった。
去り行く人が、淡々としていればしているほど、逆にこちらの方が無念の思いを抱いてしまう・・・そんなことの繰り返しだった。
自分が長くいた部署は超弱小。もう少し広げたカテゴリーで括れば元々は本流に近かったはずなのに、いつしか歪んだ権力バランスの下で傍流化・・・
そんな状況だったから、なおさら悔しさは募った。
組織を離れて良かった、と思うことは、枚挙にいとまがないくらいあるのだが、中でもその最たるものは、こういう景色を間近に見ずに済むようになったこと、そして、自分自身がそこに巻き込まれることもなくなった、ということに尽きるような気がする。
もちろん、フリーになったところで、自分のやりたいことを全てできるわけでもなければ、自分自身であらゆる運命を切り開けるわけでもない。
高い目標に到達しようと思えば天の助けがいるし、コントロールできないあれこれに襲われた時のリスクも格段に上がる*1。
だがそれでも、当事者の意思の介在しないところで育ててきたチームが壊される感覚を味合わずに済み、何年かに一度は襲ってくる「見えざる手」に抗するための余計なエネルギーを使わなくて良い、というだけで人生のプラスは遥かに大きい。
そして、良い方向に行こうが、悪い方向に行こうが、誰にも気兼ねなく、
「自分の人生は自分が決める」
という気概を堂々と持ち続けていられる*2、ということは、それだけで意義があることだと自分は思っている*3。
以上、どんな会社でも、多かれ少なかれ様々なものが動くこの季節だからこそ思い出されること、ということで、寝て起きて全力疾走したら忘れてしまいそうな話だけに、眠い目をこすりつつ、書かせていただいた次第である。
*1:新型コロナが流行し始める半年近く前に、40度の高熱に数日うなされて寝込んだことがあったのだが、たかだかそれだけのことでも、かつてなかったような焦りを感じたのは確かで、「これで今やっている仕事に大きな穴を開けてしまったら、その仕事はもう二度と取り戻せないかもしれない」という感覚は、給与生活者時代にはまぁなかったな・・・と、今振り返っても思うところである。
*2:大きな会社、大きな組織になればなるほど、自分の人生を他人に委ねる、天命に委ねる、ということが当たり前になるような風潮もあるのだけれど、自分は断じてそれは違う、と言い続けたいし、仮にそういう運命を受け入れることによる経済的その他のメリットがどれだけあったとしても、それでいいのか?と自問自答し続けることは必要なはずである。
*3:まぁこの先、もしかしたら、また「天の声」に導かれ・・・というようなことがないとは限らないし、そうなったときはまた自分自身も含めて、悲喜こもごもの組織人人生劇場を目の当たりにすることになるのかもしれないが、新型コロナをめぐるbefore/afterの世界と同様に、一度解き放たれた精神は決して元には戻らないし、戻すべきでもない、と思っている。