地裁、高裁で立て続けに違憲判断が出され、大法廷回付までされていた事件だけに、おそらくこういう結論になるのだろう、と思ってはいたが、実際に示された結論は想像以上にインパクトのあるものだった。
「在外邦人の有権者が最高裁裁判官の国民審査に投票できないのは憲法違反かどうかが争われた訴訟の上告審判決で、最高裁大法廷(裁判長・大谷直人長官)は25日、投票を認めないのは違憲とする初判断を示した。」
「裁判官15人の全員一致の意見。最高裁が法令を違憲と判断するのは、女性の再婚禁止期間を定めた民法の規定を巡る2015年の判決以来で、戦後11例目となる。」
(日本経済新聞2022年5月26日付朝刊・第1面、強調筆者、以下同じ)
これまでにも最高裁が法令違憲の判断をした例はいくつかあるが、法令に対する評価は「違憲」でも、原告の請求自体は退け、その結果法廷意見が割れる、というケースはしばしば存在した。
前記日経紙の記事で紹介されている直近の法令違憲判決(最大判平成27年12月16日)*1でも、原告の国賠法上の損害賠償請求自体は退けられているため(上告棄却)、弁護士出身の山浦善樹裁判官が「違憲」の判断自体は支持しつつも、損害額算定のために破棄差戻しすべし、という反対意見を書かれている。
これに対し、今回の判決がかなり突き抜けているのは、「違憲」という評価においてすべての裁判官の判断が一致した上に、原告の訴えの適法性や国賠法上の賠償請求に対しても全裁判官が一致して”満点回答”をしており、その結果、「全員一致」という結論に至った、ということである。
振り返ってみると、終始一貫して「違憲」判断が示された、と報じられていた事件にもかかわらず、第一審(東京地判令和元年5月28日)*2、控訴審(東京高判令和2年6月25日)*3と、本件に係る下級審判決の内容自体はめまぐるしく変わっている。
以下、原告の第一審での請求の趣旨をベースにこれまでの請求とそれに対する判断をまとめると、
■ 日本国外に住所を有する第1事件原告らが,次回の最高裁判所の裁判官の任命に関する国民の審査において,審査権を行使することができる地位にあることを確認する(第1事件の主位的請求、本件地位確認の訴え)。
→ 第1審:訴え却下 → 控訴審:訴え却下 → 上告審:第1審原告附帯上告棄却(ただし訴えを適法と認めた上で請求棄却、という判断)
■ 被告が,第1事件原告らに対し,日本国外に住所を有することをもって,次回の最高裁判所の裁判官の任命に関する国民の審査における審査権の行使をさせないことは違法であることを確認する(第1事件の予備的請求、本件違法確認の訴え)。
→ 第1審:訴え却下 → 控訴審:請求認容 → 上告審:第1審被告上告棄却
■ 被告は,原告らに対し,各金1万円及びこれに対する平成29年10月22日から各支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。(第1事件、第2事件、国家賠償法1条1項に基づく損害賠償請求)
→ 第1審:各5,000円+遅延損害金認容 → 控訴審:棄却 → 上告審:破棄自判(第1審の結論是認)
ということで、各請求を細かく見ると、目まぐるしく結論が変わっているのだが、最後の最後で、ほぼ原告が思い描いていたとおりであろう結論に落ち着く、という奇跡のような展開。それこそが、本判決が突き抜けた判決と言えるゆえんである。
ここで、メインの争点である「在外国民に国民審査に係る審査権の行使が認められていないこと」に対する最高裁の判断は、以下のとおり、これまでの議論も集約する形で極めて明確に整理されており、これを読めばもう十分、というところだろう。
「憲法は、前文及び1条において、主権が国民に存することを明らかにし、15条1項において、公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利であるとした上で、79条2項において、最高裁判所の裁判官の任命について、衆議院議員総選挙の際に国民の審査に付する旨規定し、同条3項において、投票者の多数が裁判官の罷免を可とするときは、その裁判官は罷免される旨規定している。」
「この国民審査の制度は、国民が最高裁判所の裁判官を罷免すべきか否かを決定する趣旨のものであるところ(最高裁昭和24年(オ)第332号同27年2月20日大法廷判決・民集6巻2号122頁参照)、憲法は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である(憲法81条)などの最高裁判所の地位と権能に鑑み、この制度を設け、主権者である国民の権利として審査権を保障しているものである。そして、このように、審査権が国民主権の原理に基づき憲法に明記された主権者の権能の一内容である点において選挙権と同様の性質を有することに加え、憲法が衆議院議員総選挙の際に国民審査を行うこととしていることにも照らせば、憲法は、選挙権と同様に、国民に対して審査権を行使する機会を平等に保障しているものと解するのが相当である。憲法の以上の趣旨に鑑みれば、国民の審査権又はその行使を制限することは原則として許されず、審査権又はその行使を制限するためには、そのような制限をすることがやむを得ないと認められる事由がなければならないというべきである。そして、そのような制限をすることなしには国民審査の公正を確保しつつ審査権の行使を認めることが事実上不可能ないし著しく困難であると認められる場合でない限り、上記のやむを得ない事由があるとはいえず、このような事由なしに審査権の行使を制限することは、憲法15条1項、79条2項、3項に違反するといわざるを得ない。また、このことは、国が審査権の行使を可能にするための所要の立法措置をとらないという不作為によって国民がいても、同様である。」
「在外国民は、前記2のとおり、現行法上、審査権の行使を認める規定を欠いている状態にあるため、審査権を行使することができないが、憲法によって審査権を保障されていることには変わりがないから、国民審査の公正を確保しつつ、在外国民の審査権の行使を可能にするための所要の立法措置をとることが事実上不可能ないし著しく困難であると認められる場合に限り、当該立法措置をとらないことについて、上記やむを得ない事由があるというべきである(以上につき、平成17年大法廷判決参照)。」(PDF6~8頁、強調筆者、以下同じ)
「前記第1の2及びのとおり、国民審査法は、衆議院議員総選挙の期日の公示の日に、国民審査に付される裁判官が定まり、その氏名が告示されることを前提として、都道府県の選挙管理委員会が、国民審査に付される裁判官の氏名を印刷するとともに、それぞれの裁判官に対する×の記号を記載する欄を設けた投票用紙を調製することとした上で、投票の方式につき、上記投票用紙を用いた記号式投票によることを原則としている。このような投票用紙の調製や投票の方式に関する取扱い等を前提とすると、平成28年法律第94号による国民審査法の改正の前後を問わず、在外審査制度を創設することについては、在外国民による国民審査のための期間を十分に確保し難いといった運用上の技術的な困難があることを否定することができない。しかしながら、前記3のとおり審査権と同様の性質を有する選挙権については、平成10年公選法改正により在外選挙制度が創設され、平成17年大法廷判決を経て平成18年公選法改正がされた後、衆議院小選挙区選出議員の選挙及び参議院選挙区選出議員の選挙をも対象に含めた在外選挙制度の下で、現に複数回にわたり国政選挙が実施されていることも踏まえると、上記のような技術的な困難のほかに在外審査制度を創設すること自体について特段の制度的な制約があるとはいい難い。そして、国民審査法16条1項が、点字による国民審査の投票を行う場合においては、記号式投票ではなく、自書式投票によることとしていることに鑑みても、在外審査制度において、上記のような技術的な困難を回避するために、現在の取扱いとは異なる投票用紙の調製や投票の方式等を採用する余地がないとは断じ難いところであり、具体的な方法等のいかんを問わず、国民審査の公正を確保しつつ、在外国民の審査権の行使を可能にするための立法措置をとることが、事実上不可能ないし著しく困難であるとは解されない。そうすると、在外審査制度の創設に当たり検討すべき課題があったとしても、在外国民の審査権の行使を可能にするための立法措置が何らとられていないことについて、やむを得ない事由があるとは到底いうことができない。 したがって、国民審査法が在外国民に審査権の行使を全く認めていないことは、憲法15条1項、79条2項、3項に違反するものというべきである。 」(PDF8~9頁)
在外国民の投票権に関しては既に最大判平成17年9月14日によりフルコースでの違憲判断が下されているから、国民審査についても選挙権と同等の権利として認めさせ、さらに「制度を創設しない理由」を単なる「運用上の技術的な困難」と括ってしまえば、自ずから「憲法違反」という結論は見えてくる。
言うは易し、だが行動に移すのは難し、というこの手の話の中で、それを見事にやり切った原告団に対しては称賛を送るしかないのだが、「憲法の世界での議論」としては、そこまでエポックメイキングなものとまでは言えないような気がする。
ただ、これに続く、行政訴訟のあり方に関する説示は一味違う。
まず、地位確認の訴えについて。
「本件地位確認の訴えは、公法上の当事者訴訟のうち公法上の法律関係に関する確認の訴えと解され、第1審原告X1は、憲法の趣旨を踏まえた解釈をすべきであること等を前提としつつも、結局は、国民審査法4条、8条の解釈に基づいて、次回の国民審査において審査権を行使することができる地位にあることの確認を求めているものと解される。 そして、平成29年国民審査において審査権を行使することができないものとされた第1審原告X1が、次回の国民審査に先立ち、審査権を行使することができる地位を有することを確認することは、その地位の存否に関する法律上の紛争を解決するために有効適切な手段であると認められる。したがって、現に在外国民である第1審原告X1に係る本件地位確認の訴えは不適法であるとした原審の判断には、法令の解釈適用を誤った違法があるといわざるを得ない。 」(PDF9頁)
結論としては、今の国民審査法第4条、第8条から「在外国民に審査権の行使が認められている」という解釈が導けないことから、請求棄却*4ということになっているが、
「その確認を求める対象となる法的地位は,国会において,新たに立法を行わなければ,具体的に認めることのできないものであって,確認を求める対象として有効,適切ではないから,本件地位確認の訴えは確認の利益を欠くものというほかはなく,不適法」(原審PDF51頁)
とした原審の判断に比べると、遥かに原告フレンドリーな説示になっている。
また、続く違法確認の訴えについても、
「本件違法確認の訴えは、公法上の当事者訴訟のうち公法上の法律関係に関する確認の訴えと解される。」
と整理した上で、
「憲法79条4項は、国民審査に関する事項は法律でこれを定める旨規定するところ、同条は、2項において、最高裁判所の裁判官の任命について、衆議院議員総選挙の際に国民の審査に付する旨規定し、また、3項において、投票者の多数が裁判官の罷免を可とするときは、その裁判官は罷免される旨規定しており、国民に保障された審査権の基本的な内容等が憲法上一義的に定められていることが明らかである。そのため、国民審査法が在外国民に審査権の行使を全く認めていないことによって、在外国民につき、具体的な国民審査の機会に審査権を行使することができないという事態が生ずる場合には、そのことをもって、個々の在外国民が有する憲法上の権利に係る法的地位に現実の危険が生じているということができる。また、審査権は、選挙権と同様に、国民主権の原理に基づくものであり、具体的な国民審査の機会にこれを行使することができなければ意味がないものといわざるを得ず、侵害を受けた後に争うことによっては権利行使の実質を回復することができない性質のものである。加えて、国民審査法が在外国民に審査権の行使を全く認めていないことが違憲であることを理由として、国が個々の在外国民に対して次回の国民審査の機会に審査権の行使をさせないことが違法であると主張され、この点につき争いがある場合に、その違法であることを確認する判決が確定したときには、国会において、裁判所がした上記の違憲である旨の判断が尊重されるものと解されること(憲法81条、99条参照)も踏まえると、当該確認判決を求める訴えは、上記の争いを解決するために有効適切な手段であると認められる。このように解しても、上記のとおり、国民に保障された審査権の基本的な内容等が憲法上一義的に定められていることが明らかであること等に照らすと、国会の立法における裁量権等に不当に影響を及ぼすことになるとは考え難いところである。」(PDF10~11頁)
と、国側の上告を退ける堂々の認容判決。
行政訴訟に関しては、既に新しい傾向も見て取れるところではあるが、今回、最高裁大法廷がここまで明確に地位確認、違法確認の訴え、というオプションを認めたことで、今後、法令の違憲性を主張して提起される訴訟において、原告側がとり得る選択肢の幅もより広がってくる*5ことは間違いない。そして、こういった説示がなされた背景には、本判決に唯一付された宇賀克也裁判官の補足意見にある、以下のような考え方が強く影響しているようにも思えるだけに、今回もまた実に良いお仕事をされているなぁ・・・としみじみ感じ入った次第である。
「先般の司法制度改革では、行政訴訟を活性化させることが改革の大きな柱の一つとされた。そして、平成16年法律第84号による行政事件訴訟法の改正においては、同法4条に確認の訴えを明示することにより、処分性のない事案における救済の受け皿として、実質的当事者訴訟としての確認の訴えの活用を促すこととされた。民事訴訟においても、紛争の抜本的解決に必要な場合には、過去の法律関係や過去の事実の確認も可能であると解されているところ、実質的当事者訴訟としての確認の訴えの場合にも、現在の権利義務関係を争うよりも、立法や行政活動の作為又は不作為の違法確認の訴えの方が現在の紛争の解決にとって有効適切である場合には、立法や行政活動の作為又は不作為の違法確認の訴えが排除されると考えるべきではなく、かかる訴訟を認めることは、実質的当事者訴訟としての確認の訴えを明記した上記改正の趣旨にも適合すると思われる。 」(PDF17~18頁)
なお、多数意見の最後で議論されている「平成29年国民審査当時の国賠法上の適法/違法の評価」に関しては、あくまで立法府で行われた議論の内容等を基礎とした判断なので、今回の逆転一部認容判断を是とするか否かの判断は、自分にはちょっとつきかねるのだが*6、最高裁があえて立法の「不作為」に対して厳しい判断を示した背景には、
司法府の存在を軽く見るなよ!
という思いも込められていたように感じざるを得ないわけで、そこにも司法府の頂点に立つ機関としての”熱”を感じた、ということは、書き残しておくことにしたい。
*1:https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/547/085547_hanrei.pdf
*2:https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/781/088781_hanrei.pdf
*3:https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/723/089723_hanrei.pdf
*4:判決としては、不利益変更禁止の原則により原審の訴え却下判決を維持して附帯上告棄却。
*5:そして下級審で門前払いを食らう可能性が低くなる。
*6:最高裁は「平成18年公選法改正から10年以上、所要の立法措置を取らずに放置されてきた」という点を問題視しているのだが、この間、一票の格差の問題あり、国民投票法をめぐる激しい議論あり、さらに間に二度の政権交代を挟む、という状況の中で、あの頃の世間の「国民審査」というものへの関心に比して「10年」というのが長すぎる期間だったか、と言うと、「不作為」を責めるのはちょっと酷な気もする。自分自身、少し年を取り過ぎて時間の感覚がおかしくなっているのかもしれないけど・・・。