“固定観念”をぶち壊せ!

正月休みということで、現実逃避のためあまり仕事に関係ない本を読んでみる。


今日取り上げる2冊は、いずれも現在の“固定観念”に疑義を投げかける論者の本。

ニート」批判の愚かさ

「ニート」って言うな! (光文社新書)

「ニート」って言うな! (光文社新書)


ちょうど1年ほど前に光文社新書から出た本だが、筆者が日々抱いている問題意識と重なるところが多く、読んでいて気持ちの良い(笑)本である*1


ニート」概念のいい加減さ、労働市場の歪みの問題を個人の資質の問題に転嫁しようとするメディアの論調や、作り上げられた社会不安に乗っかって、自らの政治的意図*2を達成しようと煽る勢力たちのいかがわしさ。


新書だけに議論が荒っぽいところも多々見られるが、刃を向ける先は、筆者自身の発想と概ね一致している。


特に内藤助教授が指摘するような「「最近の青少年はおかしい」的論調のいかがわしさ」は、図書館に眠っている1960年〜70年代の新聞の縮刷版を1ヶ月分でも眺めれば、すぐに気が付く話である*3


当時から、残酷非道な罪を犯す少年少女はいたし、不況期に職に就けない学生の無気力を批判する社説も存在したのだ*4

「昔ながらのニートはどんな時代にも必ず一定数います。こういう「役に立たない」、あるいは役に立つ立たないを超えた「脱−社会的」な人たちが一定数存在することは、社会がほどよく生きやすい仕方で寛容であることの指標となります。」
「名づけられることなく世に棲んでいたこういう人々が、ニートという名をつけられて問題化され、大衆の不安と憎悪のターゲットとなり、心と生活態度の網の目の細かい教育によってきれいに浄化されてしまったとしたら、それはひどく生きがたい社会でしょう。」
内藤朝雄・165-166頁)

全くその通りだと思うのであるが、本書発刊後1年近く経っても状況は好転していないし、話は「勝ち組、負け組」だの「格差社会」だのといった方向にまで、どんどん拡散していっているように見える。


本来、無職か仕事に就いているかは、その時に給料をもらっているかいないかの違いに過ぎず、両者の間の“人間的な価値”に本質的な差異があるはずもないのだから*5、精神教育だの何だのを論じること自体失当だと思うのであるが、ついついそういう論調に与してしまいがちな御仁には、是非本書をご一読することをお勧めしたい。

司法の「常識」を考える

裁判と社会―司法の「常識」再考 (日本の“現代”)

裁判と社会―司法の「常識」再考 (日本の“現代”)


こちらは東大のダニエル・フット先生が書かれた、「日本の法と社会に関する本格的な概説書。


訴訟行動、契約行動といった法文化の諸外国との比較から、裁判所による政策形成の実態まで、豊富な実例とデータを基に詳細に論じられている本であるが、文章自体は非常に柔らかく、読み物としても仕上がっていると思う。

「文化や伝統の違いは往々にして大げさに喧伝され、とりわけ訴訟や法意識に及ぼす影響は、しばしば誇張されている。しばしば誇張される固定観念として、日本人が和を重視するという美徳、日本人が調停などの対立的でない紛争解決を好むということ、さらに日本文化における謝罪の重み、といったものがある。ここまでの議論から分かるように、こういった態度の違いは、日米において程度の差はあっても、決して日本特有というわけではない。同じような態度は、合衆国その他の国々でも広くみられる。」(ダニエル・H・フット『裁判と社会−司法の「常識」再考』117頁(NTT出版、2006年)

川島武宜名誉教授が『日本人の法意識』で主張されたような、我が国独自の文化に根ざした法意識・行動様式の「特殊性」がそもそも認められるのかどうかは疑わしい、という主張は、筆者自身が学部にいた頃から半ば常識として唱えられていたし、それを裏付ける実証研究の結果もいくつか公表されているから、日本の独自性・特殊性を過度に強調すべきではない、とするフット教授の主張は今やそんなに真新しいものではないのだが、本書の面白さは、実際に生じている日米間の数字(訴訟率等)の違いを

「制度的要因、経済的要因、さらに文化的要因、といった複雑な要因の相互作用の結果」

であると捉え、それぞれの要因について、(フット教授ご自身の経験も加味した)豊富な(かつ最新の)実例によって説明することを試みている点にあるといえるだろう。


実際、会社の法務なんぞで仕事をしていると、
「日本人が訴訟嫌いだなんて、誰が言ったんだよ(怒)!」
的な思いに駆られることは多い。


いざ会社の側から訴訟を起こすとなると、費用対効果の問題がどうしても出てくるので、それで躊躇することはあっても、いわゆる「和を尊ぶ」文化ゆえに訴訟を見合わせる、という事象は、自分のこれまでの経験の中にないのはもちろん、過去の事例を相当遡って見ても、実際にはそんなに多くない*6


さすがに、親密な取引相手に対しては争いを積極的に仕掛けるという心情にはなりにくいものだが、これは洋の東西を問わず同じことだろうし、それ以外の相手に対しては、訴訟には至らなくとも水面下で苛烈な交渉を行っていた、というのが我が国の企業法務の歴史だといえる*7


フット教授は、慎重な言い回しで、我が国における法意識・法行動様式に「文化的要因」が寄与していることを一概には否定していないのであるが、「文化的要因」が特に働いている例として取り上げられている雇用関連訴訟*8にしても、訴訟率の低さを説明する材料としては、「緊密な人間関係」ゆえの、といった文化的要因より、一般労働者の側の知識不足と専門家へのアクセス困難性*9を持ち出したほうが、すっきり説明できるように思う*10


従来の議論を整理し、補強して、説得的な議論を展開している点において、本書の意義は大きい。


また、後半部分では「裁判所の政策形成」をテーマに、白鳥事件決定や、解雇権濫用法理の形成に至るまでの経緯、交通事故事件の処理に関する裁判所の取り組みの実態などを詳細に紹介し、

「裁判所による政策形成という現象は、日本ではまだ広く認識されていないかもしれない。しかし、それは現実に起こっているのであり、日本の社会に大きな影響を与えてきたのである。」(前掲・290頁)

とまとめている。


この点についても、知財高裁や東京地裁知財部の“意欲”をみれば明らかなように(笑)、近年ではさほど違和感のない考え方だといえようが、本書ではこれまでの多様な事例を適宜整理しつつ、同一の視点から丁寧な分析を加えているがゆえに、なかなか読み応えのある中身になっている*11


面白かったのは事件の統一的取扱いに関する日米の意識差を解説する以下のくだりで、

「合衆国においては、弁護士の数が多いこともあり、人身損害事件の訴訟を少しでも簡素化しようとすると、多数の弁護士の生計を脅かしかねないものと受け取られる。これと対照的に、日本では、訴訟の効率化が弁護士に及ぼす経済的影響は決して小さくないが、弁護士が合衆国よりずっと少ないことを考えると、彼らにとって死活問題とまではいかないようだ。・・・・確かに、こういった経済的要因だけで、日本で交通事故の事件処理の標準化を弁護士会が受け容れ、これに協力した理由をすべて説明できるわけではないだろう。しかしこの経済的要因が、日米の弁護士のかくまで対照的な反応を説明する要因のひとつではないとは考えにくい。」(前掲・270頁)

ここで述べられているような米国の弁護士のような反応が、わが国で見られる日も、そう遠くはないのかなと思ったりもしたのだが・・・*12


いずれにせよ、「日本人は訴訟を好まない」とか、「裁判所は消極的だ」といった議論が、一般論としては説得力を持たなくなっていることは、本書によってもはや明らかにされているように思われる。


メディア等の報道が川島名誉教授時代の発想を長年下敷きにして行われてきたおかげで、今はまだ、『日本人の法意識』に描かれているような「理想的な日本人」像に忠実に振舞おうとしている人々も残存しているのは確かだが*13、ここ数年の大掛かりな司法制度改革と、いずれは定着するであろう脱・『日本人の法意識』的発想は、やがて、この国における法行動様式そのものを変えていくだろう*14


将来的に行動様式が米国のそれに近づいていくのか、それとも我が国独自の新しい方向性が生まれるのかは分からないが、今言えるのは、企業間の法律案件を扱うにしても、一般民事案件を扱うにしても、従来の「常識」にとらわれていると、痛い目にあうことは間違いない、ということで、これからも法に携わるものとしては、それを常に肝に銘じておかねばならないと思うのである。

*1:結びに掛けて若干議論が“暴走”していくきらいはあるのだが・・・。

*2:実際にはそこまで高尚なものではなく、大抵の政治家や“有識者”は、ただのメディア向けパフォーマンスとして“対策”をぶち上げているに過ぎないのだろうが。

*3:内藤朝雄「第2部「構造」−社会の憎悪のメカニズム」114〜150頁。

*4:大体、普通の年寄りは若者を叩くのが生きがいのようなものなのだから、偉い論説委員やその意向を受けた記者であれば、いつの時代も同じようなことを書くに決まっている(笑)。

*5:企業の採用担当者などは、よく「社会人としての心構え」どうこうといったことを強調して、あたかも学生と社会人は違う!ということを主張しがちだが、それらの言説の多くは、単なる権威付けのためのはったりか、合理性のない因習に過ぎず、そもそも壇上で語っている本人自身がそのような「心構え」を持っているか否か疑わしかったりもするのが実態だ(笑)。

*6:訴訟になったときに一番苦労するのは当の法務部門の人間だから、訴訟をしたがる上層部を法務部門が必死に諫める、という構図も稀ではない。

*7:逆に、相手が英米法圏の会社でも、相手方にとって取引のメリットが極めて大きい時には、こちらの少々の契約違反は見逃してくれる(弁護士が間に入らなければ、契約書自体のボリュームも、我が国におけるそれとほとんど変わらないことさえある)。

*8:フット教授は、「制度的諸要因も、・・・間接的ではあるが重要な役割を果たしている」(同上・100-101頁)と指摘しているが。

*9:大企業であれば労働法に熟知した担当者を配置し、注意深く労働者に対する不利益処分を行っている(解雇・懲戒のタイミングや人選など)から、そもそも法的に争いうるインシデント事態が稀少だし、また仮にそのようなインシデントが発生したとしても、会社の側で何が法的に問題になるかを労働者側に丁寧に説明するわけでもないから、労働者自身が相当強い関心を持っていない限り、法的に争おうという発想にはなりにくい。労働者自身が自らの法的地位に関心を持たないことそのものが「文化」だ、と言われればそれまでなのだが・・・。

*10:なお、フット教授は、「長期的雇用制度」の存在を訴訟提起が困難となる大きな要因として挙げているが(110-111頁)、真に長期的雇用保障がなされている会社(一定以上の規模の企業)であれば、そもそも会社の方が労働者に対して慎重に振舞っていたり、労働者が多少の不利益を被ってもリカバーできる仕組みになっていたりすることが多い(あるいは組合が代わりに戦ってくれる)から、訴訟が少ないのは当然のことなのではないかと思う。むしろ、ここでは長期雇用の保障が乏しい中小企業の労働者が訴訟を提起しない要因に焦点を絞った方が良かったのではないか。

*11:一部の事例については、自分が最高裁裁判官に任命されたのを奇貨として、自らの学説を“規範”として確立させてしまうのはいかがなものか、と批判する見方もとりうるように思えるが。

*12:そうなって初めて司法制度改革は成功した、と言えるのだろうが。

*13:内心では裁判所に訴えてやりたい、という思いを抱きつつ、「和を尊ぶのが日本人だよな・・・?」と半信半疑で我慢する人々。

*14:そうなったとしても、それは「日本人が変わった」と嘆くような話ではなく、元々抱いていた発想をストレートに行動に結び付けられるようになった、という意味で、むしろ喜ぶべきことだろう(笑)。

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