特許権の制限は国益に反するのか?

漂流目前だったTPPがギリギリのところで“大筋合意”にこぎつけてしまったことで、政治情勢は輪をかけて不穏な方向に向かっているような気がするし、実務の世界でも余計な仕事が増えて嘆いている人は結構多いように思われるのだが、その一方で、日経紙を筆頭に、肯定的な論陣を張り続けているメディアや知識人も多い。

そして、TPPの大筋合意事項の中でも、特にいろいろと議論が噴出しそうな知財分野に関し、全面的に保護強化の方向性を支持する論稿*1が、2日朝刊の「経済教室」に掲載された。

「特許保護へ国内法整備を」というタイトルが付された相澤英孝・一橋大学教授のこの論稿は、TPPの合意内容を簡潔に紹介するとともに、合わせて特許権の行使をめぐる国際的状況をコンパクトに俯瞰する、という点で、一般読者向けのものとしては、非常に分かりやすいものだと思うのであるが、若干気になるところもある。

特に、わが国の状況に関し、

(TPPの実施のための国内法の)「整備にあたっては、知的財産の保護水準がTPPの最低基準を満たすだけでは十分ではない。権利者を十分に保護していない日本の民法の原則から踏み出し、特許侵害に対して実際の損害額を超える懲罰的賠償を含む追加的損害賠償を認めるなど、将来を見据えた法改正をしていかなければならない。」(日本経済新聞2015年11月2日付朝刊・第17面、強調筆者・以下同じ)

と、学者としては非常に思い切ったご意見を述べられた上で、近年国内でも「特許の制限の必要性」に関する議論が出てきたことに言及し、

日本は権利の制限を議論する状況ではない。いま権利の制限を議論することは、知的財産の保護を制限する政策を採用していると国際的に誤解されるおそれもある。」(同上)

と指摘されているくだりについては、ちょっとびっくりさせられた。

確かに、医薬品の問題を例に挙げるまでもなく、「特許権の取得」という点で後手に回っている新興国と、先進工業国との間の思想的な対立は、かねてから根深いものがあるし、この論稿の中でも紹介されている中国の「独禁法による知的財産の制限」に関する動きの中に、一種の政治的な意図が含まれていることは否定できないことだろう。

ただ、一方で、「強すぎる特許権が、自国の産業振興にとってかえってマイナスとなる」ということは、新興国に限らず、欧米先進国*2においても共通して認識されつつあることでもある。

この論稿では、米国での議論が「『パテントトロール』の弊害」を背景としたもの(で日本には関係ない)と整理されているように読めるのだが、「パテントトロール」の問題が日本国内で起こらない、という保証は全くないし、そういった問題が起きるまで特許保護を強化してよい、という話でもないはずだ*3

また、韓国での議論については、中国と同様に、「恣意的な国内産業保護」の文脈の中に位置づけられているのだが、アップルと特許で互角に渡り合っている企業はどこの国の企業なのか、ということを考えれば、そんな単純な話ではないと自分は思っている*4

相澤教授は、さらに続けて、現在公正取引委員会が公表している「『知的財産の利用に関する独占禁止法上の指針』の一部改正(案)」を取りあげ、

「韓国や中国の競争当局の動向と時期が重なっていることには危惧を感ぜざるを得ない。」
公正取引委員会が、知的財産権の保護の強化という日本政府の方針に反対であると誤解され、新興国による知的財産権の制限を助長するような形で、国際的な影響を与えることは避けなければならない。公正取引委員会は国際的視点を持った基準を策定することが望まれる。」(同上)

とまで述べられている。

ここでいう「国際的視点」というのが、「知的財産の保護を強化して技術革新を続ける日本企業の基盤を醸成する視点」であることは、この論稿全体を通じて読めば明らかなのだが、相澤教授ご自身も認めておられるように、今回公取委が公表した指針の方向性は米国やEUの方向性とも一致しているのであり*5、なぜ日本だけが“独自の国際的視点”を持たなければならないのか、世界中で問題視されている「ホールドアップ」問題*6は日本においては優先されるべき課題ではないのか、等々、突っ込みたくなった読者は決して少なくないことだろう。


もちろん、知財高裁(大合議判決)が、

「控訴人の主張に係る損害賠償の金額は,控訴人がFRAND条件によるライセンス料であると主張する金額に留まること(略)に加えて,FRAND条件によるライセンス料相当額を超える損害賠償請求は原則として権利の濫用となり許されないことを考慮すると,本件全証拠によっても,FRAND条件でのライセンス料相当額の範囲内での損害賠償請求が同法(筆者注:独占禁止法)に違反すると認めるには足らない。」

として、特許法の枠内で処理可能な問題だ、ということを暗に宣言しているにもかかわらず、公取委が踏み込んでガイドラインを出したことについては、“領空侵犯”だと批判する余地もあるだろうし*7ガイドラインの内容の細かい部分についても検証は必要だろう。

ただ、技術的側面から見ても、産業・ビジネス的な側面から見ても、「特許権の保護を強化すればするほど、国際的に優位に立つ」と言えるほど、日本企業はシンプルな立ち位置を確保できているわけではないし、保護と制限の繊細なバランスを、そういった単純な切り口から論じるのも適切ではない、と自分は思っている。


今回取り上げた論稿で示されているような考え方が、今後の政策動向にどこまで反映されるのか、ということについては、何とも言えないところはあるのだが*8、「TPP合意後」にわが国の進むべき道をより冷静に議論するため、権威ある学識者の方々に、分かりやすい“対案”を示していただけることを願ってやまない。



※注でも引用したが、公取委の最近の動きについては、(知的財産ガイドライン以外のものについても)ジュリスト最新号の特集に、極めて個性的、だが、とても分かりやすい解説が多数掲載されているので、参考文献として取り上げておきたい。

*1:といっても、ここで論じられている内容に、何かと評判の悪い「著作権分野」の合意事項は含まれておらず、あくまで「特許分野」を対象とした論稿である、ということは最初にお断りしておきたい。

*2:ドイツだけはちょっと毛色が違うかもしれないが、後はそんなに変わらないはず。

*3:日本でも、“ビジネスモデル特許バブル”のせいで、けしからんトロールもどきの権利者が一時期猛威を奮いそうになった時期はあった。日本の法制度が保守的に作られており、裁判所も特許権者と利用者のバランスに考慮して謙抑的な判断を繰り返し行ってきたおかげで、「パテントトロール」の跳梁跋扈が防がれている、というのが自分の理解である。

*4:元々、制度調和という点に関しては、日本は韓国をかなり意識した政策を行っているのが現状だし、技術や産業の国際競争力という観点からも、今の日本と韓国とで、置かれている環境がそんなに違うとは言えないのではなかろうか。

*5:この点については、ジュリストの最新号に掲載された池田毅弁護士の論稿にうまくまとめられている(池田毅「知的財産ガイドラインの一部改正」ジュリスト1486号29頁以下(2015年))。

*6:しかも、この場面においては、技術があっても駆け引きに弱い日本企業が“被害者”になることも決して少なくない。

*7:この点につき、前掲池田論文は、「独禁法は独自の意義を有」し、大合議判決の射程を超えて「応用範囲は広い」と指摘している(ジュリスト1486号33頁)が、知財畑からの反論は出てきても不思議ではない。

*8:相澤教授をはじめ、政策形成に影響力のある方が似たようなコメントをされているのをしばしば見かけるので、ある程度は取りこまれてくる、ということも覚悟しなければいけないのかもしれない。

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