今年に入ってからAIスピーカーが順調に稼働していることもあって、ここ数か月、ラジオは聞いてもテレビは見ない、ラジオもヘッドラインニュースだけ聞いて後は音楽、という生活になってしまった*1。
元々、10年以上ブログをやっているにもかかわらず、ネットニュースはスポーツネタしか拾わない人間なので、そうなると、すっかり世事に疎くなる*2。
そのせいか、京都の吉田寮周りで立て看板撤去騒動が起きている、ということも、その騒動の元にあるあれこれも、この週末になって初めて知ることとなった。
大学当局が看板撤去を強行し、学生が負けじと反撃の応酬。
環境重視か、表現の場の重視か、等々、大上段に構えたらいろんな議論はできるわけで、無関係の人間から見たら面白いことこの上ないネタなのだが・・・。
自分は世紀末を大学のキャンパスで過ごした人間だから、「立て看」というものとは決して無縁ではなかったし、郷愁的なものがないといえば嘘になる。
ただ、その当時から、主義主張の伝達手段としての「立て看」の存在意義は、むしろ怪しくなっていたような気がする。
なんといっても、作るのに手間がかかり過ぎるのだ。
当時は、いろいろ仕事をしていた関係で、年2回くらいは大量の立て看を作って、構内に配置する、ということをしなければいけなかったのだが、大工仕事的なものがとにかく嫌いな人間にとって、あれは苦痛以外の何ものでもない。
PCのソフトウェアもプリンターも、ようやくまともなものが出始めた時だったから、自分の手で“ゲバ文字”的なものを書く修行はしなくてよくなりつつあったものの、角材を組み立ててベニヤを張って足を付ける、という作業だけはローテクのままで、どうしようもなく無駄な時間だなぁ、と感じたものだった。
今や、主義主張を狭いキャンパスどころか全世界にすらインターネットを通じて発信できる時代である。
プリンターによる印刷コストもかつてとは比較にならないくらい低いものになっているから、どうしても目の前に突き付けたければカラフルのビラの大量刷りで勝負することだってできる*3。
そういう意味で、「立て看」がなくなったところで、困ることなんてほとんどない、というのが実情ではないかと思う。
もちろん、「撤去」を学生自身が決めるのではなくて、学部当局が介入してやる、というのは、本来の大学のあり方としては常軌を逸しているような気がするし、徹底的に抗戦したくなるのは分かるのだけど・・・。
願わくば、さすが京都、と膝を打ちたくなるような完成度の高い落としどころを見つけてほしいな、と思わずにはいられないのである。