今日は「憲法記念日」だから。

ここのところずっと祝日が続いていて、だんだん「今日は何で休みなんだっけ?」ということを考えることすら面倒になってきているのだが、法務系ブログで「憲法記念日」とくれば、やはり反応しないわけにはいかない*1

で、日経紙の特集を読みながら、ここ数日のパターンで「令和の時代の憲法は・・・」みたいなことをゆるゆるコメントしようかと思っていたら、ちょうど、海の向こうから↓のようなニュースが飛び込んできた。

www.nikkei.com

自分は、「憲法」というものが「難しく分かりにくいもの」という印象を世の中に与えているのだとすれば、それは学者が組み立てる理論が難しいからということ以上に、憲法に根差した規範のあてはめが、人それぞれの思想や価値観によって大きく変わってしまう傾向があるからではないか、と思っている。

例えば「表現の自由」一つとっても、日頃から「少数派」とされる人々の権利保護に熱心な方々が、価値観が相いれない別の「少数派」に対しては極めて不寛容な姿勢をあらわにしている例などをよく見かけるわけで、そういった対応を一貫して説明するための理屈がないわけではないのだが、第三者の立場で見ていると、どこで守るものとそうでないものの線引きをしているのか、というのはかなり分かりにくい。

上で取りあげたFacebookの件にしても、「極右思想」だろうが、「反ユダヤ主義」だろうが、それに基づいてSNSで発言するのは本来自由なはずで、仮に発言があまりに攻撃的で特定の集団を誹謗中傷するようなものだった場合には、発言者と発言が向けられた集団の間の問題として整理されることになるのだから、伝統的な発想からすれば、直ちに発言者をプラットフォーム自体から排除すべき、ということにはならないはず。

だが、人権擁護に極めて敏感な市民団体がそれを問題視したことで、一私企業に過ぎないとはいえSNSの世界では超巨大なプラットフォームであるFacebookがこうした思い切った対応に出ることになったのだとしたら、何とも皮肉なことだなぁ。と個人的には思っている*2

で、記事の中にも出てくる「私企業による「発言者」の選別」とか、「投稿ルールやその行使の透明性」を見て思い出したのが、昨年出された↓の本。

AIと憲法

AIと憲法

AIの憲法上の論点が一通り整理されていることに加え、冒頭(「はじめに」)で、山本教授が現在の風潮に対して、

「日本では、AIの予測精度(正確性)や、それがもたらす効率性、経済成長ばかりが強調され、いざ『憲法論』を語ろうものなら『何を青臭いことを言っているのだ』、『そんなことをぐだぐだ言っていると競争に負ける』、『そもそもAIを技術的に理解しているのか』(規制反対論者の常套手段は、『定義』問題を持ち出して議論を麻痺させることである)、『AIを擬人化するな』などと猛攻撃を受けたり、白い目で見られたりするのがお決まりとなっている。AIによる差別ー(略)-の問題などは、『これまでにも世の中には差別があったのだから、AIが実装されたからといって現実は何も変わらない』という理解不能な議論がまかり通り、『とにかく推進を』、というポジティブ・キャンペーンが強力に展開されている。」
「しかし、日本人がある一方向にぐんぐん進んでいって良い結果が得られた試しはない(略)。そうであるなら、今まさに、『個人の尊重』や『民主主義』といった『青臭い』憲法原理に思いを巡らせ、AIが本当に我々一人ひとりを幸せにするのかをじっくり考えてみる必要があるのではないのか。(略)。AIは、うまく実装すれば憲法原理のより良い実現に資する。これはおそらく疑いのないことである。したがってポイントは、経済合理性や効率性の論理だけにとらわれない、憲法と調和的なAI社会の実現にある。」(5~6頁、強調筆者)

と、かなり強烈な警鐘を鳴らしているのに目を取られて思わず購入してしまった本なのだが*3、実際、本書の中身も非常に示唆にとんだものとなっている。

少なくとも、今あちこちで試験的に実装されている「AI」の姿を見ている限り、5年、10年といったスパンでは、本書で描かれているような「何でもかんでもAI」というところまでは到達しない、と自分は高を括っているのであるが、考えようによっては、「技術の進歩が中途半端なところで止まる(が人間の方がその状態のAIに頼ってしまう)」からこそ危ないともいえる。

そして、万が一、山本教授が指摘している「自動化バイアス」「意思決定プロセスのブラックボックス化」といった問題が解決されないまま、前掲記事のような「選別」が完全にAIに委ねられるような時代が到来したとしたら、そこで何が起きるのか、想像しただけで恐ろしい。

今の時点で「AI」に関して、大上段の「憲法」的観点からの議論をするのは、いささか時期尚早な印象もあるのだが、少なくとも、「AI化」前から憲法的観点からの議論が噴き出しているもの(憲法上の人権との抵触可能性があるもの)に関しては、それが解決するまで「完全にAIに代替させることはしない」というスタンスをとる方向で考える方が妥当かな、と思った次第である。


なお、憲法上の規範と、人それぞれの思想・価値観との間にずれが生じるもう一つのパターンとして、「パブリックな場では他人の発言や行動に対してとても寛容な姿勢を見せているのに、自分が所属する狭い部分社会の中ではその寛容さをまるで発揮しない」というのもある*4。これについても、いずれ書きたいことはあるのだが、今回は問題提起だけにしておくこととしたい。

※昨晩アップしたものに、分かりにくい日本語が散見されたので表現微修正しました(5月4日9時50分)。

*1:振り返ると、ブログを開設した頃は、結構真剣に5月3日にリアクションしていたのに(企業法務と憲法 - 企業法務戦士の雑感とか、「憲法記念日」に思う。 - 企業法務戦士の雑感とか。忌野清志郎と表現の自由 - 企業法務戦士の雑感なんてのも書いた)、ここのところ長らくスルーしてしまっていたことに気づき、反省しきりなのではあるが・・・。

*2:自分の場合、FBでもTwitterでも、あまりに思想的に相いれない投稿は極力目に触れないような設定にすることが多いのだが、逆に言えば、それである程度回避できる以上、そういった投稿を物理的にプラットフォームから排除すべき、という発想にはあまり共感できない。

*3:テーマ的に非常にタイムリー、ということもあって、編著者の山本龍彦・慶大教授は、今日も新聞各紙にコメントを掲載されるなど、あちこちで引っ張りだこのようである。

*4:この点については、自分も他人のことは全く言えず、我に返ると反省しか出てこない・・・。

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