続いてもう1件、学術論文の無断翻訳が問題となった事件をご紹介したい。
「自然状態と私的所有権システムの生成」論文無断翻訳事件
東京地判平成19年1月18日(第46部・設楽隆一裁判長)*1。
本件は、『再分配とデモクラシーの政治経済学』所収の「自然状態と私的所有権システムの生成」という論文をめぐって、原告である大学教授Aと、被告である大学教授B及び東洋経済新報社が争っているものである。
東洋経済新報社のサイトに行くと、「お詫びと訂正」が掲載されており、正誤表へのリンクも張られているから、凡そ本件がどのような事案か、ということも想像が付くであろう(笑)*2。
- 作者: 須賀晃一,若田部昌澄,薮下史郎
- 出版社/メーカー: 東洋経済新報社
- 発売日: 2006/03
- メディア: 単行本
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被告Bは、共同著作者である原告Aの承諾を得ることなく、論文の内容を一部省略しつつ、それを日本語に翻訳したものを上記書籍に掲載した、というのであるから、翻案権侵害の責任を負うことは免れない。
この点、被告側は、①「原告は、本件原著の紹介等について、包括的に許諾していた」、②「被告Bが、本件原著を本件学会誌に投稿した際、本件原著の著作権は、翻案権を含めてその一切が本件投稿規程に基づいて本件学会に譲渡された」と主張したのであるが、裁判所は、
①原告が、被告Bに対して、本件原著の紹介等についてその一切を許諾していたことを認めるに足りる証拠はないし、被告Bの行った行為を本件原著の「紹介」と評価することはできない。
②本件投稿規程においては、翻案権が譲渡の対象として特掲されていないから、翻案権は論文執筆者に留保されていると推定され(著作権法61条2項)、本件学会誌の性質上、翻案権まで譲渡していると解すべき合理的理由も存しない。
といずれの主張も退けている。
①については被告自身がセミナー等で報告する際に、「その都度」原告の了承を受けていることを認めてしまっているし、②については、一度学会誌に投稿した論文をベースに別の論文を書く権利まで大学側に譲渡されたと解するのはやはりおかしいから、61条2項の推定を覆す理由はないと言わざるを得ない*3。
また、同一性保持権侵害についても、
「原告が、被告Bに対し、本件原著の紹介について、一切の包括的許諾を与えていたと認めることができない」
「被告Bは、共同著作者である原告の意思に反し、本件原著の内容の一部(証明等の事項)を省略しつつ、日本語に翻訳して本件論文を作成したのであるから、かかる目的の存在が、当該改変行為を正当化できるものではない」
「本件論文には、本件原著の紹介を目的としていることが明記されておらず、本件論文において、本件原著は21本の参考文献の一つとして、参考文献一覧の15番目に記載されているにすぎないこと(甲2参照)、本件論文が本件原著に「基づいている」こと、証明等について本件原著を参照してほしい旨が記載されているにすぎないことからすると、かかる記載によって、本件論文が本件原著の紹介目的で執筆されたものであることを意味するということすら認めることができない」(以上24頁)
と被告側の主張を退けているし*4、同様の論拠によって氏名表示権侵害も退けている。
被告・東洋経済新報社に対する請求の当否
以上のように、被告Bの著作権侵害が認定されたことにより、被告B及び被告東洋経済に対する論文・書籍の発行、販売、贈与、頒布行為の差止請求が認められた(在庫分に対する廃棄請求も認められている)*5。
であったことから、新聞の全国版への謝罪広告の掲載は「過大な請求」として退けられ*6、その他通知等についても原告の請求は認められなかったものの、出版社にとっては迷惑な話であることに変わりはない。
一方、損害賠償については、
を原告側も争わなかった、というのが本件の特徴となっており、この点については角川書店の件とは異なっている。
この種の書籍は、出版社側の採算を度外視した一種のサービスで行っていることも多いのだろうし、原告も“物書き”の先生だけに、出版社には遠慮したのかもしれない*7。
だが、出版社にとって見れば、正誤表の作成だのその他諸々の対応だので、認容された損害賠償(本件では被告Bに対し50万円の支払が命じられている)の額よりも遥かに高いコストを押し付けられている上に、このまま判決が確定すれば在庫の廃棄等、更に過大な損失を被ることになるのだから、そうそう手放しで喜ぶわけにもいくまい。
著作権侵害は確かに誉められた話ではないが、そうでなくても厳しい出版界、特に学術系図書の世界だけに、もう少し巧い解決方法はないのだろうか・・・と思えてならない。
*1:H18(ワ)第10367号・http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20070119102041.pdf
*2:http://www.toyokeizai.co.jp/pub/teisei/32361-3.pdf
*3:もしかすると「黙示の許諾」が認められる余地もあるのかもしれないが、同一性保持権侵害に関して認定されている被告Bの利用態様を見る限り、結局は許諾の範囲外と言わざるを得ないだろう。
*4:裁判所はさらに「著作者の承諾を得ない翻訳については、英語の表現形式を日本語に変更するものであるから、同一性保持権の侵害にもなる」(24-25頁)と述べているが、このような「改変」はむしろ「やむを得ない改変」(20条2項4号)として処理すべきであり(田村善之『著作権法概説〔第2版〕』448頁(有斐閣、2001年))、一部省略等により十分に同一性保持権侵害が成立する本件においては、蛇足的判示というほかない。
*5:一方で、書籍の回収及び回収分の廃棄請求については否定されている。
*6:COEプログラムって、そんなにマイナーな存在なのだろうか・・・(笑)。
*7:原告側は、代わりに「著作権侵害等についての通知後に、被告東洋経済が更に本件書籍を販売した行為」、及び「原告が被告東洋経済との交渉において求めた対応措置を被告東洋経済が行わなかった不作為」を被告東洋経済の不法行為と主張したが、それも裁判所によって退けられている。