こんな時だからこそ絶対に読んでおきたい一冊。

本来ならオリンピック開幕ウィークだった、ということくらいは知っていたものの、昨日今日が何の祝日なのかよくよく確かめもしないまま長期連休に突入し、日本中で花火が打ちあがる、というニュースに接して、ようやく

「そうか、本当なら今日が開会式になるはずだったのか・・・」

ということに気づいた2020年7月24日。

いろんな意味で、後にも先にも、どこの国の人もそうは経験できないような稀少価値のある経験をしているんだ、と開き直ってしまえば、風前の灯のホスト国の国民としても少しは心が落ち着く(?)のかもしれないが、まぁ、1年前に、日本中がこんな形でこの長い連休を消化することになろうとは、半年前ですら誰も想像していなかったのは確かで、「あと1年」とか、いろんな掛け声が飛び交うのを聞けば聞くほど、こみ上げる切なさはある。

で、そんな中、この記念すべき「開会式をやるはずだった日」に、前々から(確か今年の初めくらいには入手していたはず・・・)読もう読もうと思っていた話題作にようやく目を通すことができた。

既に新聞の書評等でも取り上げられ、人気を博している本とはいえ、週刊誌の見出しを彷彿させるような刺激的なタイトル、そして、さらに刺激的な市松模様の表紙・・・ということもあって、品行方正な法務、知財担当者の中には、この本の存在は知っていても敬遠している、とか、後回しにしてまだ目を通していない、という方も結構いらっしゃるのかもしれない。

だが、自分はストレートな問題提起で始まる「まえがき」と、軽快なタッチながら詳細に現世の病理現象を描いていく第1章を読んだ時から本書の虜になった。

そして、最後まで読み終えた今思うのは、本書は「オリンピックをめぐって今生じている問題」を深く掘り下げようと思う方にとってはもちろんのこと、現代の世における商標法、著作権法不正競争防止法から各種パブリシティのライセンスに至るまで、様々な創作・表現活動へのコントロールの在り方を考える上でも必読の書、であり、さらに、知財の世界を離れて、実務者が世にはびこる「暗黙のルール」への向き合い方を考える上でも大いに示唆を与えてくれる書、だということである。

このエントリーの限られた字数の中で本書の魅力を伝えきることなど到底できないので、賢明な読者の皆様には、ここはさっさと流し読みして本書を早々に入手していただき、今年の”仮想オリ・パラ期間”が終わるくらいまでにはガッツリ読んでいただくのが良いと思っているところではあるが、以下、それでもまだ迷っている?という方々のために、自分が特に「ここは凄い」と思ったところを断片的に書き残しておくこととしたい。

徹底的に練られた構成と豊富な事例

本書は大きく分けて6つの章から構成されているのだが、全体を通じて、メッセージを説得的に伝えるために、”起・承・転・結”のストーリーが非常に工夫されているな、というのが自分の印象である。さらに、時には「一体こんなネタどこで見つけてきたんだ?」と突っ込みを入れたくなるような豊富な事例の数々が、本書に込められたメッセージを「上滑った主張」ではなく、地に足のついたものにしているように思われる。

冒頭で五輪をめぐるいわゆる「アンブッシュ・マーケティング」の長い歴史をふんだんに紹介した上で、五輪組織委の資料等も引用しつつ「規制する側の事情」に触れ*1、「知的財産権でオリンピック資産を独占できるか?」という法的見地からの考察を一通り行った上で、IOC、各国組織委の動きがいかにそれを超えたものか、ということを論証していくプロセスは、実に見事というほかない*2

そして、その過程には、手作りのオリンピック・シンボルのディスプレイを掲げていた英国の小さな花屋の悲劇や、「5つの輪」があるだけでロゴマークを変えさせられてしまったゲーム会社の話など、その途中には、本書の著者ならずとも「おいおい」と突っ込みたくなるような話が随所に織り交ぜられる。

メッセージ性の強い書籍だけに、引用されている事例も当然本書のストーリーを補強するものが選び抜かれているのだろう、ということは、心に留めておく必要はあるだろうが、日本国内に限らず海外のネタ(新聞、雑誌記事のみならず判例まで・・・)まで世界中からかき集めたかと思えば、時代をさかのぼって1960年代の日本の雑誌報道まで追いかけて丁寧に引用する著者の”執念”は、多少のバイアスも気にせずに一気に読み進めたくなってしまう、という本書の魅力につながっているような気がする*3

飽きさせない軽妙な筆致

もう一つ、本書の優れたところを挙げるならば、本来はかなり難易度の高いテーマであるにもかかわらず、それを感じさせないコミカルタッチな比喩等が散りばめられているところだろう。

たとえば、ある会社が広告の中でIOC創立記念日(オリンピック・デー)に言及したら「IOCと関係のある団体と誤認されるおそれがある」と警告を受けた事例を取り上げ、

IOCの創立日が6月23日であるという歴史的事実を文章で説明すると、その説明主体について『IOCと関係がある団体なんだな』と誤認する人が果たしているだろうか。『6月23日は芦田愛菜の誕生日です』といったら『えっ、知り合いなの?紹介して!』とつかみかかって来られるようなものである。」(165頁、強調筆者、以下同じ。)

と突っ込んでみたり、1928年アムステルダム大会の公式ポスターの著作権譲渡を拒否されたIOCが別のデザイン(しかもドイツ語で書かれたもの)を「公式ポスター」に差し替えた、というエキセントリックな事例によりエキセントリックな比喩を付け足してみたり・・・*4、と、随所に書き手の遊び心が顕われている。

もちろん、五輪のキャッチフレーズが商標法上保護されるか、や、五輪シンボルマークが著作権法上保護されるか、といったくだりの解説となると、専門的見地からの議論にも十分耐えうるレベルでかなりしっかり書かれている、というのが本書のもう一方の魅力でもあり、本書を読み終えた時、そういった専門的視点からの的確な解説と、読み物としての面白さの演出のバランスが実によく取れているな、と思わずにはいられなかった。

「これからの五輪までの日々」の文脈でも、それ以外の文脈でも・・・。

以上、本書の魅力を細かく挙げていけばキリがないのだが、「なぜ今読むべきなのか?」という問いに対しては、自分があれこれ説明するよりも、次の2つの引用箇所に触れていただくことこそが、もっとも分かりやすい答えになるような気がする。

一つは「行き過ぎたアンブッシュ規制」に対して、いくつもの問題点を指摘した上で著者が記された言葉。

「オリンピック組織が、大会の規模を維持する目的で、アンフェアに自己の利益を追求し続けることは、倫理規範の尊重を謳ったオリンピック理念を否定する行為である。こうした行為がこれからも続けば、大会の規模は維持できたとしても、やがて誰もオリンピックにフェアプレー精神を感じることはできなくなり、平等な社会を投影できなくなるだろう。そうなれば、市民のオリンピックに対する忠誠心も希薄になっていくはずだ。それはオリンピックのブランド価値を減じ、オリンピック・ムーブメントを破壊することと等しい。そうなったら、とても悲しく、不幸なことだと思うのだ。」(197頁)

この章でオリンピック組織側のスタンスと合わせて批判の対象となっている「開催決定以降の実務サイドの『自粛』の動き」に関しては、自分自身、少なくとも2013年の開催決定直後の段階では、(現場を見てきた実務家だからこそ)”空気を読む”ことを否定する気にはなれなかったのも確かだから*5、本文で書かれていることに対しては少々複雑な思いで読んでいたところもあったのだが、前記引用したくだりに関しては、まさに至言というほかない。

何よりも、昨年以来続いているIOCと開催国との綱引きの中で、この「自己の利益の追求」の弊害が随所に見られるようになっており、さらに今後も、「開催中止」が正式に決まりデモしない限り、あと一年は同じような状況が続くことが見えてしまっているだけに、この結論に至るまでの本書での緻密な検証にはしっかり触れておくに越したことはない、と自分は思っている。

さらに第6章、最後の最後で著者が記されている言葉も、熱く、重みのあるものである。

一部の利益追求者は、自己の過度な利益追求に正当性を与えんがために、都合の良いように意図的に捻じ曲げた(あるいは曖昧にぼかした)法律解釈を喧伝したり、自分で勝手につくったルールを法律であるかのように振りかざしたり、自己の利益追求があたかも社会の共通利益に資するかのように装ったりすることがある。あまつさえ、自己の利益追求に法的な正当性を与えるための立法まで画策することもある。これは法律や社会通念の悪用といってもいい。そうすることで、他者の自由を制限することに対する罪悪感を減じ、他者にもたらす不利益にますます無自覚になっていくのだ。」(293頁)

直接は「過剰なアンブッシュマーケティング規制」に向けられた言葉だが、著者ご自身もこれに続けて述べられているように、これは「世の中のあらゆる場面で見受けられる機会が増えている」ことでもある。

著者の友利氏は、同時に、”受ける側”に対しても、道理を見極めずに行われる事なかれ主義的な「自粛」ではなく、「道理を踏まえたうえで判断する『分別』」を行動原理として物事に向き合うべき(291~292頁参照)と説かれており、前記引用箇所はそういった考え方とセットで理解されるべきものだと思うが、ともすれば今は、まさに根拠も、道理もない「自粛」が日々の行動すら縛ってしまう状況に陥りがちなだけに、実務家の視点でこういった考え方を明確に打ち出すことはとても大事だし、本書の著者がいかにして上記のような結論を導き出しているのか、ということを知るためにも、本書にきちんと目を通す意義はあるのではないか、と思うところである。

最後に一言。

ということで一通りご紹介してきたが、本書が刊行された2018年11月から、世の中も、オリンピックを取り巻く環境も大きく動いているのは、改めて申し上げるまでもないだろう。

ついこの前までは、(それがどこまで法で保護されるものなのかはともかく)「世界最大のスポーツイベント」としてのブランド価値があることは疑いようもなかった「五輪」は、長引く新型コロナ禍と、それが課したさらなる負担により、開催国やそこでスポンサーとなるはずだった事業者たちにとって、全く異なる意味合いのものになりつつある。

仮に、予定どおり来年五輪を挙行するのだとしても、スポンサーの離脱や、意図的サボタージュ等が起きることが優に想像できる状況の中で、これまでのような「囲い込み型利益分配」の仕組みが機能する可能性は極めて低い

そうなった時に、目指すべき形はどこにあるか?

個人的には、本当に来年五輪をやろうと思うなら、本書の第6章で描かれた、「資金難に苦しみながらもブランドの広範な活用で乗り切った1964年の東京五輪」の経験に立ち返るしかないと考えるし、実利を優先した60年近く前の発想がここでまた蘇ることがあるとしたら、まだまだ日本社会の柔軟性は捨てたものではないな、と思うところ。

そして、そういった点も含めて本書を活用できる場面はいくらでもあるような気がするので、今は少しでも多くの方に本書を手に取っていただき、目を通していただくことを願うばかりである。

*1:この第2章で描かれている規制する側の「動機」と、「IOCが一民間組織に過ぎない」という事実が本書の最後の最後まで効いてくることになる。

*2:章の間に挟まれるコラムも、一見”閑話休題”的なトーンで書かれていながら、実に効果的に本筋の説得力を増すツールになっているような気がする。

*3:なお、このテーマに関しては、自分も過去にそれなりに調べて対策を練っていたつもりではあったのだが、五輪の長い歴史をくまなくフォローしている本書の前では、そんな付け焼刃の知識がいかに断片的なものに過ぎなかったか、ということを痛感させられた次第である。

*4:この事例自体、吹き出しそうになるくらいのトンデモエピソードなのだが、個人的にはその次の喩えで笑いが止まらなくなった。

*5:“知的財産”というマジックワード〜“五輪”イメージ商法をめぐって。 - 企業法務戦士の雑感 ~Season2~参照。ちなみに、その後,より密に一民間団体のルールに縛られる、という苦い経験を経て、堪忍袋の緒が切れかけた時に書いたのが今こそ「プッシュ・アンブッシュ!」と叫ぶとき。 - 企業法務戦士の雑感 ~Season2~の記事である。この4年半の間に何があったのか、勘の良い読者の方ならお察しいただけるはずである・・・。

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