夏とともに過ぎていったものと、残されたもの。

9月5日、午後10時過ぎ。新国立競技場の聖火台の火が消え、「3年後パリで会いましょう」という言葉とともに、パラリンピックも閉幕を迎えた。

思えば、2013年、朝起きてニュースを見て目を疑った悪夢のような”歓喜*1からちょうど8年、多くの人々を翻弄し、中には人生を狂わされた人までいたんじゃないか*2、と思うくらいの強烈なインパクトを与え続けてきた”オリ・パラ”、”TOKYO2020”というイベントが、これで名実ともに終わりを迎えることになる。

そうでなくても様々な感情が渦巻く大イベント、ましてやこの新型コロナ禍の下では様々な評価があることは重々承知だが、それでもあえて言うならば、パラリンピックだけはやって良かった、というのが率直な感想である。

世界が絶賛した開会式*3に続いて、閉会式の演出にも唸らされるところは多々あったのだが、これらのセレモニーが終始一貫して発信し続けていた”Diversity”のコンセプトに説得力が感じられたのも、その間に行われた競技それ自体と、躍動するパラアスリートたちの姿がまさにそのコンセプトを体現していたからに他ならない。

ハイポインターとローポインターが混在する競技で、それぞれが持ち味を生かすことによって発揮されるコンビネーションの美しさ。
義足や車いすの助けを借りることで引き出される力もあれば、健常者が少し手を添えるだけで引き出される力もある。
そして、競技としての面白さを維持しつつ、競技者間のハンディキャップを減らし、均等な機会を与えるために考え抜かれたルール。

日頃SDGsとか共生社会とか、頭では叩きこまれていても、日常的にはピンと来ていないところも多い世の人々(もちろん自分もこのカテゴリーに入る)に対して、「15%」を代表するアスリートたちは、語らずとも実に雄弁に、Inclusiveの意味を教え、Diversityの尊さを示してくれた。

もちろん、オリンピックにだって、「平和の祭典」という大義はあって、それは開会式のIOC会長のスピーチ等にも盛り込まれていたとは思うのだけれど、進み過ぎた商業化の帰結として、どんな競技でもプロ化が進み、「結果」にばかりフォーカスされるようになってしまっている今の姿から、本来のメッセージを読み解くのはかなり難しくなっている。

そもそも「争って」勝ち負けの決着を付ける、という競技会、しかも国別対抗戦の様相を呈している大イベントの場は、元々「世界平和」というコンセプトとは本質的に相いれない性格を帯びているわけで*4IOC会長が長いスピーチの中で高邁な理想を語れば語るほど、鼻白むムードは当然出てくる。

これに対し、パラリンピックには、そんな矛盾も背伸び感も存在しない。

「より磨き上げた技術で高みに到達したい」という動機から、「自分たちがここまでできることを知ってほしい」、「パラスポーツの魅力を知ってほしい」といった動機まで、パラアスリートたちが語る言葉の中にも、様々な思いは入り混じっているが、そういったものを全て「大会のコンセプト」として集約しているのが今のパラリンピックなわけで、だからこそ、見る側も、五輪に比べれば、相対的に「なぜこのイベントを今やるのか?」というモヤモヤ感を抱かずに最後まで過ごすことができたのだろう、と思っている*5


自分くらいの歳のものにとっては、既に五輪のあれこれが遠い記憶になりつつあるのと同じように、何日か経てば、パラリンピックを通じて感じたあれこれの記憶も薄れ、「SDGs」の言葉だけが躍る世界に逆戻りしてしまう可能性は高い。

ただ、それでも、この世界規模の大会が4年に一度繰り返されるたびに、刻み込まれるものはあるし、人々に思い出させることもある。

もしかしたら、今の世の中の大きな流れの中で、3年後のパリの頃には、より社会の共生が進みパラスポーツもより身近なものになっている可能性はあるのだが*6、仮にそうならなかったとしても、ホスト国として数日間(遡ればこの数年間)、パラアスリートたちの多くの情報に触れ、何かしらか考えるきっかけを得た、ということは、この国の未来にとって、決して小さなことではなかったはず。

おそらく、これからは”オリ・パラの総決算”ということで、財政補填の話を筆頭に「負の遺産」をめぐる景気の悪い話が山ほど出てくるだろうが、そんな大会でも世の中の、目には見えないところに残してくれたものはきっとあったはずだから、今はそんなポジティブな何かがいつか花咲くことを信じて、暫しの間、「都民の冬」をしのげれば、と思っている。

*1:今でこそ他人事だから、まぁ純粋に味わえるものは味わえばよいではないか、なんてことも言ってしまうのだが、当時はあの瞬間から様々なものが降りかかってくることが火を見るより明らかだったので、当時の都知事破顔一笑はまさに「悲劇」でしかなかった。

*2:一ミュージシャン、一演出家から、都知事、そして一国の宰相まで・・・。

*3:全てを超えたメッセージ。 - 企業法務戦士の雑感 ~Season2~参照。

*4:もちろん「これはあくまでスポーツとしての勝負であって血を流す戦争ではない。」という理屈はあるにしても、いざ勝負の舞台となればそこにあるのは「戦」の縮図に他ならず、選手たち以上に応援する側、報道する側がその構図に加担している側面もある。そして、「そもそも平和だからこそ、こういう祭典が行えるのだ。」という、これまではそれなりの説得力を持っていたロジックも、このコロナ禍下においては、残念ながら全く説得力を持つものにはならなかった気がする。

*5:この辺は、五輪の時にメジャー競技よりもマイナーな”五輪でこそ”の競技の方にどうしても目が向いた、ということとも共通する感覚なのかもしれない。

*6:むしろ、今心配すべきは、SDGsダイバーシティの看板にひかれて多くの企業がこの分野に飛びついた結果、過度に商業化が進んで当初のコンセプトから外れたものになってしまうことなのかもしれない。

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