波乱の秋が幕を開け。

様々な地殻変動が起きる中、今年も冬、春、夏と乗り切ってきた中央競馬

秋になればさすがに・・・とばかりに、中央開催に戻った最初の週、3つの重賞全てを1番人気馬が勝った*1のを見た時は、「今年もいつもの秋競馬か」と思いかけたのだが、JRAアニバーサリーの三連休開催を挟んで3週目、いわゆるGⅠトライアルの最初のヤマに来たところで、再び今年ならではの波乱。

そもそも、この季節にしてはやたら雨に祟られている今年の9月、土曜日の中山、緩んだダートの不良馬場で、「時計が故障したか?」と見まがうようなタイム(ダート1800㎡でキヨヒダカの不滅のレコードタイムに0秒7差まで迫る1分49秒2)が出た時点で、何かが歪み始めていた。

勢いがピタリと止まってしまった今村聖奈騎手が今週も足踏みする中、土曜日に連勝を決めたのは同じく新人の角田大河騎手。
さらに日曜日は中山で、今季絶好調の19年目、丹内祐次騎手が1レース目から3連勝を飾る*2

そして極めつけは日曜日の東西のメイン重賞

上がり馬が大駆けすることも多いセントライト記念とは異なり、近年はダービーに出走したような実績馬が順当に上位を占めていた神戸新聞杯で、勝ち馬こそダービー9着のジャスティンパレスだったものの、2着、3着に前走2勝クラスの馬たち(ヤマニンゼスト、ボルドグフーシュ)が飛び込んできた、というのはかなりの衝撃だったし、古馬の方も、伝統のオールカマーで、重賞実績のあるデアリングタクト、ソーヴァリアント、ヴェルトライゼンデといった上位人気馬が全て吹っ飛び、代わってヴェルトライゼンデと同じサンデーレーシングの勝負服ながらそれまで重賞で今ひとつ勝ち切れていなかったジェラルディーナがあっさり勝利する、という波乱。続いて飛び込んだのがいずれも非社台・ノーザン系のロバートソンキー、ウインキートスだから、これまた”下克上的波乱”の様相を呈している。

もちろん、この先「毎週GⅠ」の時期にまで進んでいけば、「やっぱり収まるべきところに収まったか」という感想に結局戻ってしまう可能性はあるのだが、個人的にはまだまだ今年いっぱい一波乱も二波乱も起きそうだな、ということを半ば期待しながら見ているところもあって、なかなか悩ましい。

来週の中山コースでの秋のGⅠ第一弾で何が起きるか、さらにその翌週からの東京/阪神開催で何が起きるか・・・。

面白がってばかりだと怒られてしまいそうだけど、いつになく新しい風が吹き込んでいる状況だけに、それがもたらす変化を楽しみながら、当面ゆっくり眺めていければな、と思っているところである。

*1:しかも内2勝はお約束のノーザンファームでもう1勝は社台ファーム

*2:この週末4勝で星が並んでいた武豊騎手を突き放し、これで堂々のリーディングベスト10入りである。

情報提供サイト上での商標使用をめぐる”紙一重”の判断。

諸般の事情で、今年に入ってから商標法26条1項各号周りの判例、文献を調べる機会がやたら多くなっているのだが、最近アップされた裁判例の中にも、商標法26条1項6号をめぐって興味深い判断が示されている事例を見つけたので、備忘代わりに挙げておくことにする。

最初に見た時は、なんでこれで事件になってしまったんだ・・・という印象すら抱いた事件だったが、争われているサイトでの商標の使い方をよくよく見ると、逆にこの結論で良いのだろうか・・・という疑問も浮かび上がってくる事件である。

大阪地判令和4年9月12日(令和3年(ワ)6974号)*1

原告:株式会社トーリン
被告:株式会社エス・エム・エス

原告は「セレモニートーリン」の名称で葬儀場を運営する会社。
被告はインターネットを活用した情報提供サービス業等を目的とする株式会社であり、「安心葬儀」という名称のウェブサイト上で、「葬儀希望者が選択した地域に応じて、その条件に見合った葬儀社ないし葬儀場(以下「葬儀社等」という。)を一覧表示して情報提供することにより、葬儀希望者と葬儀社等とのマッチング支援を行うサービス(以下「被告役務」という。)」を提供していることが、前提事実として認定されている。

本件では、被告が、本件ウェブページを表示するためのhtmlファイルのタイトルタグ及び記述メタタグに原告の登録商標である「セレモニートーリン」を含む記載をすることで、検索サイト(Yahoo!)で「セレモニートーリン」とキーワード検索した際の検索結果等に(本件ウェブページに関する検索結果として)原告登録商標と同一の標章を含む内容を表示させる等したことに原告の商標権の効力が及ぶかどうかが争点となっており、原告の請求も、

「被告は、そのウェブサイト(https<以下略>。以下「本件ウェブページ」という。)のhtmlファイルの<meta name="description" content=">及び<title>から、別紙被告標章目録記載の標章(以下「被告標章」という。)を削除せよ。 」(強調筆者)

と、メタタグにおける商標の削除を求めるものとなっている*2

判決文の中で、「前提事実」の項に記載されていることからも明らかなように、ここでは、被告のウェブページのhtmlファイルのタイトルタグ、記述メタタグに「セレモニートーリン」という標章を含む記載がされていること自体は争われていない。

ただ、被告自身は、単なる情報提供サービス事業者であって、葬儀会館の運営等の葬儀業自体を行っているわけではないこと、そして、今の時代、グルメの世界から病院、はたまた法律事務所の紹介に至るまで、似たようなサイトが至るところにあふれていることを考えると、被告が原告のサービスを紹介する目的でメタタグ等に原告商標を含めたからといってそれを商標権侵害だといって争うのはちょっとどうかな・・・というのが、自分の最初の感覚だった。

ところが、判決文にも添付されている実際のメタタグの記載や、「セレモニートーリン」で検索して出てくる被告ウェブサイトのページを見ると、そこまで単純な話でもないように思えてくる。

まず、記述メタタグの記載は、以下のようなもの。

(判決PDF・別紙2、強調筆者)

「セレモニートーリン」の紹介ページであることを示すための表示であることは間違いないが、その後に切れ目なく続くのは、紹介先の葬儀社とは必ずしも関係しない被告の葬儀社の見積・紹介サービスの記載。

そしてその構図はウェブページ上でも同じで、紹介先である原告のざっくりとした特徴や地図、情報一覧や口コミレビューの掲載こそあるものの、ページの後ろの方に行くと、被告独自の見積・紹介サービスの案内が始まり、さらに「近くにある他の斎場」大阪府で経験・実績の多い葬儀社」、他の葬儀社の「葬儀事例」等々、原告にしてみれば腹立たしいコンテンツへのリンクが続く*3

こういった状況を踏まえると、以下のような原告の主張にも腹落ちするところは多い。

「原告は、被告が、安心葬儀において、被告役務を提供していることを争うものではないが、少なくとも本件ウェブページにおいては、被告が葬儀希望者と葬儀社等とのマッチング支援をするサービスを提供しているとはいえない。すなわち、被告は、本件ウェブページに本件葬儀場の情報を記載しつつ、一方で、「安心葬儀/葬儀相談コールセンター(無料)<省略>」との記載を際立たせて表示し、葬儀を希望する需要者をして、安心葬儀の電話番号である「<省略>」に架電させ、葬儀の執行をさせようとしているところ、かかる被告の行為は、葬儀を希望する需要者と、本件サービスサイトへの掲載や提携に応じた葬儀場とを直結させ、需要者による葬儀の執行に至るまでの一プロセスを担うものであるから、葬儀の執行を行う葬儀場と同一の業務と評価することができる。 したがって、被告役務は、本件商標権の指定役務である葬儀の執行と同一又は類似である。 」(判決PDF5頁、強調筆者)

もちろん、仮に被告が原告の「競合事業者」に当たると評価されるとしても、被告による原告商標の使用が常に商標権侵害にあたる、ということにはならず、商標の本質的機能とされる出所表示機能が害されず需要者に出所の誤認混同が生じない限り、「商標的使用」に当たらないから違法性は認められない、というのは、商標法に26条1項6号が設けられる以前からこの国に長く定着した法理でもある。

本件訴訟においても、裁判所は、以下のとおり、かなり丁寧な説示で、被告の使用態様が商標法26条1項6号に該当し、原告の商標権の効力が及ばない(結論としては請求棄却)という結論を導いている。

「本件サービスサイトは、その構成において、需要者である葬儀希望者に対し、その条件に見合った葬儀社等の情報提供を行い、また希望者には葬儀の依頼や相談、一括見積を行うことなどを通して、葬儀希望者と葬儀社等とのマッチング支援を行うサービス(被告役務)を提供するものであることが容易に看取できる。 そして、本件ウェブページは、これを単独でみても、そのドメインや本件ウェブページのタイトル部分や末尾の「安心葬儀」等の表示、競合し得る近隣の斎場等の情報も表示されることに加え、本件葬儀場の情報については、ホールの外観、特徴や所在地、アクセス方法、設備情報等の客観的な情報が記載されているにとどまり、これを超えて本件葬儀場の利用を誘引するような記載はみられないこと等の事情からすると、本件ウェブページに接した需要者は、「セレモニートーリン」を、葬儀場を紹介するという本件サービスサイトにおいて紹介される一葬儀社(場)として認識するものであり、原告が本件葬儀場において提供する商品ないし役務に関し、被告がその主体であると認識することはないものというべきである(本件ウェブページを含め、本件サービスサイトの運営者が原告であると認識することがないことも同様である。)。さらに、原告が問題とする本件ウェブページのhtmlファイル中のタイトルタグ及び記述メタタグに記載された内容は、検索サイトYahoo!において「セレモニートーリン」をキーワードとして検索した際の検索結果において基本的に各タグに記載されたとおり表示されると認めることができるが、その内容は、いずれも本件サービスサイトの名称が明記された見出し及び説明文と相まって、原告の運営するウェブサイトとは異なることが容易に分かるものと評価できる上、一般に、検索サイトの利用者、とりわけ現に葬儀の依頼を検討するような需要者は、検索結果だけを参照するのではなく、検索結果の見出しに貼られたリンクを辿って目的の情報に到達するのが通常であると考えられるところ、需要者がそのように本件ウェブページに遷移した場合には、前記のとおり、被告が運営する本件サービスサイトの一部として本件ウェブページを理解するのであって、やはり、被告標章を本件ウェブページの各タグ内で使用することによって、原告と被告の提供する商品または役務に関し出所の混同が生じることはないというべきである。したがって、被告による被告標章の使用は、商標法26条1項6号の規定により、本件商標権の効力が及ばないというべきである。」(判決PDF10~11頁、強調筆者)

確かに、被告のウェブページにおける原告斎場の記載は、”勝手情報提供サイト”特有の薄い記述にとどまっているから、原告自身が運営する「公式」ページと見比べれば、到底似ても似つかぬものであることは間違いなく、この点、「被告は、本件ウェブページの見出しやその説明文において被告標章を表示させ、需要者をして本件ウェブページにアクセスするよう誘引し、本件ウェブページにおいて本件葬儀場の建物の写真や情報を表示させることで、需要者をして、本件ウェブページが原告ないし本件葬儀場のウェブページであると誤認させ、出所の混同を生じさせている。 」(判決PDF6~7頁)という原告の主張にも、いささか無理があることは否定できない。

だが、Googleで検索すれば「公式」サイトの次に登場し、Yahoo!検索だとゴチャゴチャした広告の後に「公式」サイトとフラットに並ぶような形で見出しが登場するのが被告運営のウェブページだけに、「公式」サイトを見ることなく、そこにいきなり飛び込んでくる閲覧者も決して少なくないのでは? というのが自分の印象で、加えて、日頃からこの手のサイトに馴染みがない閲覧者も決して少なくないことを考えると*4、「原告の運営するウェブサイトとは異なることが容易に分かる」とまで言い切ることは躊躇せざるを得ない。

そして、「セレモニートーリンの近くにある他の斎場」といったような、明らかに当該ページの”主役”とは異なる斎場を紹介していることがわかるリンクならともかく、大阪府の火葬式の葬儀事例」大阪府家族葬の葬儀事例」といった見出しでのリンクや、大きく表示された被告のフリーダイヤルの電話番号は、ともすれば、「セレモニートーリン」を探しに来たはずの需要者を、気付かぬうちに原告とは全く関係ない葬祭場との契約に連れ去ってしまう可能性も十分秘めているように思える。

裁判所は、原告の主張に応答する形で、被告ウェブページの”自社サービスへの巧妙な誘導”の違法性も否定している*5

「原告の主張は、要するに、原告を紹介する本件ウェブページに被告の電話番号等が表示されることにより、原告が、その潜在的需要を失う不利益を被っていることをいうものと解されるが、そのような結果が仮に生じているとしても、前記認定に係る本件サービスサイトの性質及び本件ウェブページの記載(なお、反対にこれを参照して原告に依頼する需要者も在り得ると考えられる。)からすると自由競争の範囲内のものというべきである。原告の前記主張は採用の限りでない。 」(判決PDF11~12頁、強調筆者)

だが、「Yahoo!ロコ」のような単純なエリア紹介ページとは明らかに異なる、特定の事業者への検索ニーズを利用した商業サイトを、常に「自由競争の範囲内」と言い切れる自信は自分にはない

冒頭でもふれたとおり、この種の(勝手)情報提供サイト、口コミサイト、比較サイトの類は、あらゆる分野でネット上にあふれており、そこでは、紹介する施設等の名称その他の標章を使うことも当然のように行われている*6から、それがいちいち商標権侵害で争われるようなことになったら大変、という価値判断はどこかで働いたのかもしれない*7

ただ、一般論としてはそれで良くても、個々のサイトを細かく見ていけば、どこかで「地雷」が爆発する可能性はあるし、特に他人のビジネスを取り込んで、自分たちが独自のビジネスを展開しているような場合はなおさら注意を要する場面も出てくるのではないかな、と思った次第。

本件が高裁まで争われるのかどうかは分からないが、過去に当ブログで取り上げた「商標的使用が争われた事例」と同様、本件も商標の機能について考える上での好素材だと思われるだけに、今回の地裁判決の結論だけを過度に一般化することなく、今一度冷静に世の使われ方を眺めてみることとしたい。

*1:第26民事部・ 松阿彌隆裁判長、 https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/411/091411_hanrei.pdf

*2:この他に損害賠償請求として540万円の支払いを請求している。

*3:本件で争われたものと思われる、セレモニートーリン(大阪府)の斎場詳細 | 安心葬儀のウェブページ参照。

*4:特に「葬儀場」でネットを検索する人々の世代層を考慮すればなおさらである。

*5:なお、正面から判示しているわけではないが、ここで「自由競争」というフレーズを持ち出していることから、裁判所も被告のウェブサイトが原告の事業と競合関係に立ち得るものであることは否定していないのではないかと思われる。

*6:中には、掲載先と広告宣伝に関する契約を交わした上で、商標使用も含めた許諾を取り付けて掲載しているサイトもあるだろうが、純粋な数で言えば、無許諾で掲載しているもののほうが圧倒的に多いようにも見受けられる。

*7:判決PDFの記載を見る限り、本件では原告側に訴訟代理人がいないようなので、なおさら裁判所も「ネットの常識」側に傾いた可能性はある。

常識は簡単に覆る。

日本では短い一週間、なれど、世界的には金融市場が大きくうねっていた中で、一日に二度も”あり得ない”ことが起きた。

一つ目は、この世界的な利上げラッシュの中で、わが国の中央銀行が下した「大規模緩和維持」の判断。

これまでの黒田総裁の強気すぎる振る舞いを見れば大方予想できた対応とはいえ、この期に及んで軌道修正の兆しすら見えないことには慄然とせざるを得なかった。

そして、二つ目。当然、市場が下した「円安加速」という判断に真正面から喧嘩を挑む、政府・日銀の「円買い」介入。

政府の関係者からは「投機的な動きへの断固たる措置」という言葉も発せられたようだが、今の日銀の動きを見れば、誰だって円を売って外貨を買う。

それを「投機」といわれても、市場関係者は当惑するばかりだろう。

結局何がしたいのか。

確かに、金利を引き上げればお金のめぐりが悪くなって景気も悪化する、というのがこれまでの常識で、今の日本が新型コロナ禍を引きずって企業投資も国民の消費も伸び悩んでいる、という前提認識に立つならば、黒田総裁の頑ななスタンスも支持される可能性はあるのかもしれない。

だが、今の世の中、本当にそうかといえば、お金があるところにはある、需要が伸びているところは伸びている。

前から言われているように、新型コロナ禍で業績が伸びた企業はそれなりにあるし、低迷していた会社の中にも、今年に入ってからの大幅な円安や資源高、企業物価上昇で一気に息を吹き返したところは多い。

個人にしても、新型コロナ禍でお金を使いたくても使えない、という状況が長く続いて、出口を失ったお金が手元に溜まり込んだ、という人は決して少なくないとされている。

世の中全体をならした統計では見えにくいかもしれないが、現場に近いところで見ていれば、”プチ”どころではないバブルの萌芽のような現象が至るところで起きていることにはすぐ気付くわけで、加えて、昨今報道されているような”景気刺激策”をこれから政府が打つようなことになれば、需要側はさらに盛り上がり、名実ともに本格的なバブルに突入することだろう。

それでもなお「緩和」路線にしがみつき続けるのか・・・。

今は米国でも欧州でも、教科書通り「繰り返される金利の引き上げが景気の低迷を招く」ということを所与の前提として様々なことが動いているが、2020年からの長いスパンでみると、少々利上げを繰り返したとしても直ちに悪影響を及ぼすとは限らない。

そして、今は先行きに懐疑的な世界中の市場も、いずれポジティブな動きがあれこれと目に見えて出てくればガラッと空気が変わり、むしろ”バブル状態”を後押しする方向に向かうことは容易に想像がつく。

にもかかわらず、引き締めの手は打たず、突出した円安へのもぐらたたきのような牽制だけで事を乗り切ろうとしているのが、悲しきかなこの日本という国。

常識に縛られすぎて、今本当にやるべきことをやっていない、その結果、”バブル再来”の恩恵に預かれる人が続出する一方で、”持たざる者”との格差は広がるばかり・・・。

変化し続けている世界では、これまでの「常識」など一瞬で吹き飛ぶ。だからこそ、その変化の潮目を見逃さず、きちんと世界の潮流に載っていくことが大事だと思うし、国の動きが鈍いなら個々人が自らの資産を守るために動く、ということも当然考えられる。

5年後、10年後どうなっているのか、なんてことを現時点で予測することは不可能だが、

「常識は常に覆る」

ということを肝に銘じた上で、日々しっかりと歩みを進めていければ、と思うところである。

一つの「決断」の重み。

何も世の中で多くの人々が一息ついている三連休の中日に、こんな記事載せなくてもよいのに・・・と思ったのが、日経紙朝刊1面の↓の記事。

中部電力オリックスなど複数の日本企業が東芝に出資する検討を始めたことが17日、わかった。東芝は株式非公開化を含む再編案を公募している。投資ファンド日本産業パートナーズ(JIP)が10社超の企業に参加を呼びかけており、日本企業の連合体として名乗りを上げる。混乱の続いた東芝の再編は、エネルギーやインフラなど事業面でつながりの深い企業が後押しすることになる。」(日本経済新聞2022年9月18日付朝刊・第1面、強調筆者、以下同じ)

あたかも「確報」のように書かれてはいるが、非公開化に向けた入札プロセスはまだ進行中で、この記事に書かれている内容も、当然ながら何ら確定した事実ではないと思われる*1

にもかかわらず、「日本企業の連合体」というフレーズを錦の御旗の如く掲げ、本来なら現時点では”厳秘”とされるべきの非公開化スキームを白日の下に晒すことで得をするのはいったい誰なのか・・・。

記事のトーンからすると、東芝外資系のPEファンドが買いに行く流れを危惧した憂国の士”が、「待望のホワイトナイト登場!」というムードを盛り上げようとして、話をブーストさせて記事化したのかもしれない。

だが、これからの非公開化に向けたコスト*2を考慮すれば、スポンサーとなるファンドや支援企業にとっての最大のミッションは、「今要求されているものをさらに凌駕した企業価値向上」に他ならない。

そして、そういったミッションを達成する上では、残念ながら、意思決定が複雑かつ遅い日本のトラディッショナルカンパニーの集合体はスポンサーとしてもっとも不向きである。

一昔前なら、それでも「事業シナジー」を前面に出して、買収先が倒れない程度に支えていればそれでOK、という話になったかもしれないが、今や多くの会社で投資案件は社外取締役も入ったボードで厳しく吟味され、投資コストに見合った有形のリターンが得られなければ、自社の株主からも激しいプレッシャーを受けることになる。

ゆえに、”お付き合い”程度の出資ならともかく、出資者連合の中核として支える、というような話になってくると、そもそも自社の取締役会をすんなり通せるのか、という話にもなってくるわけで、国を愛するメディアや経産省がどれだけ旗を振ろうが、そう簡単には事は進まないだろうな・・・というのが今の予想*3

*1:少なくとも、これだけの一大事にもかかわらず、名前の挙がった会社から何ら適時開示がなされていないという時点で、決定した事実は何もない、ということは明らかだろう。

*2:既に株価自体が現在の企業価値に比してかなりの高値水準に達しているうえに、うるさ型のアクティビストファンドに気持ちよく株式を手放してもらおうと思ったら、相当なプレミアムを積む必要が出てくることは容易に予想できるところである。

*3:これは、JIPが主導する陣営に限らず、他の外資系陣営にとっても同じことで、「経済安保」の観点から日本のプレイヤーを絡ませようとする限り、目下の問題解決までには長い時間がかかるだろう、というのは容易に想像がつくところである。

続きを読む

「インバウンド神風」はまた吹くか?

先週の後半くらいから回復基調にあった株式市場は、米国CPIの上振れとそれに起因する引き締め観測により、一瞬にして冷え込んだ。

日経平均も水曜日に800円近く下げ、今日になってもリバウンドには程遠い、という状況である。

だが、そんな中、資源系と並んで逆風に立ち向かっているのは、新型コロナ禍に突入してから長らく不振をかこってきた鉄道、航空をはじめとする”インバウンド銘柄”たち。

無理もない。ここ数日、日経紙には連日のように、”ポストコロナ”とばかりに、「入国時の水際対策緩和」「訪日外国人観光客受け入れ再開」といったニュースが流れている。

訪日外国人に関しては、あくまで”意向表明”のレベルにとどまっていて、政策転換が実際に効果を発揮し始めるのはいつのことやら・・・という感じではあるのだが、気の早い投資家たちはここぞとばかりに”インバウンド銘柄”に飛びついている。

確かにCOVID-19などという魔物が現れる前、「五輪」という言葉がまだ汚職の代名詞になっていなかった頃までは、「訪日外国人」は年々猛烈な勢いで増加し続けていて、「インバウンド」というフレーズはあたかも”金のなる木”のように、多くの人々を惹きつけていた。

だから、これでようやく・・・と先走る人々の存在を嘲笑することなど決してできないのだが・・・。

続きを読む

「銀行振込」は絶対的な選択肢なのか?

よほどの”記事日照り”だったのか、なぜか昨日、日曜日の朝刊の1面に載ったこの記事。

政府は給与をデジタルマネーで受け取る制度を2023年4月にも解禁する方向で最終調整する。労働者側は決済アプリの口座に直接給与が入り、日常の買い物に使える。世界に遅れている日本のキャッシュレス化を進める契機となる。」(日本経済新聞2022年9月12日付朝刊・第1面、強調筆者)

この「給与のデジタル払い」(資金移動業者の口座への賃金支払)というテーマは、遡れば元々は「成長戦略」の文脈で登場し、議論の本丸・労働政策審議会労働条件分科会でも2020年8月のキックオフ以降*1、2年以上にわたって断続的に議論され続けてきたものである。

厚生労働省のウェブサイトを見ると、明日9月13日に予定されている第178回分科会でもこのテーマに関する審議が予定されているようだから、おそらくそこで何らかのとりまとめ(案)が示されるのだろうが、そこでわずか数日でも抜いて観測気球を上げるのが、日経紙の真骨頂と言えば真骨頂・・・。

ただ、直近で議論された今年5月27日の分科会の議事録*2や、そこに出てきている議論整理の資料*3などを見ると、「本当にこれでまとまるんかい?」と突っ込みたくなるくらい懐疑的な意見は多い。

初期の議論などを見ていると、労働者側の委員を中心に、これは資金決済法の審議会の議論なのか?と言いたくなるような「デジタルマネー事業者に対する不信感」が色濃く出ていたりして、日頃、1000円以下の買い物は99%電子マネーQR決済で済ませてしまう自分の感覚*4からすると、「いまどき何を・・・」という感じの話だったりもするのだが、終盤になっても行きつくところは「資金移動業者の信頼性」や「デジタルマネーの安全性」で、既存の給与支払手段との比較で相当懐疑的な目が向けられているのは間違いない。

そして、そんなこともあってか、冒頭の記事についても、これを見た人々のSNS上での大方の反応は、「一体これで誰が得するんだ?」的なムードに満ちていたように思うのだが・・・

*1:最初に登場した時の資料と思われるのがhttps://www.mhlw.go.jp/content/11201250/000663599.pdfである。

*2:https://www.mhlw.go.jp/stf/newpage_26700.html

*3:https://www.mhlw.go.jp/content/11201250/000943189.pdf

*4:それより高額の買い物は基本クレジット払いだから、現金をやり取りする機会が今やほとんどなくなっている。多くで月に1,2回というレベルだろうか。

続きを読む

これぞ「ノンフィクション」の醍醐味

いろいろな反動で、ここのところちょっとぼんやり気味で過ごす日も多かったのだが、Number最新号の特集と、そこから引っ張られての「ノンフィクション2冊比べ読み」は最高の知的刺激になった。

雑誌の方では、「似て非なる名将」ということで、これまであまり比較されることのなかった落合博満・元中日監督と故・野村克也氏が、現役時代や監督時代はもちろん、プロ入り前のエピソードから雌伏の時を過ごした”評論家”時代まで様々なエピソードとともに比較されていて、それはそれで興味深いのだが、この二人が並べられて論じられるのもここ一年の間に両者を取り上げるノンフィクション作品が売れたから・・・ということで、ここは”原典”に当たらなければ始まらない。

まずは落合博満本」から。

こちらは今やすっかりNumber誌の看板ライターとなった鈴木忠平氏が、日刊スポーツの「番記者」時代に接した落合監督の8年間を余すところなく綴ったもので、昨年末の時点でかなりの評判になっていたのを知り、今年に入って早々に自分も読んだのだが、確かに紛れもなく名作の部類に入る一冊だったし、今回改めて読み直してもその感想は揺らがない。

8年間一度もAクラスの座を譲らずリーグ優勝は実に4回、うち1回は球団史上2度目、53年ぶりの日本一、という圧倒的な功績を残しながら、在任中はメディアに対して多くを語らなかったがゆえに、様々な悪評にも晒されていたのが当時の落合監督だったわけだが、本書はその過程で下された様々な「決断」が、監督の秘めたる信念と冷静な観察に基づく合理的思考に裏打ちされたものだった、ということを一つ一つ解き明かしていく。

当時”聖域”となっていた立浪選手の衰えを見抜き、

「これは俺にしかできないことだ。他の監督にはできない。」

という言葉を残して、シーズン途中に先発から外したくだり(第2章)などは読んでいて戦慄が走るし、日本シリーズ完全試合継続中の山井投手を交代させ日本中を論争の渦に巻き込んだ2007年の決断の背景に、2004年の日本シリーズのエピソードがあったのでは?という推論が組み立てられているくだり(第5章)などは、”交代の真相”と合わせてミステリー小説のような雰囲気も醸し出している。

元々記事のネタになるような派手な発言をする監督ではなかったから、本書を構成するのは、取材者であった著者に発せられた数少ない言葉と、それをもとに著者自身がひねり出した様々な推論。だが、最初は年ごとの単発的なエピソード、と思いながら読んでいた話が、実はその先の章の伏線になっていて、さらに全ての伏線がクライマックスに向けて結びついていく構成は実に見事で、読んでいて全く飽きが来ない。

そして、著者が高く評価する落合監督の知性、合理性、戦術眼に感心しつつも、「確かにこれは嫌われるなぁ・・・」と思いながら読み進めて行き着いた終盤の章で待っているストーリーがまた実に美しい。

一方、野村克也本」の方は、前々から読もう読もう、と思っていたところに前記Numberの記事が背中を押してくれて、この週末に購入して一気読み。

こちらも、メディアの前では饒舌だった故・野村監督が、プロ野球の世界を一時離れ、「社会人野球チームの監督」をしていた3年間を担当記者が綴った本だけに、いろいろと描かれている”秘話”も多いのだが、そこに出てくる監督の姿は「勝負師」としてのそれではなく、「教育者」としてのそれ、である。

『ノムラの考え』を手に行った最初の”講義”で語った言葉、として紹介される、

「我々の仕事は、結果至上主義の世界です。『いい仕事をする』『いい結果を出す』ためには、技術だけを磨こうとする取り組み方だけでは、上達や進歩、成長は大して望めません。『専門家意識』を根底に持つことによって、知識欲や探求欲が旺盛になり、専門家として恥じない人間形成をしていくようになると思うのです。」(52~54頁、強調筆者)

などは、ありとあらゆる世界で通用する発想だろう。

そうやって叩き込んでいった”野村イズム”が、やがてシダックスという寄せ集めのチームの選手たちに浸透し、次々と結果を出していく。そして、そんな日々が、選手だけではなく、一度はプロ野球の舞台から退場を余儀なくされた監督自身をも「再生」させた、という美しいサクセスストーリー。

これまた読み応え十分の一冊だった。

「落合本」「野村本」ともに、当時はまだ”駆け出し”に過ぎなかった担当記者たちが、必死で向き合った取材対象の姿を10年、20年の時を越えて活字化した、という点で共通している。

節々から伝わってくる、取材対象から受けた影響の大きさとそれに向けられた最大限の敬意。

「落合本」では、著者自身の鬱屈した感情が「8年」の月日を経て、次のステップに向けた原動力に変わっていく様も生々しく描かれているし、「野村本」でも、念願の記者になるまでに回り道をした著者の思いや「読売系メディアの記者」の宿命への苦悩が節目節目で描かれている。

いずれの著者も自分とほぼ同世代だけに、あの頃自分は何を考えて生きていたっけな? ということにも思いを馳せながら読み続け、より味わい深さを感じたのは言うまでもない*1

もちろん、「ノンフィクション」は常にフィクション性を伴う

特に、これら2冊のような、著者の取材対象者に対する思い入れが極めて強い本となればなおさらなわけで、「落合本」では、多角的な視点で「監督・落合博満」を描くスタイルがとられつつも、「合理的な決断」の裏で消されていった選手やコーチたち、さらには「監督交代」に動いた球団幹部側の声は意図的に捨象されているように見える。

「野村本」にしても、シダックス野球部の戦績(少なくとも都市対抗の舞台においては)が野村監督就任一年目以降年々下降曲線を辿った、という客観的事実への批判的検証は十分になされていないように読める*2

それぞれの本の著者が読者に伝えようとしているコンセプトは極めて明確で、それがこの2冊の魅力を増している一方、(「ノンフィクション」と謳われつつも)「コンセプトに添わない事実は拾われない」という冷徹なチョイスも徹底されているように思えるだけに、この2冊だけで取材対象者の人物像を形成するのは非常にリスキーで、「ここで描かれなかった部分」に異なる角度から焦点を当てる本が出てくるまで、真の評価は留保されなければならないのかもしれない。

ただ、そういった点を差し引いてもなお、組織の戦略的マネジメントを考えるうえで、さらに自らの生きざまを考えるうえでも、学びが多い本であることは間違いないだけに、まずは秋の夜長お勧め第一弾、ということで書き残しておくことにしたい。

*1:なお時期は少し前後するが、00年代の野球界を描く、という点でもこの2冊は共通していて、それぞれの本の主人公がある一つのエピソードで”ニアミス”する、というのもなかなか興味深いポイントだったりする。

*2:故・野村監督が名声を取り戻し、球界再編の動き等とも絡んで様々な”野心”が蘇るにつれて失われていったものもあったのではないか、ということは何となく察しも付くだけに・・・。

google-site-verification: google1520a0cd8d7ac6e8.html