司法判断第2弾、それでも残るモヤモヤ。

裁判所が長らく閉まっていたこともあって、最近は新着の判決に目を通す機会も減っていたのだが、ここにきて徐々にアップされる数も増えてきている。

ずっと追いかけている「色彩のみからなる商標」も、今年3月の第1弾判決*1に続き、今度は高部眞規子裁判長の第1部で、確認できる限り2件目の拒絶不服審判不成立審決取消訴訟の判決が出されている。

請求棄却で、事案だけ見れば結論の妥当性もあるかな、と思う一方で、読み進めていくとモヤモヤしてくるところも出てくるこの判決を、以下でご紹介することにしたい。

知財高判令和2年6月23日(令元(行ケ)第10147号)*2

原告:日立建機株式会社
被告:特許庁長官

本願商標は、平成27年4月1日、施行と同時に出願されたものの一つで、指定商品は以下のとおり。

第7類「油圧ショベル,積込み機,車輪により走行するローダ,ホイールローダ,ロードローラ」及び第12類「鉱山用ダンプトラック」

色彩に関する詳細な説明での記載は、当初の「タキシーイエロー」から補正により「オレンジ色」に変わったものの、

色相0.5YR 明度5.6 彩度11.2

のマンセル値で特定される色である。

ありふれた色調の単色、しかもこの色彩がもっぱら油圧ショベルの塗装色として」使われているもの*3、ということを考えると、これで登録を認めて独占権を付与する、という発想にはさすがになりにくいだろうな、と思う。

ただ、原告もさすが日本有数の大企業の傘下にある会社だけあって、こと商標法3条2項該当性、ということに関していえば、先日の不動産総合ポータルサイトの事例と比較しても相当強力な主張立証を行ってきている。

油圧ショベルのほとんどが5社のメーカーによって供給されている中で、原告の油圧ショベルのみがオレンジ色を使用。
・少なくとも1993年から現在まで本願商標に係るオレンジ色が使用された油圧ショベルのカラー画像の広告を、少なくとも72種類以上作成し、少なくとも29種類以上の新聞及び雑誌に継続的に掲載。
・2018年6月以降、本願商標に係るオレンジ色が使用された油圧ショベルのカラー画像のウェブ広告を3種類作成し、8種類のサービスに出稿。合計4000万回以上表示され閲覧された
・少なくとも1990年9月から2016年1月までの25年以上にわたり、テレビCMを繰り返し放映し、本願商標を付した油圧ショベルを登場させたテレビCMを放映した。
・1990年から2014年までの期間における年度別及び媒体別の具体的な広告宣伝費は、多い時で年間15億円を優に超え、直近の2010年から2014年において年間4億円に近い金額が支出されている。
油圧ショベルの色彩に関するアンケート調査では、アンケート回答者の合計96.4%が原告を想起しているとの結果を得られた*4

宣伝広告費の金額の大きさにも驚かされるが、何より凄いのは、アンケートで「96.4%」という数字を叩きだしたことで、3月のLIFULLの事案でのアンケートの数字*5と比べても実に驚異的な結果となっている。

ということで、この主張立証を受けて裁判所が本件をどうさばくのか、というのが本件の最大の注目どころだったのであるが・・・。

*1:遂に出た「司法判断」~色彩商標制度創設から5年、初めての審決取消訴訟判決に接して - 企業法務戦士の雑感 ~Season2~

*2:第1部・高部眞規子裁判長。https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/570/089570_hanrei.pdf

*3:もっとも判決中の認定事実等を見ると、単なる塗装色を超えたコーポレートカラーとして広告等に用いていた例もあるようである。

*4:アンケート自体は楽天リサーチが「建設機械全般の購入可能性があるから、明らかに油圧ショベルと関連性の低い業種を除いたうえで」「日本全国の建設業の就労者比に応じて当該地域毎に無作為に選定した事業者」を対象に行ったもの、とされている。

*5:第二次調査で55%程度。

続きを読む

ホントは旅人が悪いわけじゃない。

東京都下での感染者数急増に始まった新型コロナ”第2波”騒動は、ここ数日の間に、あちこちで伝えられるクラスタ情報とともに、すっかり全国へと広がる気配を見せている。

そして、そんなタイミングに、そうでなくても一部業界のゴリ押しをうかがわせる「繰り上げ」で批判を浴び始めていた「GO TO Travel」キャンペーンがすっぽりとハマってしまい、まさに今、全国津々浦々で集中砲火を浴びている状況である。

自分も、こと「政策」としての見地でみれば、この「GO TO Travel」キャンペーンは、センスのない施策が乱発されている一連の新型コロナ対応の中でも、相当な愚策の部類に入ると思っていて、最初にこの話を聞いた時、今は亡き忌野清志郎

「空から降って来たカネで どこ行くんだ ベイベ~」

とシャウトする姿が幻想で思い浮かんできてしまうくらいの不快感に襲われたものだ。

この話が出始めて以来、いろんなところで言い続けていることではあるのだが、こういう場面で、「生活が苦しくなった特定の『個人』を救済すること」と、「経営が苦しくなった特定の『業界』なり『会社』なりを救済すること」とでは、全く意味が異なると自分は思っている。

前者に関しては、多少バラマキ気味になったとしてもできるだけのことはやったほうが良い。

未知のウイルスに罹患して亡くなる、という話と、生活に困窮して・・・という話は自分は全く別の次元の話だと思っているが*1、それでも窮屈な世の中が貧しさを命に直結させてしまう現実があるのだとしたら、それを救うのが政策の力だと思うから。

だが、後者に関しては全く事情が異なる。

自営業にしても、大きな規模の会社にしても、経済活動の一丁目一番地は「自己責任」。景気だって常にいいわけじゃないし、自然災害に見舞われることもあれば経理不正や横領のような「人災」を食らうことだってある。それでも、多少の想定外の事象があったとしても、ギリギリのところで耐えきるのが「経営」ってもんじゃないのか、と*2

今回の新型コロナ禍が、一部の業界にとって想定をあまりに超えたリスク要素になってしまった、ということを否定するつもりはない。

でも、既に倒れてしまった会社、大きなダメージを受けている業界、そういったものを眺めれば眺めるほど、

「負けに不思議の負けなし」

という名将の言葉が蘇ってくるわけで、巧みに危機をしのいでいる会社や業界がある中で、特定の業界に事実上現ナマを突っ込むような施策を打つのは、相当に慎重でならねばいかんだろう、と自分は思っている。

今の状況下で旅行業界が厳しいのは、わざわざ説明されなくても分かる。

旅館から、観光地の物産販売・飲食店、そしてそこへ人を運ぶ事業者まで、そもそも「観光」というカテゴリー全体が今ぶっ壊れている、というのも当然承知はしている。

それでも、この業界に並々ならぬ愛着があるからこそ、自分は「GO TO Travel」的なやり方に賛同することは決してできない。


誤解を恐れずに言えば、旅人たちが一人、二人と連れ立って、ささやかに観光地に足を運び、ささやかに地場のものを楽しむ、というだけであれば、本来は、感染症対策の観点からも決して大きな脅威にはならなかったはずだ。

ふらっと知らない土地に降り立った旅人が、旅先の地で持てる「接点」などたかが知れているし*3、当地で慎ましやかに過ごしている限り、危険な飛沫がそうあちこちに飛ぶこともない。

もちろん、大人数の修学旅行とか職場旅行のような、それ自体がクラスタになりかねないようなイベントになってくると、さすがに勘弁してくれ、という話になるだろうが、個人旅行の客であれば、東京から来ようが大阪から来ようが、感染していようがいまいが、どんちゃん騒ぎする地元の学生や農協の青年部の客に比べても、よほど本来的なリスクは低い。

しかし、これだけ「Travel」のリスクが取りざたされ、槍玉に上がってしまった今、そういった冷静な思考で、本来なら貴重だったはずの客人を招き入れることのできる「観光地」がどれだけあるか、一見すると過激と思われるような反応をした青森県内の若い市長を、もはや誰も笑えない状況になっているのが今、である。

流行が始まって半年近く経ち、感染するパターン/しないパターンもかなり特定できているように思われるのに、それを的確に伝えてこなかったがゆえに、未だに「ただ人が動いただけで流行が広まる」かのような言説がまかり通るリスクコミュニケーションの失敗とか、「規制」から「容認」まであまりに大きすぎる政策の振れ幅とか、そういったものを背景に、6月になってもなかなか回復軌道に乗り切れていなかった観光業界に、今回の愚策がとどめを刺してしまうのだとしたら、本当に残念、の一言に尽きる。

*1:前者は否応なしに免れ得ない話だが、後者は間に自らの意思が確実に介在する話で、政策次第でいくらでも回避できる話だから、「経済回せ!派」が頻繁にこの両者を一緒こたにしてああだこうだ言っているのを見ると、非常に腹立たしい気持ちになる。

*2:自分自身、リスクをとって飛び出した側の人間だからこそ、なおさらそう思うところはある。収入ゼロでどれだけ回せるか、というシミュレーションはホントに頭が痛くなるほどやり切ったし、だからこそまだこうして生き延びられているわけだし・・・。

*3:そもそも、「一人旅」なんてものは、密すぎる環境から離脱するためのイベントなのだから、都会を離れて出かける、ということ自体が理想的な対策ともいえる。

続きを読む

運命の不思議。

まぁ、細かい解説は不要だと思うけど、本日の夕刊より。

「政府は14日の閣議で、検事総長に林真琴東京高検検事長(62)を充てる人事を決めた。稲田伸夫検事総長(63)は退官する。」(日本経済新聞2020年7月14日付夕刊・第3面、強調筆者)

世の中、企業でも役所でも、人事をめぐるあれこれは尽きないのだけど、これだけ多くの人が、白昼堂々(?)こんなに派手などんでん返しを目撃するようなことなんて、そうそうあるものではないよね、と思うわけで、組織の思惑、官邸サイドの思惑、そして新型コロナ禍がもたらしたイレギュラーな事態が引き起こした偶然のめぐり合わせ・・・*1

あまりに展開がエキセントリック過ぎてドラマの脚本として持って行ったらボツになりそうな、そんなこともこの世では実際に起きるのだから、最後までゴールに向かって走り続けることが大事なのだなぁ・・・とよくわからない喩えで自分に気合を入れる(まだ)火曜日の夜。

そして、この人事が発令される頃には、いつまでもぐずついている空が、ちょっとでも夏らしくなってくれていると信じたい。

*1:そもそも、ある一定の年齢の誕生日を迎えたら否応なく組織を離れなければならず、しかも戻る選択肢もない、という今どき合理性を説明するのは難しいルールが残っているからこそ、話が不必要に”面白く”なってしまった感はあるのだが、その話はまた改めて・・・。

まだまだ「無人」でいいじゃないか、と思う週末。

世の中は、もはや分裂してしまったのではないか、と思うくらい奇妙な日常が続いていて、全国の感染者数の数字だけ見れば、今や4月の「緊急事態宣言」発出日の数字さえ超えてしまっているのに、お上からは行動抑制を促すどころか、「まだまだこれから、どんどん本格的に経済活動再開していくよ!」という危ういメッセージが発せられているように見える状況で、思慮深い人であればあるほど困惑するような状態になっている。

あちこちで再び発生し始めたクラスタの報に接すると、

「3月、4月に国や自治体が苦労して行っていた各種要請がいかに正しいものだったか。」

ということを改めて実感せざるを得ないし、それでもなお「そんなもんただの風邪だ。飲み屋が営業再開し、イベントも人が入れるようになったのに行かないのは臆病者だ!」等々のたまわれている方々には、本当に一度自ら罹患して「大丈夫であること」を証明してほしい、と思うのだが*1、今は、そこで喧嘩するより自分の身を守ることがまず最優先、ということで、「人の集まるところにはいかない」「人と密に接触せざるを得ないような機会はすべて避ける」というのをとにかく徹底している今日この頃*2

ここにきて、プロ野球Jリーグが、限られた人数ながら「観客」を入れ出したことについても、あくまで他人の商売の話だからとやかく言うつもりはないのだが、球場に人を入れるとなれば、そのためのコストも当然かかることになるわけで、収入に見合わないかもしれないコスト増や、クラスタが生じた場合の風評リスクまで考慮してもなお、「5000人」の入場者にこだわる、というのは、自分にはちょっと理解できないところではある。

そんな中、JRAも、この週末から遂に北海道内をはじめとする一部の「ローカルWINS」で馬券の発売を再開した。

利用者の数では圧倒的に多い首都圏のWINSは変わらず閉鎖したままだし、そもそもここしばらく、馬券の売上自体は全く落ちていない(むしろ対前年比10%を超える勢いで伸びている)のがこの世界だから、わざわざ開けるのは、純粋な経営とはまた別のところにある地域への配慮だとか、地元雇用創出といった要素に起因するところが多いのだろう。

そして、土曜日の売上の数字だけを見れば、前年比∔16.6%、函館競馬の売上に限れば∔20.9%、と、ここ数か月の間に開拓したユーザー層に「リアル馬券購入層」が加わったことによる効果も明確に出ている。

ただ、ここまでせっかく、競馬サークル内でクラスタを発生させることもなく、大事な大事な競走馬にウイルスを伝染させることもなく、しっかりと守って育ててきたことを考えると、これ以上に関係者以外の「人」がリアルにかかわる機会を増やすのは時期尚早だろう、という気がして・・・。

大きなレースのシーズンは一段落したけれど、続々とデビューする2歳馬たちのレースと、後がなくなった3歳未勝利馬たちの必死のレースが交じり合う、そしてトリッキーなコース形態、洋芝、不安定な気候に、世代の混合、といった春競馬にはなかった様々な変数的要素が加わる、という状況の中、地味だけど面白いレースが毎週続く、というのが今の状況*3

それだけに、今を楽しむ、という意味でも、おそらく治療薬が間に合って「新型コロナ」そのものへのリスク度合いも劇的に改善する(はずの)秋以降の競馬を楽しむためにも、「頼むから、今無理して『有観客』の方向にもっていかないでくれ・・・」というのが、今のささやかな願いである。

週明け以降、政府の方針が転換され、再び「抑制」方向に舵が切られることで杞憂に終わるのか、それとも、「国策」の前にリスクを抱えた運営をJRAが強いられることになるのか、あるいは、世の中の動きも”馬耳東風”とばかりに独自路線を歩み続けるのか・・・。

ラジオから流れてくる過去のレースの録音放送には、当然、観衆のざわめきや声援も吹き込まれていて、そういったものを耳にすると「いつかは競馬をライブで楽しめる日々が戻ってきてほしいものだなぁ」という思いに駆られるのも事実だが、何度も言う通り、「急いだ結果、元の木阿弥」というのではどうしようもないし、この業界のこれまでの優等生ぶりを考えると、万が一の場合は、「元の木阿弥」どころか「純粋な状況悪化」になってしまうわけだから、やはりここは、どんな声が出てこようが、「No コロナ」にならない限りはまだまだ「無人」で良い、ということを強く訴えておくことにしたい。

そして、もう一度、3月、4月の、毎週、週末を無事迎えられるかどうかが不安で仕方なかった頃のことを思い出し、初心に帰って、

「次の週末も無事、レースが開催されますように」

とただひたすら天に祈るのみ、である。

*1:そういう人に限って、自分は安全なところにいて、他人を煽るだけだし、万が一自分や身の周りの人がかかるようなことになったら、掌を返して「国の無策」を責めるに決まっているのだ。

*2:普通に買い物したり、マスク越しに会話をしている限り問題は起きない、というのは、既に4月、5月の状況が証明してくれたことでもあるので、「段ボールに付着したウイルスまで恐れる」といった過剰な感覚には陥らず、だが、決して間違っても団体客のいるような居酒屋には足を運ばない、といったリスク回避のための正しい行動の選択こそが今求められていることだと思っている。

*3:今日の七夕賞も、馬と騎手のコース相性(内田博幸騎手はこれで2週連続福島重賞を制覇している)と、この荒れまくった馬場への耐性といったところから推理すれば、クレッシェンドラヴの勝利と、伏兵ヴァンケドミンゴの馬券圏内入線までは予想できたはずで、後付けだとそういう説明もできるのに、いざ予想するときは微妙にずれたところで勝負して後悔を余儀なくされる、というのもこの季節の伝統だったりする。

「スタートアップ」に生き残るための武器は配られたのか?

先月末、日経紙に載った記事を見て思わずフライング気味に書いてしまったエントリーがある。

k-houmu-sensi2005.hatenablog.com

その時は、何だか腑に落ちない記事だなぁ・・・と思いながら読んでいたのだが、その直後に、公取委経産省がそれぞれ”元ネタ”となった資料をアップしてくれたこともあり、それに目を通して初めて、ああそういうことだったのか、と気づいたこともいくつかあった。

資料がリリースされてから少し時間が空いたこともあり、既にあちこちで話題になったネタをちょっと遅れて・・・という感じではあるのだが、最初の記事からは見えなかったことをフォローしたい、という思いもあり、改めてエントリーを立てて、以下、簡単に気づいたことを書き残しておくことにしたい。

「スタートアップの取引慣行に関する実態調査 中間報告」(公正取引委員会)より

中間報告原文:https://www.jftc.go.jp/houdou/pressrelease/2020/jun/200630_2.pdf

先日のエントリーでは、あまりに”煽り”がひどかったこともあって、消極的なコメントしかできなかったこのアンケート調査だが、実際には会社の「契約内容の確認体制」という興味深いデータもあるし*1「納得できない行為を受け入れたか」という問いに対し「受け入れなかった」と回答した会社が25.2%もいた、という事実や、「納得できない行為を受け入れた理由」への回答の中で一番多かったのが「取引先から、取引(当該取引のみならず、進行している他の取引や将来的な取引も含む)への影響を示唆されたわけではないが、今後の取引への影響があると自社で判断したため」(46.9%)となっていた、ということ、そして何よりも、

「他社(大企業等)から納得できない行為を受けた経験の有無」という問いに対し、「受けた経験がある」と回答した会社が僅か14.8%に留まっていること」

など、全体を通じてみれば、(記事のイメージとはかなり異なる)納得感のある常識的な結果となっている。

もちろん、少数派とはいえ不利益を受けた会社が一定数ある、というのは事実なわけで、しかも、「納得できない行為の具体的な内容」について、新聞記事では端折られていた「どのフェーズでの話か」ということや、その他の前提を踏まえると、まぁそれはけしからんよね、と思える回答は多かったような気がする。

特に技術検証(PoC)過程での出来事として書かれている、

「当初契約していた範囲を超えて,追加の作業を求められ,実施したにもかかわらず,その追加の作業について,契約書が提示されず,最終的には対価も支払われなかった。」

とか、

「契約書に記載のある納品物以外に,追加の成果物を納品成果として提出するように指示されている。」
「契約に無い作業を行うことを求められたことや,検証作業を遅らされ,資金回収も1年以上遅らされたことがある。」

といったエピソードに関しては、お行儀の悪い「大企業」の担当者が良くやらかしそうな話だな、と思うし((この中には、そもそも、共同研究開発の予算が付く前に、お互い前のめりで始めてしまって、気が付いたらただの”検証”のレベルを大きく超えてしまったので、「支払いはちょっと待って・・・」となってしまったパターンも多いと思うのだが、仕事をさせたら金も払う、契約の範囲を超えた仕事にもちゃんと金を払う、というのは注文者側の鉄則だから、上記のような話が事実なら、それはまぁあれこれ言われても仕方ないだろうと思うところ。

また、契約全体に係る話として、

「契約における自社の受託範囲が明瞭ではなく,取引先からの入金がされないまま多数の作業を強いられた。」
「仕事内容に不備がないにもかかわらず,口頭ベースで話していた契約条件について,納品のタイミングで不当に値引きされた。」

という回答も上がっており、ここまでくると、いかに双方の認識相違が背景にあったとしても、決して好ましい話ではないことは間違いない*2

個人的に惜しいな、と思うのは、この調査、先述した「契約書の確認体制」等、今後「スタートアップ各社が対等な契約交渉ができるようにどう支えていくか?」ということを考える上で活用できそうな質問事項も立てられているのに、その「体制」についての回答と「納得できない行為を受けたか/受け入れたか」についての回答との間でクロス集計による分析がきちんとなされていないように見えるところだろうか。

自由記述欄の記載にしても、契約への対応に社内外の専門的な知見を持つ人々がどれだけしっかり絡めている会社かどうかによって、書かれている内容の信頼性もどうしても変わってくるところがあるだけに、より掘り下げるのであれば、そこだろうな、と思うところである。

あと、これだけスタートアップに同情的なエピソードを取り上げつつも、

「アンケート調査の結果のうち,優越的地位の濫用の観点から問題があると評価されるのは,これらの行為が「自己の取引上の地位が相手方に優越していることを利用して,正常な商慣習に照らして不当に」(独占禁止法第2条第9項第5号)行われてスタートアップに不利益を与える場合である。そのため,他社(大企業等)の取引上の地位がスタートアップに対して優越していない場合等には,優越的地位の濫用として問題とはならない点に注意が必要である。」(16頁、強調筆者)

と予防線を張っているところが、いかにも公取委らしいなぁ・・・と思ってしまった。

「研究開発型スタートアップと事業会社のオープンイノベーション促進のためのモデル契約書ver1.0」(経済産業省

さて、いろいろと話題になっているのが、こちらの「モデル契約書」である。

www.meti.go.jp

「本モデル契約書は、公正取引委員会による「スタートアップの取引慣行に関する実態調査」の中間報告で明らかになった問題事例に対する具体的な対応策を示しており、契約交渉で論点となるポイントについても明確にしています。」
「本モデル契約書が、企業とスタートアップとの円滑なコミュニケーションの一助となることで、オープンイノベーションが成功し、創出された事業価値が最大化することを期待します。」

と謳われているように、先ほどの公取委のアンケート調査を踏まえた「モデル契約書」ということになっているのだが・・・。

*1:「社内に取引・契約条件に関する知見を有する者がおり」という要件を満たす会社は、アンケートに回答した1,447社のうち7割近い、という結果となっており、なかなか興味深い。

*2:逆に、出資検討場面での、「大企業からの出資を受ける目的で NDA を締結した上で,事業内容に関する資料を多数共有したが,結果的に出資に至らないだけでなく,当該大企業が当社の競争相手となった。」とか、「資金調達を欲するスタートアップとしては,ベンチャー・キャピタルに対して,技術・ノウハウ等のあらゆる情報を提供せざるを得ないが,彼らの関係会社にその情報が流出し,いつの間にかほ とんど同じサービスが勝手に立ち上げられていることが起こっている。」という話に関していうと、そりゃあ「出資」を仰ぐ、というのはそういうことでしょ(出資する側だってノウハウが欲しいからこそわざわざ身銭を切るわけだから・・・)、という感想しか出てこなくて、同情の余地はあまりない気がする。この辺は、安易に「出資」を当て込んで事業を進めることを許容してしまっていたここ数年の風潮によるところも大きいのだけど、昨今の新型コロナ禍でカネの出し手が出資先の選別を始めたことで、ようやく健全な状況に戻るのかな、という思っているところでもある。

続きを読む

最近の法律雑誌より~法律時報2020年7月号

なかなかゆっくりと情報をインプットする余裕もない今日この頃だが、先月末発売のこの雑誌のこの号に関しては、やはり書かないわけにはいかない、ということで、先週のジュリストに続いてエントリーを上げることにした。

小特集のテーマがピタリとはまったのもさることながら、前号から続いた特集も読みごたえあるし、それ以外にも刺さる論稿がいくつもある、ということで、少々時機を逸しているのは承知の上で、以下ご紹介することとしたい。

小特集 著作権法改正の法的課題とその分析

この号に関しては、やはりこの小特集から取り上げないわけにはいかないだろう。

何よりも興味深いのは、冒頭で企画趣旨を紹介しているのが深町晋也・立教大教授であり、「刑法的観点からの分析」がメインの特集になっている、ということ。

素材とされているのが、リーチサイト規制であり、違法ダウンロード規制である、ということに鑑みれば、なるほど、というところではあるのだが、諸方面に配慮した結果の”複雑すぎる条文構造”や、「特別な主観的要件」等、今回の改正で取り込まれた様々な仕掛けをトラディッショナルな立場(特に刑法的観点)からどう評価するか、ということを正面から議論する論稿に接する機会はこれまで少なかっただけに、改めて有益な知見をいただけたような気がする。

新進気鋭の研究者が書かれている各論稿の中で、共通して取り上げられているトピックをまとめると以下のようになるだろうか(引用箇所の強調は自分が付したもの)。

「知りながら」要件(著作権法30条1項4号、2項、119条3項2号、5項)について

いずれの論者も、立法趣旨に照らして「知りながら」要件を厳格に解すべき、という点では一致しているが、刑法学者からは「伝統的な刑法学の観点から」一言、二言加えられているのが印象的。そして、前田准教授の警鐘も十分理解できるところだけに*1、これからの当局の運用をいかに謙抑的なものに留めさせるかが重要、ということをひしひしと感じさせる中身になっている。

◆深町晋也「著作権を巡る強制と自制のあいだ」法律時報92巻8号69頁
「このような規定によって、本当に確定的な故意がある場合や確定的な違法性の意識がある場合に限って処罰が限定されると言えるのかは、・・(中略)・・なお不明確であると言わざるを得ない。というのは、その文言のみに着目すれば、『重過失の場合には故意を認めない』という、少なくとも我が国の刑法学においては自明とされる内容を規定したに過ぎないようにも読めるからである。したがって、刑法学の立場から言えば、このような文言を選択したことには疑問の余地が大きい。」(73頁)*2

◆西貝吉晃「令和2年著作権法改正の刑法的検討」法律時報92巻8号77頁
「ここでは『著作権侵害』という規範的な要素を含む有償著作物特定侵害複製であることを『知る』ことの意義が問題になる。」
「規定文言だけからは、未必の故意事実認識)で足りると解釈することも不可能ではない(略)。故意と重過失は異なるから、重過失では足りないという条文を入れたところで、『知りながら』を未必の故意で足りると解することが文理上はなお可能である。しかし、立法過程や外国法の議論に照らすと、(仮に刑法学においては原則的なものだとしても、)そのような緩やかな解釈は許されない。」(以上82頁)
「他の要件もあわせ考慮すると、本罪は事実上、著作権者が検挙の初動のほとんどを握って積極的に行動することにより初めて、犯罪成立要件に該当することが判明するような犯罪類型だともいえる。もっとも、この帰結は妥当なようにも思われる。なぜなら、まず、海賊版対策の観点からはアップロード者を原則処罰すべきだともいい得る。さらに、このような要件解釈は、捜査機関ではなく、主に著作権者のイニシアティブによりハードローの利用に移行することを促す側面を示しており、寛容的利用等により形成される原則的なソフトロー秩序と整合・調和しているといい得るからである。」(83頁)

前田健「侵害コンテンツのダウンロード違法化」法律時報92巻8号84頁
「立法担当官の意図としては、『知りながら』を充足するには違法性の意識を『確実に』備えている必要がある。法的評価を含む概念である『特定侵害複製』であることを『知りながら』という文言及び本来必要のない重過失と故意は異なるとの注意規定をわざわざ置いたことから、そのような解釈が導かれるということであろうか。極めて厳しい解釈であり証明はかなり困難と思われる。一方で、それが故に、逆に有名無実化してしまうことも懸念される。」(89頁)

リーチサイト規制における親告罪規定について

ここでも、本来、「社会的法益に対する罪」と考えられていたリーチサイトの公衆提示罪が「親告罪」とされたことについて、刑法学的観点からの指摘が投げかけられている。
その一方で、最終的には「寛容的利用」の観点から今回の制度設計の妥当性を説明する、という流れになっている点で共通しており、5、6年ほど前はまだ決してメジャーではなかった「寛容的利用」という考え方がここまで頻繁に使われるようになった、ということに対しては、一種の感慨すら湧いてくるところである*3

◆前掲深町論文
「処罰規定を導入することで、国家刑罰権(強制力)を背景とした権利保護を図りつつも、インターネット利用者に対する過度の萎縮効果を回避するために、権利者による自制を前提にした一種の『セーフガード』を設定するものとして親告罪規定が用いられている、と分析することができよう。」
「このような親告罪規定のあり方は・・・(中略)・・・いわゆる『寛容的利用』に資するものと言える。とはいえ、従来の親告罪に関する我が国の刑事法学説においては、このような著作権法における親告罪規定のあり方をどのように評価すべきかについては、なお十分な分析がなされていない。」(71~72頁)

◆前掲西貝論文
「現実の被害者全員が告訴しないと告訴が有効にならない、という考えも採ることはできない。告訴の客観的不可分の原則の理解からも、複数いる告訴権者のうち誰かが告訴すれば公衆への提示罪についての告訴は有効である、と解すべきだからである。」
「ただし、裁判所の審理においては、告訴者についてのみ本罪についての告訴が有効であるから、例えば量刑判断において、告訴していない者の著作物に関する被害まで算入して判断することは許されない、と解される。こう解することで、リーチサイト撲滅を謳う改正法の趣旨と無許諾利用を黙認することによって形成されている私法的秩序(寛容的利用」とのバランスが図られるのではないか、と思われる。」(79頁)

このほかにも、リーチサイトに関して過剰差止の問題や、幇助論精緻化の必要性を説く谷川和幸「リーチサイト規制」(法律時報92巻8号91頁)に、情報法の観点からハイパーリンクの「表現の自由や知る権利を支えている」機能を重視し、リーチサイト規制の謙抑的な運用を求めるとともに、事実上のものにすぎない「寛容」の不安定さを指摘してフェアユース規定導入の可能性を示唆する成原慧「海賊版対策のための著作権法改正及び関連する取組の意義と課題」(法律時報92巻8号96頁)と、全て読み応え十分すぎる論稿だった、ということは、改めて強調しておきたいところである。

骨太なテーマだからこそ、骨太な議論が良く似合う。それを十分に堪能させていただくことができたのは、ありがたい限りである。

その他の特集、記事より

さて、小特集の紹介にかなり力を入れてしまったので、以下はダイジェストでお送りするが、冒頭でも言及したとおり、前号から続いていた「特集 平成の立法と判例(下)」も、引き続き刺激に満ちたものであった。

豪華メンバーによる座談会は、最初から最後まで「グローバリゼーション」をテーマにしていた前号とはうってかわって、景気の長期低迷、情報化の進展、少子化・高齢化の進展といったトピックに合わせて「平成30年間」の様々な動きが結び付けられていて、ああそういえばそんなこともあったなぁ・・・と思いながら眺めるにはうってつけだったし、さらに古田佑紀、寺田逸郎という刑事法、民事法の立法に関与された元最高裁判事へのインタビュー記事も、ところどころに生々しい話も出てきていたりして、最後の年表と合わせて様々なものを振り返るにはちょうど良い企画となっていた。

また、その他の論稿の中で印象に残ったのは、会社法系の先生方が書かれた2本で、まず、巻頭の「法律時評」の舩津浩司「コロナ禍が示す株主総会の未来像」(法律時報92巻8号1頁)が、新型コロナ感染拡大下での株主総会当日の会合(物理的会合)への参加株主数を制限した開催形態(入場制限)に関し、以下のように書かれていたところが、非常に「ツボ」にはまった。

株主総会としての意思は、議案に対して投じられた賛成票の多寡で決せられるということを所与とする限り、意思決定機関としての株主総会にとって、物理的会合は本質的な要素ではないといえよう。そして、複数の議決権行使チャネルが認められ、かつ、大多数の議決権行使が物理的会合以外のチャネルを通じたものであるという現在の上場会社の株主総会の現状に鑑みれば、物理的会合を本来的な意思決定の場と捉えて制度を組むことの合理性は乏しいといわざるを得ないだろう。」
「これまで、物理的会合という、上場会社においては相対的に影響力の小さなチャネルにおける処理を雛型として、株主総会の規律全般が論じられていたため、結果として上場会社の株主総会運営に非効率性を生じさせてきたことは否定できない。」(以上2~3頁)

「法律時評」というコーナーの性格を考慮しても、会社法の先生としてはかなり思い切った見解だと思うし、さらにそこから進んで会社法制度の見直しの必要性まで示唆するこの論稿にささやかな希望を抱いた読者は自分だけではないだろう、と思っている。

そして、最後に、いつもながらにユーモアを交えつつ尖った指摘となっている得津准教授の論稿(得津晶「企業における行動学的転回(behavioral turn)と消費者取引規制の在り方」(法律時報92巻8号116頁))も必読のものとして取り上げておきたい*4

企業側の行動に「行動経済学の知見を活用」することでより多くの法的介入を正当化できないか?という問題提起から始まるこの論稿は、

「どうもこの領域では行動経済学が規制大好きな法律学者の精神安定剤になってくれる可能性は低そうである。」(121頁)

というシニカルなオチで締められるのであるが、そこに至るまでの分析過程には、何度となく唸らされるところも多いだけに、是非手に取ってご一読することをお薦めしたい*5

*1:前田准教授は、論稿の最後で、「寛容的利用」に言及しつつ、「本改正を巡る議論は、このバランスが極めて脆弱であったことを浮き彫りにしてしまったように思われる。刑事罰が広く科され得る状況のもとでは、寛容的利用の持続可能性は疑わしい。本改正案では幸い刑事罰の範囲は限定的な範囲にとどまったが、本来であれば、著作権法における刑事罰一般について見直しを行うべき時が来ているのかもしれない。」(90頁)とまで述べられている。

*2:なお、深町教授はこのように述べながらも、「このような『文言解釈』が立法担当者の意図に反したものであることは明らかであり」、「このような規定を導入した意義がおよそ没却される」として、後記西貝論文と同じ立場に立つことを明らかにされている。

*3:そして、まだ目を通していないL&T87号の田村善之教授の論稿にも目を通さねば・・・という思いにさせられるのである。

*4:最近、一連のコロナ禍下で、従来の常識では説明が難しい消費行動や取引変容に接することが多いこともあって、自分もちょうど行動経済学にはまり始めたところだっただけに、なおさらツボであった。

*5:さすがに分野が分野だけに、自分が下手な解説をするのは憚られる・・・ということもあって、”逃げている”といわれればそれまでなのだが。

消えるべきは「ハンコ」だけではない。

今年の春以降、これまで何度か取り上げてきた話題ではあるのだが*1、遂にここまで来たか、ということで、スピードの早さに驚かされるばかり。

「政府と経団連など経済4団体は8日、書面、押印、対面作業の削減を目指す共同宣言を発表した。3つの作業は企業の契約や行政手続きなどで法制度や慣行により続いてきた。新型コロナウイルスの感染防止で広がる在宅勤務の妨げになるとして、官民一体で削減を目指す。」(日本経済新聞電子版2020年7月8日21時配信、強調筆者、以下同じ)

公表されているリリース文(経済同友会のサイトより)はこちら。

https://www.doyukai.or.jp/policyproposals/uploads/docs/20200709.pdf


こういう形で官民の「共同宣言」が出されること自体、滅多にないことではあるし、民側で経団連から新経連まで4団体すべてが名を連ねる、というのもなかなかない話で、リリース文に並んだ団体名、肩書、そしてそれぞれのお名前を眺めるだけで、何とも言えない趣を感じる。

新型コロナウイルス絡みの「新しい生活様式」をここで持ち出すことの是非はひとまず措くとしても、

「社会課題として顕在化した「書面、押印、対面」を原則とした制度・慣行・意識を、デジタル技術の積極活用によって社会全体で転換し、時代の要請に即した行政手続・ビジネス様式を速やかに再構築すべきである。」

という方向性には何ら異論のないところなので、(槍玉にあげられた業界の関係者の皆さまのご苦労は察するに余りあるにしても)ここまで大見栄を切ったからには、是非短期間のうちに貫徹してほしいものだと思わずにはいられない。

そして、やたらと「民民」側に話が振られた感のある一連の話題ではあるが、何よりも押印主義に固執してきたのが「官」なのは間違いないところなので、行政手続における押印は「全廃」するくらいの気合で臨んでほしいものだな、と*2

さらに言えば、民に関しても、取り組みの順番として、電子署名等の電子認証の活用の促進」の前に「押印廃止の取組を推進する」というテーマが先に来ている、ということは常に念頭に置いて、

単に「ハンコを電子署名・電子サインに置き換えただけ」ということには決してならないように

もろもろの取り組みを進めていってほしいものだな、と、願わずにはいられないのである*3

*1:これまでのエントリーとしては、この先ずっと必要なものだからこそ、ちゃんとしたものを選びたい。~電子契約サービス選びに欠かせない視点 - 企業法務戦士の雑感 ~Season2~や、「押印」論争をめぐる痛烈な意趣返し。 - 企業法務戦士の雑感 ~Season2~など。

*2:地方自治体の手続書類などは、ここ数年でかなり簡素化され、本人が手続きをする限り押印も省略されるケースが増えたと思うのだが、なぜか中央官庁周りの書類は未だに押印、しかも”それっぽい印鑑”の押印を求められることが多い。そもそも押印以前の話として「提出書式そのものを減らせ」という積年の課題もあるところなので、セットで取り組んでいただき、劇的な環境変化が起きることを期待したいところである。

*3:ちなみに、世の多くの会社が在宅勤務体制に入っている頃に、先方の担当者に気を使って「請求書をPDFで送りましょうか?」と投げかけても、ほぼ例外なくすべての会社から「いや、経理がNGなので、押印版を郵送で・・・」と切り返された記憶が生々しく残っていて、まずはどの会社も経理部門の意識改革が何より必要なのではないかな、と個人的には思っている。客観的にみれば、印鑑の有無だけで請求書の信頼性に大きな違いが出てくるわけではないのだから(不正請求かどうかも含めてそれ以外のポイントで十分チェックできるわけだから)、そこに常にハンコを求めるのは、それまでと同じことをしていないと不安になる、という悪しき官僚主義の発露に他ならないし、そもそも金銭の支払いを「請求書」ベースで行う文化自体、そろそろ変化させる時期に来ているような気がしてならない。

google-site-verification: google1520a0cd8d7ac6e8.html