いろいろな反動で、ここのところちょっとぼんやり気味で過ごす日も多かったのだが、Number最新号の特集と、そこから引っ張られての「ノンフィクション2冊比べ読み」は最高の知的刺激になった。
雑誌の方では、「似て非なる名将」ということで、これまであまり比較されることのなかった落合博満・元中日監督と故・野村克也氏が、現役時代や監督時代はもちろん、プロ入り前のエピソードから雌伏の時を過ごした”評論家”時代まで様々なエピソードとともに比較されていて、それはそれで興味深いのだが、この二人が並べられて論じられるのもここ一年の間に両者を取り上げるノンフィクション作品が売れたから・・・ということで、ここは”原典”に当たらなければ始まらない。
まずは「落合博満本」から。
こちらは今やすっかりNumber誌の看板ライターとなった鈴木忠平氏が、日刊スポーツの「番記者」時代に接した落合監督の8年間を余すところなく綴ったもので、昨年末の時点でかなりの評判になっていたのを知り、今年に入って早々に自分も読んだのだが、確かに紛れもなく名作の部類に入る一冊だったし、今回改めて読み直してもその感想は揺らがない。
8年間一度もAクラスの座を譲らずリーグ優勝は実に4回、うち1回は球団史上2度目、53年ぶりの日本一、という圧倒的な功績を残しながら、在任中はメディアに対して多くを語らなかったがゆえに、様々な悪評にも晒されていたのが当時の落合監督だったわけだが、本書はその過程で下された様々な「決断」が、監督の秘めたる信念と冷静な観察に基づく合理的思考に裏打ちされたものだった、ということを一つ一つ解き明かしていく。
当時”聖域”となっていた立浪選手の衰えを見抜き、
「これは俺にしかできないことだ。他の監督にはできない。」
という言葉を残して、シーズン途中に先発から外したくだり(第2章)などは読んでいて戦慄が走るし、日本シリーズで完全試合継続中の山井投手を交代させ日本中を論争の渦に巻き込んだ2007年の決断の背景に、2004年の日本シリーズのエピソードがあったのでは?という推論が組み立てられているくだり(第5章)などは、”交代の真相”と合わせてミステリー小説のような雰囲気も醸し出している。
元々記事のネタになるような派手な発言をする監督ではなかったから、本書を構成するのは、取材者であった著者に発せられた数少ない言葉と、それをもとに著者自身がひねり出した様々な推論。だが、最初は年ごとの単発的なエピソード、と思いながら読んでいた話が、実はその先の章の伏線になっていて、さらに全ての伏線がクライマックスに向けて結びついていく構成は実に見事で、読んでいて全く飽きが来ない。
そして、著者が高く評価する落合監督の知性、合理性、戦術眼に感心しつつも、「確かにこれは嫌われるなぁ・・・」と思いながら読み進めて行き着いた終盤の章で待っているストーリーがまた実に美しい。
一方、「野村克也本」の方は、前々から読もう読もう、と思っていたところに前記Numberの記事が背中を押してくれて、この週末に購入して一気読み。
こちらも、メディアの前では饒舌だった故・野村監督が、プロ野球の世界を一時離れ、「社会人野球チームの監督」をしていた3年間を担当記者が綴った本だけに、いろいろと描かれている”秘話”も多いのだが、そこに出てくる監督の姿は「勝負師」としてのそれではなく、「教育者」としてのそれ、である。
『ノムラの考え』を手に行った最初の”講義”で語った言葉、として紹介される、
「我々の仕事は、結果至上主義の世界です。『いい仕事をする』『いい結果を出す』ためには、技術だけを磨こうとする取り組み方だけでは、上達や進歩、成長は大して望めません。『専門家意識』を根底に持つことによって、知識欲や探求欲が旺盛になり、専門家として恥じない人間形成をしていくようになると思うのです。」(52~54頁、強調筆者)
などは、ありとあらゆる世界で通用する発想だろう。
そうやって叩き込んでいった”野村イズム”が、やがてシダックスという寄せ集めのチームの選手たちに浸透し、次々と結果を出していく。そして、そんな日々が、選手だけではなく、一度はプロ野球の舞台から退場を余儀なくされた監督自身をも「再生」させた、という美しいサクセスストーリー。
これまた読み応え十分の一冊だった。
「落合本」「野村本」ともに、当時はまだ”駆け出し”に過ぎなかった担当記者たちが、必死で向き合った取材対象の姿を10年、20年の時を越えて活字化した、という点で共通している。
節々から伝わってくる、取材対象から受けた影響の大きさとそれに向けられた最大限の敬意。
「落合本」では、著者自身の鬱屈した感情が「8年」の月日を経て、次のステップに向けた原動力に変わっていく様も生々しく描かれているし、「野村本」でも、念願の記者になるまでに回り道をした著者の思いや「読売系メディアの記者」の宿命への苦悩が節目節目で描かれている。
いずれの著者も自分とほぼ同世代だけに、あの頃自分は何を考えて生きていたっけな? ということにも思いを馳せながら読み続け、より味わい深さを感じたのは言うまでもない*1。
もちろん、「ノンフィクション」は常にフィクション性を伴う。
特に、これら2冊のような、著者の取材対象者に対する思い入れが極めて強い本となればなおさらなわけで、「落合本」では、多角的な視点で「監督・落合博満」を描くスタイルがとられつつも、「合理的な決断」の裏で消されていった選手やコーチたち、さらには「監督交代」に動いた球団幹部側の声は意図的に捨象されているように見える。
「野村本」にしても、シダックス野球部の戦績(少なくとも都市対抗の舞台においては)が野村監督就任一年目以降年々下降曲線を辿った、という客観的事実への批判的検証は十分になされていないように読める*2。
それぞれの本の著者が読者に伝えようとしているコンセプトは極めて明確で、それがこの2冊の魅力を増している一方、(「ノンフィクション」と謳われつつも)「コンセプトに添わない事実は拾われない」という冷徹なチョイスも徹底されているように思えるだけに、この2冊だけで取材対象者の人物像を形成するのは非常にリスキーで、「ここで描かれなかった部分」に異なる角度から焦点を当てる本が出てくるまで、真の評価は留保されなければならないのかもしれない。
ただ、そういった点を差し引いてもなお、組織の戦略的マネジメントを考えるうえで、さらに自らの生きざまを考えるうえでも、学びが多い本であることは間違いないだけに、まずは秋の夜長お勧め第一弾、ということで書き残しておくことにしたい。