それはジェットコースターのように。

年度末が近付いていることもあって、なかなか慌ただしさから解放されない。

ちょうど2年前は、寒さで開花が遅れたことと人生の転機が重なって久しぶりに美しい桜を堪能する機会に恵まれたし、昨年も新型コロナで事態急変、という状況の下、訪れたつかの間の「凪」のタイミングで桜を愛でることもできたのだが、今年は、いつもより早い開花にこの状況、となると、「気が付けば葉桜」ということも十分ありえそうな気がする。

そんな中、良い陽気が続いて、「すぐ春真っ盛りになる」と思わせながら、夜になると冷え込みが戻ってなかなかコートを手放すことができない今の気候と同じく、世の中の状況も一進一退。

”収束”ムードが強まり、緊急事態宣言の解除も正式に決まってからたったの一週間しか経っていないというのに、全国のあちこちで新型コロナ感染者数は再び増加モードに突入しているし、それは日本だけの特異現象ではなく世界中で起きていることだったりする、というあたり、なかなか根は深いわけで、聖火リレーがつながるはずの道筋が、新型コロナの拡大エリアと重なり、大震災10年に合わせて来月から行われるはずのデスティネーションキャンペーンまで出鼻をくじかれそうな状況になっているのは、何とも皮肉なことというほかない。

そして、そんな世の中に輪をかけて荒れ気味だったのが今週の株式市場。

今月に入ってから先週までの上げ幅があまりに異常だったから、さすがにどこかで調整が入るだろうと思ってはいたが、日経平均の数字だけ追っても、月曜日に600円超下げ、火曜日に200円近く、水曜日に再び600円近く下げて、2週間分くらいの上げが全部吹き飛んだところで、ここ2日間は300円超、400円超上げて戻す、という実にエキサイティングな展開。

一般市民がこういう時に手を出してもなにも良いことはない、というのはこれまでの経験則で重々分かっているだけに、”見守り”を決め込んでいたが、連日、自分のポートフォリオの含み損益が、サラリーマン時代の手取り月収分くらいの上げ下げを繰り返すのを見てしまうと、心穏やかであるはずもなく・・・。

未だに「実態と乖離した相場」などとぼやく人々を時々見かけるが、ここしばらくの間に開示された資料を見ても、その多くはこのタイミングでの通期上方修正だったり増配だったりするし、足元の1‐3月期と次の4-6月期の各社の損益が8~9割方の会社で歴史的な対前年比プラスを記録することも明らかなだけに、言われるほどの”乖離”相場ではないだろう、というのが自分の意見だったりもするが、だからと言ってさらに買い上げるタイミングか、と言われれば「そこまでの勇気はない」という回答にならざるを得ないのも確か。

おそらく、来週になってもこのエキサイティングさは変わりそうもなく、優待目当ての買いの後に、権利落ち、月末精算で一気に下げる、という展開は大いに予想されるところなのだが、果たしてそこで買い向かう根性を発揮できるかどうか・・・。

どんなにスリルがあっても、最後はちゃんとスタート地点に戻ってくる本物の”ジェットコースター”とは異なり、これは、下手をすれば軌道を外れてどこかに飛んで行ってしまうかもしれないような危うさまで秘めた”博打”だけに、今は少しでも穏やかにソフトランディングしてくれることを、ただ願うばかりである。

江戸の仇もカリフォルニアの仇も討たせてくれなかった大阪地裁。

昨年、知財高裁の判決を最高裁が大胆にひっくり返して話題になったのが「ポリイミドフィルム製品製造機械装置」をめぐる損害賠償債務不存在確認等請求事件だった。

当時の衝撃は以下のエントリーに記したとおり。

k-houmu-sensi2005.hatenablog.com

もっとも、最高裁が否定したのは特許権者(株式会社カネカ)と販売先の間の確認請求だけで、この事件の一審原告・ライセンシー(株式会社ヒラノテクシード)の一審被告・特許権者(株式会社カネカ)に対する確認請求は、知財高裁の差し戻し判決により、今でも東京地裁に係属しているはずである。

そんな中、同じ三当事者が構図を変えて争っていた事件の判決が、今度は「大阪」で出されている。

大阪地判令和3年1月21日(平成30年(ワ)第5041号)*1

原告:ピーアイ アドバンスト マテリアルズ カンパニー リミテッド
被告:株式会社カネカ
補助参加人:株式会社ヒラノテクシード

本件の原告は、昨年、別件訴訟に補助参加人として関与していた「販売先」で、同じ被告を相手に原告と補助参加人が入れ替わる構図。さらに、事件名は「損害賠償等請求事件」だが、請求の趣旨に最初に出てくるのは、

1 原告が別紙1(機械装置目録)記載の機械装置を使用して別紙2(製品目録)記載のポリイミドフィルムを製造及び販売したことに関し,被告が,原告に対し,別紙3(特許権目録)記載の各特許権侵害の不法行為に基づく損害賠償請求権をいずれも有しないことを確認する。(1頁、強調筆者、以下同じ。)

で、要は当事者を変えた債務不存在確認訴訟再び・・・という事件である。

提訴されたのが平成30年だから、確認請求をすべて却下した別件訴訟(東京地裁)の第一審を受け、当事者を変えて「大阪」でわざわざ起こしたのか・・・?などといろいろ想像してしまうのだが、元々原告・被告間が紛争状態にあるわけではなかった別件訴訟とは異なり、今回は、米国で原告・被告として争った当事者間での債務不存在確認請求、ということで、まさに「アメリカの仇を大阪で討つ」と言わんばかりの訴訟だった。

別件訴訟のエントリーでも触れた*2が、本件訴訟の被告が原告らを訴えた米国訴訟は、以下のような経緯を辿った末に、原告側の勝利で確定している。

2010年7月26日 米国テキサス州東部地区連邦地方裁判所に訴訟提起
 → その後,カリフォルニア州中部地区連邦地方裁判所に移送。
2015年11月19日 陪審評決
2017年5月24日 カリフォルニア州中部地区連邦地方裁判所が、本件各製品につき本件米国特許権の侵害を認めると共に,本件原告等に対し,本件被告に対する逸失利益592万0389.50米ドルの支払いを命じる判決
2017年12月13日 控訴提起
2019年3月15日 米国連邦巡回控訴裁判所が連邦地裁判決を支持する判決
2019年6月18日 再審理申立てが退けられる。
 → 米国判決確定

したがって、本件被告にしてみれば、今回の確認請求のうち米国特許に係る部分は、「既に終わった話」の蒸し返しでしかなく、よって、

「日本の裁判所が審理及び裁判をすることが当事者間の衡平を害し,又は適正かつ迅速な審理の実現を妨げることとなる「特別の事情」(民訴法3条の9)があると認められるから,却下されるべきである。」(8頁)

というのが本件被告側の主張。

一方、本件原告は、別件米国訴訟の存在を理由に日本の裁判所の管轄権が否定されるべきではない、日本の裁判所で審理することが必要かつ適切である、本件訴えが別件米国訴訟の重複・蒸し返しに当たらない、別件米国判決は日本において承認されない、といった理由を挙げて、「特別の事情」は存在しない、と主張する。

本件原告側のもう一つの請求、 被告による別件米国訴訟の提起及び追行につき,原告の被告に対する不法行為又は債務不履行に基づく損害賠償請求に関しても準拠法が主要な争点の一つとなっているから、これはもう知財事件というよりは、完全に国際私法プロパーの領域の事件の様相を呈している。

そんな状況で、大阪地裁知財部は米国特許に係る債務不存在確認請求に関して、以下のような判断を下した。

被告の主たる事務所は日本国内にあることから,本件各請求に係る訴えのいずれについても,日本の裁判所が管轄権を有する(民訴法3条の2第3項)。」
「もっとも,その場合でも,事案の性質,応訴による被告の負担の程度,証拠の所在地その他の事情を考慮して,日本の裁判所が審理及び裁判をすることが当事者間の衡平を害し,又は適正かつ迅速な審理の実現を妨げることとなる特別の事情があると認めるときは,裁判所は,その訴えの全部又は一部を却下することができる(同法3条の9)。そこで,本件各請求に係る訴えにおいて,それぞれ,上記「特別の事情」があると認められるかについて,以下検討する。」(24頁)

「請求1-1は,別件米国訴訟と同一の訴訟物に関するものである。また,本件において,本件各装置が本件米国特許に係る発明の実施品であること,本件各装置が参加人から SKC 等に販売されたこと及び原告が本件各装置を使用して本件各製品を製造したことについては,当事者間に争いはない。本件での主要な争点は,本件許諾契約により参加人が許諾された本件実施権の範囲,すなわち,参加人の販売先に関する制限の存否といった本件許諾契約の解釈である。他方,別件米国訴訟においても,その経過(前記イ(イ))から,消尽及び黙示のライセンスの抗弁は主要な争点として位置付けられ,本件許諾契約の解釈につき,日本法の専門家の各意見書及び関係者の供述書並びにそれを踏まえた主張の提出,陪審公判での証人尋問といった形で,原告等と被告とが主張立証を重ね,陪審及び加州裁判所の判断の対象となっている。その意味で,本件と別件米国訴訟とは,争点を共通にするものといえる。しかも,別件米国訴訟の提起は平成22年7月であり,本件の訴え提起までの約8年間,こうした主張立証が行われ,その結果として,別件評決及び加州裁判所の別件米国判決に至ったものである。なお,この間,原告が日本において請求1-1に係る訴えのような訴訟を提起することを妨げる具体的事情があったことはうかがわれない。」
「これらの事情を総合的に考慮すると,別件米国訴訟につき加州裁判所の別件米国判決がされるまでは,原告は,日本において請求1-1に係る訴えのような訴訟を提起する考えはなく,別件米国判決を受けたことを契機に,その結論を覆すべく請求1-1に係る訴えを提起したものと理解される(別件米国判決の基礎となった証拠方法の重大な瑕疵等を度々指摘する原告の主張からも,原告のこのような意図がうかがわれる。)。他方,請求1-1に係る本件の訴えに応訴すべきものとした場合,被告は,時期を異にして別件米国訴訟と共通する主張立証活動を重ねて強いられることとなるのみならず,別件米国判決の結論を本件において覆そうとする以上,原告は別件米国訴訟では行わなかった主張立証を追加的に行う蓋然性が高いと見られるところ,これに対する対応を強いられることで,被告にとっては,更なる応訴の負担を新たに生じる蓋然性も高いといえる。そうすると,本件許諾契約はいずれも日本法人である被告と参加人との間で締結されたものであり,関連する証拠も,多くは日本語で作成されていること又は日本語を解する者である蓋然性が高く,その所在も多くは日本国内にあると見られることを考慮しても,請求1-1に係る訴えについては,日本の裁判所が審理及び裁判をすることが当事者間の衡平を害する特別の事情(民訴法3条の9)があると認められる。」(31~32頁)

本件原告が、(日本で反訴しようと思えばできたにもかかわらず)敗色濃厚になるまでは、対応を海の向こうで起こされた訴訟一本に絞っていたことは否定しようがない事実で、「外資」(韓国)系企業である本件原告にとっては米国も日本も「外国」であることに変わりがないことを考えると、8年かけた末の米国の負けを「取り返す」ために、日本がライセンス契約地であることを奇貨として紛争を蒸し返した、という見方も十分あり得るところだとは思う。

ただ、仮にこの当事者が日本企業だったとしても、米国で訴訟を起こされ、その対応に追われている中、日本で訴訟を「打ち返す」には相応の気力と経営体力がいるのは間違いないところ。

大阪地裁は、米国での陪審評決の瑕疵を指摘する本件原告の主張に対しても、

「別件米国判決が日本において承認されないとする根拠として,原告は,別件米国判決が重大な瑕疵のある証拠に依拠するものであることを指摘する。しかし,そのような誤りは本来的には米国の訴訟手続を通じて是正されるべきものであるところ,かえって,別件米国判決は,CAFC においても承認され,確定している。このことと,再審事由(民訴法338条)に該当するような具体的な事情もないことに鑑みると,日本法に照らしても,原告の上記指摘は別件評決及び別件米国判決の依拠する証拠評価に対する不満をいうにすぎず,これをもって外国の確定判決の効力が認められる要件である「判決の内容及び訴訟手続が日本における公の秩序又は善良の風俗に反しないこと」(民訴法118条3号)を欠くとはいえない。」(32~33頁)

と、傍論ながら本件原告の希望を打ち砕くような判示まで行い、諸々の結果として本件原告の債務不存在確認請求を却下した。

客観的に見ればまぁ仕方ないか、と思うところはありつつも、企業内の実務家の立場で、こういう場面でどういうアクションを起こせるだろうか、と考えると、「日本企業間のライセンス契約の解釈の問題なのに、日本の裁判所で審理さえしてもらえない」ということに、いろいろ考えさせられるところはある*3

なお、日本特許に基づく債務不存在確認請求に対しては、日本の裁判所の裁判管轄を認めたものの、

「被告による別件米国訴訟の提起という事情を踏まえても,今後,被告が原告に対して原告の日本の顧客に対する本件各装置の販売等につき本件日本特許権侵害の不法行為に基づく損害賠償請求を行う可能性は,実際上ないか著しく乏しいと見るのが相当である。そうすると,本件は,現に原告の法律的地位に不安又は危険が存在し,これを除去するため被告に対し確認判決を得ることが必要かつ適切な場合と認めることはできない。これに反する原告の主張は採用できない。」(35頁)

として、確認の利益を欠くことをもって請求却下。

また、別件米国訴訟の提起及び追行に係る損害賠償請求のうち、不法行為に基づく請求については、日本の裁判所の裁判管轄を認めた上で、通則法22条1項により、「日本法により不法行為と言えるか」を検討し、

民事訴訟を提起した者が敗訴の確定判決を受けた場合に,当該訴えの提起が相手方に対する違法な行為といえるのは,当該訴訟において提訴者の主張した権利又は法律関係が事実的,法律的根拠を欠くものである上,提訴者が,そのことを知りながら,又は通常人であれば容易にそのことを知り得たといえるのに敢えて訴えを提起したなど,訴えの提起が裁判制度の趣旨目的に照らして著しく相当性を欠くと認められるときに限られる。」(37頁)

という昭和63年最高裁判決を引いた上で請求を棄却しているし、債務不履行を根拠とする請求については、

「本件許諾契約の締結に際し,上記第三者の存在及びこれに対する本件各特許権の不行使が想定されているのであれば,本件許諾契約の内容として又はこれとは別個の合意として,参加人による譲渡が許容される第三者の範囲や参加人の被告に対する譲受人に関する事項の報告義務のように,被告が予想外の事業上の不利益を受けることを回避すること等を目的とする具体的な定めを明示的に設けることは,必要不可欠かつ合理的と考えられる。にもかかわらず,本件許諾契約にそのような定めはなく,また,他の明示的な合意もなく,さらに,黙示的にであれ,上記のような事項について当事者間に何らかの取決めがあったことをうかがわせるに足りる具体的な事情も見当たらない。そうすると,参加人が機械装置の製造業者であること(前記第2の1(1)イ)などから,本件許諾契約の当時,参加人が本件各特許発明を実施して製造した装置が被告以外の第三者に譲渡等されることが契約当事者間で予想されたとしても,少なくとも当該第三者と被告との法律関係については,本件許諾契約によって何ら定められていないものと理解するほかない。」(39~40頁)

という理由で請求を棄却している。

結果的には、理由は違えど全ての請求に関して棄却、却下で一矢を報いる隙すら与えなかった大阪地裁。

おそらくこの日本国内での争いはまだまだ続くような気もするのだが、いろいろと考えさせられる事件だけに、今後の上級審の審理においても、引き続き、裁判所がじっくりと検討した跡を見てみたいものだ、と思うところである。

*1:第26部・杉浦正樹裁判所、https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/100/090100_hanrei.pdf

*2:といっても、@tanakakohsuke氏のエントリーをそのまま引用しただけなのだが・・・。

*3:本件を自分たちに置き換えて考えるなら、インド国内でのライセンス契約に基づいて作られた製品を米国で売ったら特許権侵害で訴えられた、という時に、「米国での訴訟と平行してインドでも訴訟を起こす」という選択ができるかどうか、という例え話になるわけで、この場合に「当然やる」という人が果たしてどれだけいるのだろうか・・・。

世代交代は一瞬。

どんな世界でも「主役が変わる」タイミングはある。そしてそれは一瞬の出来事だったりもする。

首都圏緊急事態宣言下、最後の週末となった中央競馬の開催で起きた出来事。

土曜日、阪神競馬場で10回騎乗して5勝、日曜日、中京競馬場で11回騎乗して6勝。

合計11勝の固め打ちで、混戦模様だった日本人リーディングから頭一つ抜け出した
松山弘平騎手がまさにその主役だった。

松山騎手と言えば、昨年もこの時期、ドバイに振り回されたルメール騎手や他の日本人上位騎手を横目に勝ち星を積み重ね、歴史的牝馬無敗三冠の第一歩を踏み出したのはまだ記憶に新しいところ。

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その後は、他の先輩ジョッキーたちの巻き返しもあって、デアリングタクトでのGⅠ2勝こそあるものの、どちらかと言えば尻すぼみ感もあったりしたのだが、それでも堂々127勝。

今年も、出だしこそ何となくもたつき加減のように見えたが、それでもヒシイグアスで中山金杯中山記念と重賞タイトルを奪い、勝ち星も今週末の量産で39勝まで伸びた。

この週末だけ見てもほぼ全レースに騎乗、11勝のうち10頭が3番人気以内と、騎乗機会にも乗り馬にも恵まれているのは確かだが、それ以上に本人が「乗れている」のは間違いないところで、長年、武豊騎手を筆頭に、福永騎手、川田騎手と同世代競争を勝ち抜いたプレイヤーたちが長年存在感を発揮して上位を独占していたこの世界で、遂に世代の壁をぶち破ってくれそうな予感がする*1

もちろん、大一番になれば、先に挙げた”看板”日本人騎手たちに加え、ルメール騎手も当然主役に入ってくるし、騎乗機会は少なくとも大舞台では輝く池添、浜中、ミルコ・デムーロといった往年の名騎手たちとも戦わないといけないから、まだまだ「名実ともにトップ騎手」の域に辿り着くまでには一山ふた山あるとは思うのだけど、潮目が変わるとしたらこのシーズンではないかな、という予感はする。

そして「馬」に目を移せば、ここに来て俄然存在感を発揮しだしているのが
種牡馬・モーリスである。

思えば2歳戦の出だしでは、人気を集めながらも「期待外れ」となるケースが多かったし、結果的に獲得賞金では同じ新種牡馬ドゥラメンテに、重賞タイトルでも同じく新種牡馬ミッキーアイルに一歩先を行かれる形になっていたのだが、年が変わってからは、年明け早々にシンザン記念で初重賞勝利。さらにこのクラシックトライアルシーズンになって、シゲルピンクルビー、ルークズネストという重賞勝ち馬を次々と送り出してサイヤーランキング10位以内を確保。

自分たちの世代にとっては、競馬場を自分の血一色で染め、「その前のトップサイヤーはどの馬だったっけ?」と思い出すことすら難しくさせたサンデーサイレンス(とその第1世代の子供たち)のインパクトが強すぎるから、その後、どれだけ”後釜”の種牡馬が出てきても、何となく”薄い”印象になってしまうし(ディープインパクト種牡馬として出てきた時もその印象は変わらなかった)、モーリスだって、そういった過去の「新主役」たちが歩んだ道からそんなに踏み出しているわけではない。

ただ、父系を遡った時に出てくるのが、スクリーンヒーローグラスワンダーSilver Hawkという異能の系統だったり、母父にカーネギーが入っていたり、と、これまで20年以上日本の競馬場を席捲してきた主流派血脈からは、ちょっと距離を置いた血筋だったりもするだけに、何かをひっくり返せるとしたらこの馬しかないだろう、という予感もする。

騎手と同様、「次の主役」と期待を集め始めてからが本当の「壁」にぶち当たることも多いのがこの世界の常で、ブレイクするなら一気にいかないと・・・というところではあるのだけれど、これまた今年のうちに、どこかのタイミングで血の爆発があるのかないのか。

シーズンが終わった時に「変化」を感じるのか、それとも「今年もやっぱり上位が強かった」になるのか、今の時点では何とも分からないところはあるが、今のところは何となく前者を期待しつつ、来週からの「解禁」幕開けシーズンを楽しみに待ちたいと思っている。

*1:残念ながら、その裏で武豊騎手がゲートで負傷し、春のGⅠシーズンが危うくなるような危機に瀕していたりもするのだが・・・。

本当に大変なのは、たぶんこれからなのだろうと思う。

首都圏の緊急事態宣言解除を控えた週末。

心配された雨も土曜日のうちには降らず、気温も程よい感じ。

だからなおさら・・・だったのか、街の人出はいつになく多く、夕方過ぎの飲食店も、”ごった返す”という表現がしっくりくるような混雑ぶり。一瞬、「もう解除されるんだっけ?」と調べなおしたくなるくらいの状況だった。

もっとも、これは「宣言が解除されたから」というよりは、あまりに長すぎた「緊急事態の平常化」の影響によるところが多かったのかもしれない。

元々、今回の緊急事態宣言の発出に際しては、必要以上に「自粛」し過ぎた昨春の反省がかなり強めに出ていて、当初から「極力影響は限定的に」という腰が引けた当局のスタンスが垣間見えていたようなところはあったし、実際、年末から年始にかけて「どこまで増えるんだ・・・」とハラハラさせられた足元の状況は、

「飲食店 20時強制閉店」

という、事実上、今回の宣言下では唯一に等しい策を打ったことで劇的に改善されたのも確か*1

逆に言えば、それ以外のところでは、通勤はそれなり、ランチの人出もそれなり、休日も近場の行楽地やらお店やらではそれなりの人出、という状況がゆるゆると続いていたわけで、特に新規感染判明者数が落ち着きを見せた2月以降は、「飲食店の夜間営業」を除けば、宣言発出前と何ら変わらない、というかむしろ人々の動きが活発化したような印象すら抱くような状況だった。

それでも感染判明者数は横ばいにとどまり、重症患者数は減少して、医療機関の受け入れ態勢にも多少の余裕はできた、となれば、「緊急事態宣言を解除する」という判断自体は、まぁそれでよかった、というか、他に選択肢もなかったのだろう、と思っているところなのだが・・・

*1:一部で「なぜ飲食店だけが!?」的なトーンで抵抗を示すような論調もあったが、この2カ月ちょっとの状況に接すれば、”集団での飲み食い”以外の何かに原因を求める方がどうかしてる、とも思うわけで、昨年の春に少なからず影響を受けた他の業界、業種の関係者の中には「最初からこうすればよかったじゃないか」とか、「20時までと言わず、居酒屋を全面的に営業停止にしておけばもっと早く根絶できたんじゃないか」と思っている人も決して少なくないはず。自分も「飲食店」というアバウトなカテゴリー分けで、団体向け居酒屋だけでなく、個人、少人数客メインの店まで20時閉店にされてしまったことには強い違和感を抱いたものの、”ハコ系”の店に対しては逆にもう少し強い制約を課しても良いのではないか、と、未だに思っている。仮に補償金額を今の倍以上に増やしたとしても、ターゲットを絞って規制をかければ、全体では公費の持ち出しを減らすことができるはずだから。

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2年ぶりの「球春」とその片隅のエピソード。

気が付けば、春のセンバツ高校野球が始まっていた。

昨年は未知の感染症がもたらした混乱の中、球児たちの夢が幻と消える、という残念なことになってしまったわけだが、今年は緊急事態宣言解除を目前に控えた追い風ムードの中での開幕。

加えて、連日伝えられるプロ野球のオープン戦のニュースが、”戻りつつある日常”の雰囲気を感じさせてくれる。

もう何年も興味の枠外に消えていた「野球」というスポーツへの関心を取り戻した理由は、挙げればそれなりにあるのだが*1、やはり一番の理由は、他のスポーツ、特に国際的なスポーツイベントが軒並み中止、延期に追い込まれる中で、

「昔からあるローカルスポーツ」

の存在感が相対的に高まり、加えて、試合のテンポもペナントレースの構図も昔からそんなに変わっていないがゆえに*2、しばらく見ていなかった人間でも安心して見られる、ということが大きかった気がする。

喩えて言えば、「こんな家にいられるかよ!」と都会に出ていった若者が、いろいろ大変な目にあった末に、戻った実家の布団で一息ついた・・・*3といった感じだろうか。

いろんなことが変わってしまっていた世の中で、少なくともテレビやラジオで接している限りはそれまでと何ら変わらない世界がある、ということだけで昨年は貴重だったのだ。

で、その流れを引き継ぐような形で、今年も何となく開幕が気になっている。

良くも悪くも「巨人」を中心に回っていた歴史の記憶が染みついている世代の人間にとっては、Numberの特集がいきなり「パ・リーグ」から始まる、というのが未だに新鮮だし、時代が変わったところだな、とも思うのだが*4、確かにページをめくれば、日本球界8年ぶり復帰の田中将大投手にはじまり、投手陣だけを見てもスケールの大きな選手たちの記事が並ぶ。

自分の場合、どうしてもセ・リーグの方に気になるチームがあって、そこのルーキーがオープン戦からホームランを打ちまくっている、というニュースなどに接してしまうと、いわゆる「持ち上げられて落とされる」いつものパターンにはまってしまうのではないかな、とそわそわしてしまうから、そこに半分くらい関心を持っていかれている気もするのだが、それでも、今、お金を出してみたいカードは?と聞かれた時に挙げるカードの中に、セ・リーグの試合は多分出てこないだろう。

それくらいリーグ間のレベル差が開いてしまっている中で、ここに至るまでの歴史も紐解きながら、「制すれば日本一」の戦国パ・リーグの行く末を予測するのもなかなか楽しかったりする*5

実際に球場まで足を運ぶような機会があるのかどうかは分からないけど、新型コロナがなければ取り戻せなかった縁だけに、今年も試合を追いかけるのをささやかな楽しみとして、自分の中に温めておきたいと思っている。

なお、今回、Number誌に掲載された記事の中で、現役の選手について書かれた記事以上に印象に残ったのが、鈴木忠平氏が書かれた「永遠の100マイル。」という記事(56頁)。

90年代の千葉ロッテマリーンズで燦然と輝いていた剛腕・伊良部秀輝投手が覚醒していく姿を、バッテリーを組んでいた青柳進捕手や、彼にバトンを渡した牛島和彦投手、そして同期生だった大村巌外野手の証言を通じて描くノンフィクションだが、実に生き生きとした”好漢・伊良部”の姿が浮かび上がってくるだけに、その後の彼をめぐる様々な不幸な出来事と重ね合わせると、涙なしには読めないし、10年前に受けた衝撃と切なさも改めて蘇ってくるような記事だった。

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自分は、彼の大きな後ろ姿を外野スタンドから眺めていただけ。それでも、彼が投げる試合は、勝っても負けても爽快だった。

気が付けばマリンスタジアムでの最後のシーズンからはや四半世紀。今年は、タイプこそ全く違えど、しばらく不在だった”強風を切り裂く快速球”の持ち主が、そろそろベールを脱ごうとしているシーズンだけに、塗り替えられる球速の記録とともに、再び”伊良部”の名前が蘇ってくれることを願わずにはいられないのである。

*1:前にも何かのエントリーで書いた気がするが、今更ながらスポーツナビのアプリを入れて、結果速報はプッシュ通知で来る、ダイジェスト映像は見たい時に見られる、となったのはかなり大きい要素だったと思う。

*2:もちろん、選手の顔ぶれは変わっているし、技術面、戦略面でも変化は遂げているのだが、独特の試合運びの間合いやベンチワーク、実況中継のテンポ、といったものは、本質的にはあまり変わっていない気がする。

*3:なお、残念ながら自分には、そのような「実家」は存在しない。

*4:ちなみに次号はさすがに「原巨人」の特集を組むようである。

*5:「昔からの名前」ではあるが、楽天の投手陣(先発に田中将、涌井、岸、則本、ブルペンを見回せば、松井裕樹に加えて牧田投手の名前もある)の充実ぶりは、久々の快進撃を予感させるに十分かな、と思ったりもしている。

知財高裁の緻密さが引き出したロクラクⅡ法理の正しい使い方~音楽教室 vs JASRAC 控訴審判決当日の読後感。

今日は何もなければ、ゆるゆると「緊急事態宣言解除」の話でも書こうかと思っていたのだが、夕方に流れたニュースで事態は一変した。

日本音楽著作権協会JASRAC)が音楽教室から著作権使用料を徴収するのは不当として、音楽教室を運営する約250事業者がJASRACに徴収権限がないことの確認を求めた訴訟の控訴審判決で、知財高裁(菅野雅之裁判長)は18日、一審・東京地裁判決の一部を変更し、生徒の演奏について徴収権を認めなかった。教師の演奏は徴収権を認めた。」(日本経済新聞電子版2021年3月18日19時35分更新、強調筆者、以下同じ。)

昨年の2月に出された第一審判決を見た時は、随分とモヤモヤした気分になったし*1、その後出された評釈や、学者、実務家の研究会、シンポジウム等での発言の中にも、地裁判決に両手を挙げて賛成、というものはほとんど見かけなかった気がする*2

もちろん、多くの方々が唱えた”違和感”を分析していくと、「心情的に結論には賛成したくないが、今の法解釈と最高裁判例による限り、こうなるのもやむを得ないのでは?」というトーンのものから、「いやいや、これは知財高裁にきちんと判断してもらわないと困る」というものまで、それなりの温度差はあったように見受けられたのだが、共通していたのは、

「こんなにバッサリと一括りに『事業者による演奏兼侵害』という結論を出していいのか?」

という思いだったような気がして、特に本件では、当初から原告(控訴人)側が、かなり細かく場合分けをして請求を立てていたこと盛り、なおさら東京地裁の”十把一かけら感”が気になったところはあった。

そんな中、請求の一部、とはいえ、地裁判決をひっくり返した知財高裁の判決。

音楽教室を守る会」のウェブサイトに早速判決文がアップされたこともあり(知的財産高等裁判所で判決が言い渡されました | 音楽教育を守る会)、今回も夜を徹して紹介に努めることにしたい。

知財高判令和3年3月18日(令和2年(ネ)10022号)*3

ざっと見た限りでは、一審判決を踏まえた補充主張はなされているものの、請求の内容、争点のいずれにも大きな変化はなく、名実ともに”リベンジマッチ”となった第2ラウンド。

現行著作権法の制定過程を踏まえた著作権法22条の解釈論に始まり、著作権法22条をめぐる利用主体の認定と「公衆に直接」「聞かせることを目的」の各要件の解釈、2小節以内の演奏、消尽の成否、最後には権利濫用、と一度見た論点が並ぶ。

各論点には引き続き興味深い主張が散りばめられているものの、やっぱり・・・というべきか、僅かな補充主張への判断が追加されただけで、原審判決がほぼそのまま引用された論点も多い。

だが、一貫して”主戦場”となっていた「利用主体の認定」と、著作権法22条の各要件の解釈、あてはめに関しては、結論の変化に直結する、非常にエポックメイキングな判断がなされている。

特に注目すべきは、判決書39頁から始まる「生徒による演奏行為について」に係る判断である。

ア 生徒による演奏行為の本質について
「引用に係る原判決の第2 の 3 (1) ア 及び前記(2)アに照らせば,控訴人らは,音楽を教授する契約及び楽器の演奏技術等を教授する契約である本件受講契約を締結した生徒に対して,音楽及び演奏技術等を教授することを目的として,雇用契約又は準委任契約を締結した教師をして,その教授を行うレッスンを実施している。そうすると,音楽教室における生徒の演奏行為の本質は,本件受講契約に基づく音楽及び演奏技術等の教授を受けるため,教師に聞かせようとして行われるものと解するのが相当である。なお,個別具体の受講契約においては,充実した設備環境や,音楽教室事業者が提供する楽器等の下で演奏することがその内容に含まれることもあり得るが,これらは音楽及び演奏技術等の教授を受けるために必須のものとはいえず,個別の取決めに基づく副次的な準備行為や環境整備にすぎないというべきであるから,音楽教室における生徒の演奏の本質は,あくまで教師に演奏を聞かせ,指導を受けることにあるというべきである。」
「また,音楽教室においては,生徒の演奏は,教師の指導を仰ぐために専ら教師に向けてされているのであり,他の生徒に向けてされているとはいえないから,当該演奏をする生徒は他の生徒に「聞かせる目的」で演奏しているのではないというべきであるし,自らに「聞かせる目的」のものともいえないことは明らかである(自らに聞かせるためであれば,ことさら音楽教室で演奏する必要はない。) 被控訴人は,生徒の演奏技術の向上のために生徒自身 が自 らの又は他の生徒の演奏を注意深く聞く必要があるとし, 書証(略)や証言(略)を援用するが,自らの又は他の生徒の演奏を聴くことの必要性,有用性と,誰に「聞かせる目的」で演奏するかという点を混同するものといわざるを得ず,採用し得ない。」
(以上、39~40頁、強調筆者、以下同じ。)


ウ 演奏主体について
「(ア)前述したところによれば,生徒は,控訴人らとの間で締結した本件受講契約に基づく給付としての楽器の演奏技術等の教授を受けるためレッスンに参加しているのであるから,教授を受ける権利を有し,これに対して受講料を支払う義務はあるが,所定水準以上の演奏を行う義務や演奏技術等を向上させる義務を教師又は控訴人らのいずれに対しても負ってはおらず,その演奏は,専ら, 自らの演奏技術等の向上を目的として自らのために行うものであるし,また,生徒の任意かつ自主的な姿勢に任されているものであって,音楽教室事業者である控訴人らが,任意の促しを超えて,その演奏を法律上も事実上も強制することはできない。確かに,生徒の演奏する課題曲は生徒に事前に購入させた楽贈の中から選定され,当該楽譜に被告管理楽曲が含まれるからこそ生徒によって被告管理楽曲が演奏されることとなり,また,生徒の演奏は,本件使用態様 4 の場合を除けば,控訴人らが設営した教室で行われ,教室には,通常は,控訴人らの費用負担の下に設置されて,控訴人らが占有管理するピアノ,エレクトーン等の持ち運び可能ではない楽器のほかに,音響設備,録音物の再生装置等の設備がある。 しかしながら, 前記アにおいて判示したとおり,音楽教室における生徒の演奏の本質は,あくまで教師に演奏を聞かせ,指導を受けること自体にあるというべきであり,控訴人らによる楽曲の選定,楽器,設備等の提供,設置は,個別の取決めに基づく副次的な準備行為,環境整備にすぎず,教師が控訴人らの管理支配下にあることの考慮事情の一つにはなるとしても,控訴人らの顧客たる生徒が控訴人らの管理支配下にあることを示すものではなく,いわんや生徒の演奏それ自体に対する直接的な関与を示す事情とはいえない。このことは, 現に音楽教室における生徒の演奏が, 本件使用態様 4 の場合のように,生徒の居宅でも実施可能であることからも裏付けられるものである。以上によれば,生徒は,専ら自らの演奏技術等の向上のために任意かつ自主的に演奏を行っており,控訴人らは,その演奏の対象,方法について一定の準備行為や環境整備をしているとはいえても, 教授を受けるための演奏行為の本質からみて,生徒がした演奏を控訴人らがした演奏とみることは困難といわざるを得ず,生徒がした演奏の主体は,生徒であるというべきである。」(以上、41~42頁)
「(イ)これに対して, 被控訴人は, 引用に係 る原判決の第3 の 2 〔被告の主張〕( 1)エ(イ)及び(ウ)並びに前記第 2 の 5 (2)ア(ウ)のとおり,音楽教室における生徒の演奏は,①控訴人らとの間で締結した本件受講契約におけるレッスンの一環としてされるものであり,レッスンの受講と無関係に演奏するものではないこと,②教師の指導の下,教育効果の観点から必要と考えられる場合にその限度でされること,③本件受講契約によって特定されたレッスンで使用される楽譜において課題曲として指定された音楽著作物を,教師の指導・指示の下で演奏することを原則とするものであること,④控訴人らが費用を負担して設営した教室において,控訴人らの管理下にある音響設備,録音物の再生装置等,録音物,楽器等を利用してされるものであること,⑤音楽教室事業が音楽著作物を利用せずに楽器の演奏技術を教授することは不可能であることに照らすと,本件受講契約に基づき支払う受講料の中に,音楽著作物の利用の対価部分が含まれていることに照らせば,生徒の演奏についても音楽教室事業者である控訴人らによる管理・支配及び利益の帰属が認められ,演奏の主体は控訴人らである旨主張する。しかしながら,上記①ないし④において控訴人が主張する事情から直ちに,生徒が任意にする演奏の主体を音楽教室事業者であると評価する ことができないことは,前記説示から明らかである。なお,被控訴人は, 前記第 2 の 5 (2 )ア(イ)の とおり, カラオケ店における客の歌唱の場合と同一視すべきである旨主張するが,その法的位置付けについてはさておくにしても,カラオケ店における客の歌唱においては,同店によるカラオケ室の設営やカラオケ設備の設置は,一般的な歌唱のための単なる準備 行為や環境整備にとどまらず,カラオケ歌唱という行為の本質からみて, これなくしてはカラオケ店における歌唱自体が成り立ち得ないものであるから,本件とはその性質を大きく異にするものというべきである。さらに,上記⑤において被控訴人が主張する事情については, レッスンにおける生徒の演奏についての音楽著作物の利用対価が本件受講契約に基づき支払われる受講料の中に含まれていることを認めるに足り る証拠はないし,また,いずれにしても音楽教室事業者が生徒を勧誘し利益を得ているのは,専らその教授方法や内容によるものであるというべきであり,生徒による音楽著作物の演奏によって直接的に利益を得ているとはいい難い。したがって, 被控訴人の上記主張はいずれも採用できない。」(以上、42~43頁)

随分長くなってしまったが、今回の知財高裁判決のハイライトになるのはまさにここだから、どれだけ紙幅を割いても惜しくはない。

そして、地裁判決に比べると全体的にしっかりとした論証がなされていて、あてはめも丁寧、だから同じ結論でも説得力が増しているように見えるこの判決のまさに真骨頂、というべきポイントがここにある。

本件全体の判断基準として、裁判所が「ロクラクⅡ事件最高裁判決」(最一小判平成23年1月20日民集65巻1号399頁)を使った、という点では、本判決も東京地裁判決も同じであり*4、「教師による演奏行為」に関しては、以下のような「規範的観点」からの評価により、控訴人らを演奏主体として認定している。

「控訴人らの音楽教室のレッスンにおける教師又は生徒の演奏は,営利を目的とする音楽教室事業の遂行の過程において,その一環として行われるものであるが,音楽教室事業の上記内容や性質等に照らすと, 音楽教室における演奏の主体については,単に個々の教室における演奏行 為を物理的・自然的に観察するのみではなく,音楽教室事業の実態を踏ま え,その社会的,経済的側面からの観察も含めて総合的に判断されるべきであると考えられる。このような観点からすると,音楽教室における演奏の主体の判断に当たっては,演奏の対象,方法,演奏への関与の内容,程度等の諸要素を考慮し,誰が当該音楽著作物の演奏をしているかを判断するのが相当である。」(29頁)

「前記アのとおり,控訴人らは,生徒との間で締結した本件受講契約に基づく演奏技術等の教授の義務を負い,その義務の履行のために,教師との間で雇用契約又は準委任契約を締結し,教師は,この雇用契約又は準委任契約に基づく義務の履行として,控訴人らのために生徒に対してレッスンを行っているという関係にある。そして,教師の演奏(録音物の再生を含む。)は,前記イのとおり,そのレッスンの必須の構成要素であり,音楽教室事業者である控訴人らが音楽教室において教師の演奏が行われることを知らないはずはないといえるし,そのレッスンにおける教師の指導は,音楽教育の指導として当然の手法であって,本件受講契約の本旨に従ったものといえる。また,音楽教室事業者である控訴人らは,その事業運営上の必要性から,雇用契約を締結している教師については当然として,準委任契約を締結した教師についても,その資質,能力等の管理や,事業理念及び指導方針に沿った指導を生徒に行うよう指示,監督を行っているものと推認され,控訴人らに共通する事実のみに従った判断を求める本件事案の性質上, これに反する証拠は提出されていない。さらに,教師の演奏が行われる音楽教室は,控訴人らが設営し, その費用負担の下に演奏に必要な音響設備,録音物の再生装置等の設備が設置され,控訴人らがこれらを占有管理していると推認され,上記同様に,これに反する証拠は提出されていない。」
「以上によれば,控訴人らは,教師に対し,本件受講契約の本旨に従った演奏行為を,雇用契約又は準委任契約に基づく法的義務の履行として求め,必要な指示や監督をしながらその管理支配下において演奏させているといえるのであるから,教師がした演奏の主体は,規範的観点に立てば控訴人らであるというべきである。」(32~33頁)

ただ、一審判決が用いた「教師の指導に従って行われているから、生徒の演奏も原告らの管理・支配下にある」といったような無理な理屈を使わず、「教師」と「生徒」それぞれの演奏行為を素直に観察した上で規範的評価を加えたことで、結論は90度変わった。

知財高裁も、著作権法22条の解釈については、

「演奏権の行使となるのは,演奏者が,①面前にいる個人的な人的結合関係のない者に対して,又は,面前にいる個人的な結合関係のある多数の者に対して②演奏が行われる外形的・客観的な状況に照らして演奏者に上記①の者に演奏を聞かせる目的意思があったと認められる状況で演奏をした場合と解される。」(30頁)

という常識的な見解を採用しており、著作権法30条の4を引っ張り出してきた控訴人側の主張(音楽の著作物としての価値を享受させることを目的とする演奏には当たらない、という主張)は今回も取り入れられるところとはならなかったのだが*5、一方で「生徒による演奏行為」に関しては、

「仮に,音楽教室における生徒の演奏の主体は音楽事業者であると仮定しても,この場合には,前記アのとおり,音楽教室における生徒の演奏の本質は,あくまで教師に演奏を聞かせ,指導を受けることにある以上,演奏行為の相手方は教師ということになり,演奏主体である音楽事業者が自らと同視されるべき教師に聞かせることを目的として演奏することになるから,「公衆に直接(中略)聞かせる目的」 で演奏されたものとはいえないというべきである(生徒の演奏について教師が「公衆」に該当しないことは当事者間に争いがない。また,他の生徒や自らに聞かせる目的で演奏されたものといえないことについては前記アで説示したとおりであり,同じく事業者を演奏の主体としつつも,他の同室者や客自らに聞かせる目的で歌唱がされるカラオケ店(ボックス)における歌唱等とは,この点において大きく異なる。)。」(44頁)

という「念のための付言」まで行っており、ここでも音楽教室側が90度押し戻す形になっている。

個人的な思いだけ言えば、どういう解釈であれ「教師による演奏行為」にまで適法とされる領域が拡大される方が望ましかったような気がするし、仮にそこまで言えないとしても、「権利濫用」の大ナタを振るうことで「ここに来て何で使用料徴収?」という世の中の違和感に真っ向から答えてもらえればなおよかった、という思いはあるので、この点に関して、

音楽教室事業者によって利用される著作物について控訴人が演奏権の管理に着手すること自体は可能であったとしても,本件口頭弁論終結時である令和3年1月より17年以上前の平成15年まで権利行使をしていなかったから,それ以降の著作物の使用料も請求できなくなるとする控訴人らの立論は,それ自体,そもそも権利不行使の事実と権利失効の効果が整合しているようには解し得ない権利の単純な不行使が時効の成立にとどまらず,将来の権利の失効までをも招致するのは,権利者において義務者が権利を行使しないとの強い信頼をもたらす行動を長年にわたって取り続けたことから,義務者において権利者が権利を行使するのであれば取り得ないような重大な投資等をしたなど,権利者の権利行使が法的衡平や法的正義の観点から到底是認できないような 特段の事情を要すると解すべきである。しかしながら,本件においては,被控訴人は,音楽教室のレッスンにおける演奏について,17年前から少なくとも控訴人ヤマハに対しては権利行使に着手しているのであるし,控訴人らについても,権利不行使に対する信頼を保護すべき特段の事情は見当たらない。」(48~49頁)

と、いかにも”常識的な民事法廷”という判示に留まったことについても、(理解はすれど)”残念”という思いはある。

ただ繰り返しになるが、これまでともすれば、「ラフに利用主体認定をするための手法」のような印象すら与えていたロクラク最判の法理を、原点に立ち返って、中立的な規範的主体認定のツールに引き戻した、という点で、この知財高裁判決には大きな意義があると思っている。

冒頭の日経電子版の記事が、

JASRACは現在、使用料を年間契約の場合で受講料収入の最大2.5%としており、判決が確定すれば利率の見直しを迫られる可能性がある。」

と書いているように、今回の「50:50」の判決が、実務に本当に影響を与えるのかどうかは、もう少し時間が経たないと何ともいえないところはあるのだが、できることなら、本件そのものは、何となく収まりが良く説明もつけやすいこの判決のレベルで止めていただいて、あとは政治的、ビジネス的な決着を図る方向で進める方が良いのではないか、と思ったりもしている*6

ということで、明日以降、今日の判決を受けた様々な議論が再び湧き上がることになるのだろうが、出遅れて何も書けなくなるよりは・・・ということで、今後の議論の発展が健全な方向に進むことを願いつつ、出たてでまだ湯気が立っているくらいの判決に生煮えのコメントを書かせていただいた次第である。

*1:当時のエントリーが↓。この時も判決当日付でエントリーを書いている・・・。k-houmu-sensi2005.hatenablog.com

*2:ブログではあまり取り上げられなかったが、唯一ご紹介した橋本弁護士のジュリストの記事(最近の法律雑誌より~ジュリスト2020年7月号 - 企業法務戦士の雑感 ~Season2~の最後の項目)でも、比較的強めの批判が向けられている。

*3:第4部・菅野雅之裁判長

*4:ただし、東京地裁判決が引用していたクラブキャッツアイ事件最判は、本判決では明示的には引用されていない。知財高裁は、被控訴人側がしつこいくらいに主張したにもかかわらず、本判決の中で「音楽教室」と「カラオケスナック」との間の明確な違いを指摘しているから、「クラブキャッツアイ最判」に対しては、本件に射程を及ぼすべき事例判決としては不適切、と判断したのだろうと思われる。

*5:さらに、一部で熱烈な(?)支持者がいたかもしれない「教師と生徒の人的結合関係は強い!」論に対しても「もとより,教師が生徒との間で個人的信頼関係を形成し,教室外で,音楽教室の指導を離れて生徒の教授に当たること等の個人的な結合関係を醸成することはあり得ることであるが,そのような過程で演奏が行われることがあるとしても,そのような演奏は,そもそも本件において審理の対象となっている音楽教室における演奏というべきではなく,当裁判所の判断の対象には当たらない。」(36頁)とバッサリで、この辺もやむを得ないことのように思う。

*6:最近の傾向からすると、最高裁がまた変なところで食いついて、業界関係者から見ると???という判断を下す可能性もないとは言えないが、本件に関しては(利用主体認定の問題に関する限りは)それもなさそうな気がしている。仮に最高裁に判断してもらいたいことがあるとしたら、22条の「聞かせる目的」の解釈くらいだろうが、わざわざ本件で上告を受理してまで判断する話か?と言えば、それはちょっと違う気もする。

もし雨が降っていたら、その半馬身差は逆転できたのだろうか?

土曜日は激しい雨の中で、続く日曜日は雨こそ上がったものの、出だしは各場ともに重い馬場で始まった今週末の中央競馬

元々、桜花賞トライアルをはじめとする牝馬のレースが多い時期ではあるのだが、今年はそれに加えてちょうどホワイトデー、ということもあって、信じた相手にどこまで貢げるかが試される(?)2日間でもあった。

まぁ、自分の場合、大体こういう時はダメで、土曜日の中山牝馬Sでは、どれだけぶちのめされても・・・という感じで応援し続けているシーズンズギフトが、またしてもチグハグ、後方で見せ場なく13着、と大敗を喫したし、日曜日のアネモネSでも、同じシルクでも勝ったのはリオンディーズ産駒のアナザーリリックの方で、エピファネイア産駒だから当然悪い馬場も得意だろう、ということで指名したベッラノーヴァは直線で伸びずに9着。

挙句の果てには、金鯱賞で断然主役を張るはずだったデアリングタクトまで最低人気・ギベオンの一世一代の逃げにクビ差及ばない、というまさかの展開となってしまうなど、まぁ散々だった。

で、牝馬が絡む2日間の東西メインレースの中で唯一惜しかったのが、フィリーズレビュー

人気になったのはヴィクトワールピサ産駒のオパールムーンだったのだが、朝の時点でまだ乾いていなかった馬場の状態も見据え、最近の追い込み一辺倒の脚質を嫌ってスルー。

九州産馬のヨカヨカにも多少は惹かれたものの、自分が指名したのは

アンブレラデート

新馬戦を勝ったのち1勝格を2戦して2着1回。戦績だけ見ると決して華やかではないのだが、この馬に関しては、母・ダイワスカーレット、ということだけで十分だろう。

これまで自分も追いかけてきた先行して粘れる脚質、エイシンフラッシュ産駒なので馬場が悪くても(悪い方が)走るだろう、という見込みもあった。

クラシックシーズン序盤で軌道に乗れず、クラシックとは距離のある3歳を過ごすことも多かったダイワスカーレットの他の子供たちとは異なり、この馬はデビュー勝ち。

前走の平場の1勝クラスのレースで勝ちきれず、賞金を加算できなかったのは痛かったのだが、それでも叩いて絞れた今年2戦目、母の血が目覚めてクラシック街道に乗ることができるかどうかの正念場だけに、どうしても推さざるをえなかった。

その結果、肝心のレースといえば・・・。

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